「………」

 ホド‐グランコクマ間を運行する定期船の一等客室で、ひとりの女性が窓枠に肘をついて昼間のコクマ海を眺めていた。ゆるくカールした眩いばかりの金髪を垂らすことなく、皆後ろにやって結い上げたその女性は、齢30半ばに達しようとしているにも関わらず肌も瑞々しく皺ひとつなかった。だが、彼女は己が持つ美点を晒そうとはせず、むしろベールの中に覆い隠していた。ほっそりと美しい肢体は地味な修道服に覆われて、彼女の素肌を一切晒しはしない。唯一明らかにされた面が窓の外に向かい、そこにあるものを見つめている。

 彼女は近付いている。
 彼女の瞳と同じ色をした、ホドの海とホドの空に。
 彼女を生み育んだ島に。

 彼女が、既に捨て去った島に。





「うへぁ、こりゃ酷いな」

 ヴェルフェディリオがげえ、と口を押さえるふりをしたが、無理もなかった。ホド島東南部、御三家の屋敷や噴水広場がある中央部より標高が高くなっている丘陵地帯の一角が事件の現場だった。ジグムント、ヴェルフェディリオ、アクゼルストのホド御三家の当主たちが揃ってやってきたそこには、咽返るような死臭が漂っている。初めに報告を受けたアクゼルストがふたりを連れて戻って来たのに気付くと、草原の上に折り重なる何かに黒ずんだ血で汚れた白い布を掛けて回っていたうちのひとりがこちらに向かって走ってきた。蒼天騎士団の騎士である。

「クニミツか。報告を頼む」

 騎士の敬礼を制して、ジグムントがそう促す。クニミツと呼ばれた騎士は、ははーっ、と返事をして膝をつき、兜を取った。蒼天騎士団の中でも古参で、普段は若い見習い騎士たちに癇癪気味に激を飛ばす老騎士の表情は、焦りと戸惑いに歪められていた。老騎士は3人に向かって口を開いた。

「野生のホドブウサギの惨殺死体です。数は八。いずれも刀傷で…血痕の乾き具合から察するに、やったのは昨夜のうちだと言うとります」
「ブウサギか。本土の野ブウサギは気性が荒々しく人間に危害を加えることもあると聞くが、ホドブウサギは天敵がいなくておとなしいはずだろう?」

 博識なヴェルフェディリオがすらすらと述べると、クニミツも同意して、「はあ、その通りです。ホドチーグルともきちんと住み分けしとりますものなあ」と不可解げに首を傾げた。本土から持ち込まれて野生化したホドブウサギも、東ルグニカ平野以外にはここにしか生息しないホドチーグルも、ともにおとなしく無害な草食獣であり、魔物には分類されない。ならば、何故こんな真似をしたのだろう。顔を見合わせる三人のうち、アクゼルストが、何ごとか言い淀んでいる様子で口をもごもごさせているクニミツに気付いて「他にも、気がかりなことが?」と聞いた。すると、クニミツはおずおずと口を開いた。



「その、刀傷なんですが。致命傷をゆうに超える傷がいくつも刻まれていましてですな。
 …まるで、怨恨かなにかの傷痕のようでして」



 クニミツは「ブウサギどもに恨みがあるわけでもなかろうに、不思議ですじゃわ」と戸惑いを隠さなかった。ホドの丘陵地帯に快い風が吹いていた。死臭が風下の市街地に行かないように、クニミツもまた作業に戻っていった。





「お母様!」

 声に応じ、弾かれるようにして目を開ける。そのとき始めて、自分が目を閉じていたことに気付く。ユージェニー・セシル・ガルディオスは自室の椅子に座ったままうたた寝をしてしまっていた。彼女はふいに息苦くなる胸を押さえた。胸が激しく上下に鼓動し、全身に嫌な汗をかいていた。ウンディーネリデーカンの月に入ったばかりなのに、身体が凍えるように震えた。どうにかそれを悟られぬようにして、ユージェニーは凍えを振り切るように首を振って自分を呼んだ少女に視線を合わせた。

