「…マリィベル」
扉の向こうにジグムントの一人娘が、マリィベルが立っていた。自分のそれより姉らによく似た色の髪を肩までで切り揃え、自分のそれと同じ色をした蒼い瞳をした少女は不安げにジグムントを見上げていた。ジグムントが彼女の名前を呼ぶと、マリィベルはお父様、と可憐な唇を動かした。
「わ、わたし、お母様にね、一緒にお外に行きましょうって…お庭の紅葉を一緒に見ましょうって言ったの。でも、でもっ、お母様、ここでお父様の話を聞いていて、ついさっきまでここにいたけど、私を置いて、部屋に帰ってしまわれて…」
途切れ途切れの声がそう紡ぐたびに、マリィベルの大きな丸い瞳から涙が滲んだ。宝石のようなそれを掬い取るように、ジグムントは娘の頬に手をやった。「マリィベル」と呼んだ声はとても静かで、直に伝わる温みがあった。すると、マリィベルの涙は不思議とすぐに止まってしまった。
「大丈夫。お母様のことは、お父様に任せて」
蒼と、蒼が向かい合う。本当、と聞いたマリィベルに、ジグムントは強く、本当だ、と返事した。「さあ、部屋にお戻り」と言った父の低くじんわりと温かい声に従って、マリィベルは踵を返した。マリィベルの足音が聞こえなくなってから、ジグムントは確と前方を見据えて歩き出した。向かう先は、ユージェニーの自室である。
「ユージェニー…居るね、ユージェニー?」
ノックと共に扉の向こうへ囁いた声に、返事は返らなかった。一抹の躊躇いを振り切って、ユージェニーの私室の扉を開ける。
カーテンを閉め切った明かりのない部屋で、ジグムントは視線を巡らせて妻を探す。彼女の姿はすぐに見つかった。天蓋付きのベッドにうつ伏せになって彼女が横たわっていた。フーブラス川近辺で稀に出現するピヨピヨの羽毛を余すところなく詰め込んだ最高級のクッションを抱きしめてそれに顔を埋めたユージェニーの表情はまったく伺えない。起きているかどうかさえ、分からない。ジグムントは、ユージェニーが今にも消えてしまいそうだと思った。彼女を守る白いシーツとクッションに塗れて、今にもジグムントの前からかき消えてしまいそうだと。そうさせまいと、ジグムントは口を開いた。ユージェニー、と妻の名を呼んだ。
「姉上との話を、聞いていたんだね。ユージェニー」
ユージェニーは、ぴくりとも動かなかった。衣擦れの音さえ聞こえなかった。だが、ジグムントは言わねばならなかったし、伝えたかった。ジグムントは怯まず口を動かした。
「姉上は、他家に嫁ぎ、跡継ぎの男児を産むことが…君の使命だと、そう言った。君自身、ガルディオス家に嫁ぎ、私と結ばれることが、最初から預言に詠まれていたのだと聞いている」
だけど、とジグムントは言った。
「私は…それだけが、私と君の存在意義ではないと思う。少なくとも、私の最も果たさなければいけない役目は、君を…誰よりも君を、幸せにすることだよ」
ユージェニーは、
ユージェニーは、応えなかった。しん、とした静寂がその場に落ちてきた。ジグムントは、静かに踵を返し、扉に手をかけた。ユージェニーに背を向けたまま、ジグムントは最後にこう言った。
「気分が晴れたら、外に出よう。マリィベルも一緒に。今年のホドも、紅葉が綺麗だよ」
ぱたん、と音を立てて、ジグムントが扉の向こうに消える。ひとり、残されたユージェニーは、苦しげに意味を成さない呻き声を上げて、クッションに埋めた顔を持ち上げた。その瞳には、何も映ってはいない。何も、何も。硝子玉のような空っぽな、空虚な一対のひかりがそこに収まっている。
その光の色は、
「…ご苦労。もう11年も前の資料だ、引っ張り出すのも骨だったろう」
「いいえ、そんなことはありません。では、これからキムラスカに発ちます」
「おう。例のこと、頼んだぞ」
ジグムントがユージェニーの私室を後にして、食卓の間に戻った時にはもうユリアナたちはいなかった。ユリアナに出したティーの片付けをしていたメイド長のフライヤに聞けば、ユリアナは既にホドを出たとのことだった。姉の物別れをしたことは不敬の至りだが、ヴェルフェディリオがうまくやってくれたろう。
そう考えて食卓の間を出、ガルディオス伯爵邸の大広間を抜けてふらりと出てきた中庭で聞こえたのが、このような会話だった。
ガルディオス伯爵邸の中庭、ホド・マーブルの石畳の上で会話しているふたりの内、ひとりはヴェルフェディリオである。もうひとりはカロレという青年で、5年前コクマ海で失踪したとされるマトリカリアの元部下であった。彼はマトリカリアと運命を共にし、公には行方不明とされマルクト・キムラスカに秘密裏に潜り込む任を負った密偵のひとりだった。やり手のマトリカリアを崇拝し、若いながらも有能で、マトリカリアが自ら見込んで傍に置いたホド出身の青年だった。主にキムラスカはバチカルで任務をこなす彼が定期報告のためホドに戻っていることは分かっていたが、ヴェルフェディリオが特別カロレと縁がある覚えはなかった。訝しみ眉を寄せたジグムントに最初に気付いたのはカロレで、彼はホド人によく現れる金髪と同じくらいにきらりと輝く笑顔を見せてこちらに向かってぺこりと頭を下げた。カロレに続いてジグムントに気付いたヴェルフェディリオが、一瞬ばつの悪そうな顔をして、次の瞬間にはへらりと形だけの笑みを作ってひらひら手を振る。