「…お母様ではなくて、母上、ですよ。マリィベル」

 今年10歳になるユージェニーの実娘、マリィベルである。父親譲りの幼いながらも聡明そうな蒼の瞳がすこし伏せられて、はい、と少女は先程より元気をなくした声で返事をした。窓際のホド・マーブルの椅子に腰かけたユージェニーは、俯いたままのマリィベルを見かねて、「何か母上に御用があるの、マリィベル?」と問いかけてやると、娘はぱっと顔を上げて溌剌とした表情を浮かべた。

「母上、あのね。お庭のね、葉っぱがとっても綺麗なの。黄色くって赤くって、木の下に立つとね、ひらひら落ちてくるの。だから、母上も一緒にお外に行きましょうよ!」

 マリィベルが、母親の気を引こうと早口でそう捲し立てる。少女は話し終えると、そわそわした様子でユージェニーの返事を待っていた。ユージェニーは暫くマリィベルを見つめていたが、やがて「そうね」と言った。「いいわ、行きましょうかマリィ」。
 すると、マリィベルの表情にぱあっと笑顔の花が咲いた。「うん!行きましょう、ははうえ!」マリィベルが紅葉のような手を差し出してくる。いや。紅葉よりもずっと大きくなった。ユージェニーは迷うことなくその手をとる。マリィベルが途端にぐっと強く母の手を引っ張ったのにつられて、ユージェニーも半ば椅子から転げ落ちるように席を立った。窓の外では、背高のっぽの木が半ば葉を落としていた。ふたりは駆けだすようにしてユージェニーの自室を後にした。

 閉め切った部屋を後にして、ガルディオス伯爵邸の廊下をふたりで歩いていると、ユージェニーの手を引くマリィベルがくすっと笑った。どうしたの、とユージェニーは聞く。その声が、自分でもびっくりするくらいに柔らかだったことに胸の中で驚く。マリィベルはユージェニーを見上げて、言った。照れくさそうな笑顔だった。

「母上ったら、最近元気がなさそうだったから。断られなかったのが、うれしくて」

 マリィベルは気恥ずかしかったか、すぐにユージェニーから目を逸らしてしまう。言われてみれば、とユージェニーは思った。こんな穏やかな気持ちでいるのは、久しいことであるかも知れなかった。こうやってマリィベルのために時間を費やすのも。近頃屋敷の外に出るのがめっきり少なくなったような気がする。島でただひとつの大きな図書館に本を借りたり返したりしに出向く以外には…どうしてだろう。マリィベルと手をつないで一緒に歩いている間のゆるやかな時間では、どうして自分が半ば自室に閉じこもるようになってしまったのか分からなかった。いや、そんなことが気にならなくなるくらいにこの時間を愛おしく思えているのか。
 ふと、マリィベルが足を止めた。ユージェニーも同じようにする。食卓の間に差し掛かろうとしたときのことである。わずかに開いたその扉から、話し声が聞こえた。ひとつは聞き慣れたもの、もうひとつは、初めて聞く響きの声だった。だが、その声は前者のそれにどこか似ている気がした。ふいに、マリィベルがぎゅっと手を握る力を強くして、身体を寄せてくる。ユージェニーはそれを許して、扉の向こうに響く声に耳を傾けた。そこにいたのは―――





「どう思う?ジグムント」

 蒼天騎士団を率いて詳しい調査を続けるというアクゼルストを残して、事件現場を去ったジグムントとヴェルフェディリオは、ガルディオス伯爵邸に戻ることにした。その途上、ヴェルフェディリオはジグムントにそう問いかける。ジグムントは足を動かしながら、「どう、とは」と短く聞き返した。

「今回の事件だよ。例え気性のおとなしい野ブウサギだって言ったって、一匹や二匹じゃなく複数を殺してるんだ。しかも、刀傷だぞ?それなりの使い手だってことだ」

 ヴェルフェディリオはうーん、と顎に手を当てた。

「この島でまともに剣を扱えるのは、俺ら御三家の人間か蒼天騎士団の連中だろ。それ以外の可能性を考えるなら…まだ断定はできんが、犯人は外部の人間だ。そしてそいつは、今もこのホドにいるかもしれないんだぞ?」

 と、ヴェルフェディリオが言うと、即座にジグムントが「それは、有り得ない」と言った。「ホドは帝国との条約により武器の持ち込みを制限している。武器を取り扱う店舗は皆認可を得ているし、購入の際も私の許可が必要だ」。ヴェルフェディリオがじゃあ、と言って、お前んちの騎士団の所有してる武器をちょっくら借りてったってのは?と茶化して言ったが、そんなことが外部の人間にできるものか、との一刀のもとに切り伏せた。
 そのとき、ヴェルフェディリオの笑い顔が停止した。訝しむジグムントが「ヴェルフェディリオ?」と呼んだのに、数秒遅れて「あ、ああ」と応えた。それから、ふたりの間で会話が途絶えた。次に会話が再開したのは、ガルディオス伯爵邸がふたりの眼前に迫ったころ、その正門に一台の竜車が停まっているのに気付いたときだった。

「…要人訪問の報は受けていないが」
「だよなあ?それにしても、随分上等な竜車だな。お、車体に家紋が入ってるぞ?」

 ガルディオス伯爵邸の全景を臨む距離から、ヴェルフェディリオの言うそれを見つけようと目を凝らす。徐々に鮮明にその目に映り込むそれが何であるか理解した瞬間、ジグムントは息を呑んで駆け出さずにおれなかった。「お、おい、ジグッ!」ヴェルフェディリオの声が後ろで響いている。彼はジグムントを制そうと伸ばした手で行き場なくくっと空を握り込み、ため息をつくと、先を行くジグムントを追いかけて自分も走り出した。あのシスコンめ、と密かに悪態をつくことは忘れずに。



 ジグムントは高級竜車の隣を通り過ぎてガルディオス伯爵邸の門をくぐる。背後からヴェルフェディリオがそれを追いかけた。ジグムントの足取りは迷いなく大広間を抜けて、食卓の間に向かった。
 ジグムントと、少し遅れてヴェルフェディリオが食卓の間に足を踏み入れると、メイド長のフライヤが、竜車の主に仕えていると見えるメイドふたりが扉に振り返って驚きの表情を浮かべた。そして、その場にいた女性らの中でただひとりは突然のジグムントの登場を微動だにせず、長い金の睫毛を伏せていた。その女性は、ティーカップをかちゃりと置いて、ジグムントとヴェルフェディリオに向かって面を上げた。



 ガルディオスの金と、蒼。
 ジグムントに似ない、刀のように研ぎ澄まされた鋭利な眼差し。




「…ユリアナ姉上」




 ジグムントの実姉、ユリアナ・エルエ・ガルディオス。現姓をシェレクハルト。代々ローレライ教団の上層部の地位につき、教団の中で絶大な権力を持つ二家の内のひとつに嫁いだ姉がそこにいた。

「…姉上をお待たせしたようで、申し訳ない。事前に一報頂いていれば、島を挙げてお迎えしたものを」
「必要ありません。ホド島に立ち寄ったのも、儀礼上のこと。長居をするつもりはありません」

 ユリアナは悔いを覗かせるジグムントを一顧だにせず、そう切り捨てた。ダアトに嫁いだユリアナが最後にホドに戻ったのは、もう7年も前だ。滅多なことではホドに寄り付かないユリアナがホドを訪れたのは、7年前と同じ要因だろう。ジグムントがそれを問う前に、ユリアナは自ら口を開いた。