その反対の手に、一枚の書類が握られているのを、ジグムントは見逃さなかった。
ジグムントはふたりの元へ歩みを進めた。やがて、立ち止まり、ヴェルフェディリオが半ば隠すように腰の後ろで摘まんでいる書類を指さして、それは何だ、とジグムントが聞いたのを、ヴェルフェディリオははぁ、とため息をついて腰の後ろにやった手を身体の前に持ってきた。ヴェルフェディリオの手でひらりと揺れる一枚きりのその紙は、先程のふたりの会話によると、ヴェルフェディリオがカロレに頼んで手に入れたものらしい。示されたそれをジグムントは受け取って、目を通した。それが何であるかは、ジグムントにはすぐ分かった。ジグムントが目を見開くのと同時に、ヴェルフェディリオは口を開いた。
「ジグムント。例の事件の話だがな。お前、言ったな?外部の人間にゃ、あんなことは出来ないって」
ヴェルフェディリオは淡々と言葉を紡ぐ。ジグムントに向かって、ただ事実を物語る。
一枚の紙切れ、そこに書かれていたのは、
「…しかし、だ。俺たちは、見逃しちゃいないか?俺たち御三家や騎士団以外に、犯行に及ぶ可能性のある人物を」
ユージェニー・セシル。
その紙切れは、11年前キムラスカから寄越された、ホドにやって来る前のユージェニーの詳細が記された書類であった。
その瞬間、ジグムントはヴェルフェディリオの胸倉をがっ、と掴んだ。カロレが「ジグムント様!」と悲鳴じみた声でに叫ぶ。ヴェルフェディリオは焦燥する様子もなく、ただ冷え切った深海の瞳でジグムントを見つめていた。
「…我が妻を疑うか、ヴェルフェディリオ」
「…考えてもみろ。セシル家だぞ?『風神』に『クレイジーコメット』、『赤の男爵』、『牙漣』…そして、『鬼』。セシル家は、長年そういう化け物どもを輩出してきたんだ。ユージェニー様だって、その素質が眠っていないとは断言できない」
キムラスカ随一の軍人家、セシル家。
ヴェルフェディリオがすらすらと読み上げた異名の数々は、すべてセシル家の人間が冠したものだ。セシル家の勇名は、長くキムラスカと相対してきたマルクトにも当然伝わっている。中でもセシル家は、勇将・智将と言うよりも、個人個人の高い戦闘能力から名を上げたものがほとんどだ。その特徴は、狡猾かつ残虐。マルクト帝国勃興の際、キムラスカに占領された歴史のあるホドは長くキムラスカと敵対関係を続けてきたために、ホドが戦場でセシル家と相見えたことは一度や二度ではない。
そして、ジグムント自身も、戦場でセシル家と出会っている。
セシル家の歴史の中でも抜きん出た戦闘能力を持った女性軍人―――その異名は、『鬼』。
「ユージェニーも、『鬼の子』だと?」
そして、その『鬼』の実の娘にあたる双子の姉妹がユージェニー、その姉ジャクリーヌなのである。
姉妹のうちひとり、ジャクリーヌは生まれつき精神的な異常が見られ、セシル家の内部に幽閉されているという。そして、『鬼』の血を色濃く受け継いだ彼女は『鬼の子』と呼ばれるようになったのだ。
同じ双子として生まれたユージェニーが、姉ジャクリーヌのようにセシル家の先人と同じ性質を受け継いでいないとは言えないと、ヴェルフェディリオは言っているのだ。
「だから、カロレに命じてセシル家の調査をさせようとしているのか?その予感を確信に返る為に?」
ヴェルフェディリオは一瞬俯いて、口を噤んだ。迷っている表情だった。「それもある。だが、俺が本当に疑っているのは…」その時だ。ジグムントとヴェルフェディリオの間に、「止めて下さい!」とカロレが割って入った。ヴェルフェディリオの迷いに怪訝な表情を浮かべたジグムントは隙を突かれ、カロレの腕に容易く退けられた。
「セシル家の調査は、奥義会から命じられた任務でもあるんです。ヴェルフェディリオ様だけを責めるのはお止め下さい、ジグムント様!」
カロレの言葉を、ジグムントはどこか遠くから聞こえてくるような気分で聞いていた。ジグムントとヴェルフェディリオが見つめ合う。蒼と青が交差する。ヴェルフェディリオは、その言葉の先を言うつもりはもうないようだった。ヴェルフェディリオは無言のまま首元を正して、その場から立ち去った。カロレもまた気不味そうにぺこりと一礼して、去っていく。ジグムントだけがその場に残された。ウンディーネリデーカンに入ったばかりだと言うのに、風がやたらと冷たかった。雪でも振ってきそうな空だった。
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