「私、妊娠したわ」



 ジグムントの表情がかすかに動く。「それは、おめでとうございます」と言って浮かべたそれが彼の喜びを表す表情であるとヴェルフェディリオは知っている、そして姉であるユリアナももちろん知っているはずだ。だが、彼女の表情は動かなかった。ユリアナの感情を乗せ忘れた声が、ジグムントの浮わついた心を見ないふりをして淡々と続ける。

「先程も言いましたが、ホドに留まるつもりはありません。長女のときと同じように、ホド諸島第三の島、グレニール島で過ごします」

 ユリアナの言葉に、ジグムントは目に見えて傷ついた表情をした。ユリアナの冷え切った蒼がジグムントを貫いて、動けなくした。ヴェルフェディリオがぐっと唇を噛み、メイド長のフライヤが心配そうに眉を寄せてガルディオスの姉弟を見比べる。
 ユリアナは変わった。血の繋がったジグムントだけでなく、ヴェルフェディリオやアクゼルストたちの面倒をよく見てくれた心優しい少女はもうそこにはいない。
 そこにいるのは、マルクト貴族の令嬢として他家に嫁ぎ、その義務を果たし続ける女性だ。

「私のことを気にかけるより、貴方自身のことを気にした方がいいのではなくて?ガルディオス伯爵」

 実の弟をそう呼ぶようになった姉に向かって、ジグムントは「何を仰りたいのですか」と聞き返した。感情を押さえこんだ声は、その場で随分と空虚に響いた。



「知れたこと。…ガルディオス家の跡継ぎ、未だ生まれないそうね」



 ジグムントの身体が、固まる。



「ユージェニー・セシル…でしたっけ、キムラスカから人身御供でやって来た貴方の妻は?長女が生まれたことは聞いているけれど、肝心の跡継ぎはまだなのでしょう?」
「………」
「貴族に女として生まれた以上、他家に嫁いで跡継ぎの男児を生むことこそが使命。それを理解しなさい。貴方も、貴方の妻も」



 ユリアナが口元を歪めて、笑う。それが、今の自分がするようになった笑みであると、ジグムントは気付いた。



「でも、哀れには思うわ。ユージェニーとやらも、遥々キムラスカから嫁いできたのがよりによって、ホドだなんてね。ホドは異常だわ。ホドを去った私には分かる。ホドは楽園なんかじゃない、ただの幻よ。それも、幾星霜もの人間を犠牲にして成り立つ、ね。その犠牲を、ホドに殉じたなどと言って正当化する。そんなの、ただの生贄よ」



 その時である。扉の外、屋敷の内部に続く廊下で、足音が聞こえた。急速にここから遠ざかっていくそれに反応して、ジグムントが、ヴェルフェディリオが扉に目を向けると、それが僅かに開いていることに気付いた。その先にいたのは、マリィベルであった。不安げに扉の中を覗いているその少女。そして、走り去ったのは。ジグムントはすぐに理解した。



「マトリカリアも、そう。哀れだわ」



 ユリアナは動かない。動かない、彼女に向かって、ジグムントは口を開いた。一度大きく開かれた口は、時間をかけてこう、動いた。違う、と。




「違う」




 ジグムントの言ったことに、ユリアナは少しだけ表情を揺らがせた。それは、驚きと呼んでいいものだった。ジグムントの背後に立つヴェルフェディリオもまた、驚いていた。ジグムントが、姉ユリアナに反論した。マトリカリアを失い、自身を見失ったジグムントが。




「今日のホドの礎となった人々…そしてマトリカリア、いや、マティ姉さんは、預言や定めだとかいうものに決められたのではなく、自ら己の未来を選び取った。自らの選択に誇りを持って、ホドを去っていったんだ。それを、哀れだなどということは許せない」




 私も、私の妻も、先人たちのように、自ら己の未来を選び取る。




 ジグムントは、そう言いきると、ユリアナに背を向ける。そして扉に手をかけた。その向こうに、手を差し伸べるべき人がいるのだ。



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