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「私、男の子に生まれたほうが良かったのかも」

 主マリィベルがそう口にしたのを聞いて、ヴァンデスデルカは目を丸くした。父に言われて訪れたガルディオス伯爵邸で、自室にいたマリィベルがいつもの快活さが嘘のように影を差していることに驚いたが、それらを振り切るようにしてマリィベルは幼馴染のヴァンデスデルカを外に誘ったのだった。ガルディオス伯爵邸の中庭は今、紅葉の盛りである。ホド・マーブルの敷かれた石畳を除くすべての地面が紅や黄色に埋め尽くされ、足を踏み出すたびにふかふかとした心地がして気持ちが良かった。マリィベルは落ち葉の絨毯の上に腰を下ろし、ヴァンデスデルカもそれに倣った。ヴァンデスデルカが腰を下ろしたその瞬間、いつの間にか落ち葉をたんまり拾い上げたマリィベルが、5歳のヴァンデスデルカの頭上からそれをばっと落としたのである。「わあっ!?」驚いて落ち葉の絨毯にひっくり返ったヴァンデスデルカは、頭も背中も落ち葉まみれになってしまった。マリィベルはそれを見てくすくすと笑い転げる。落ち葉の絨毯の上に身を投げ出したマリィベルも、ヴァンデスデルカと同じに落ち葉まみれだ。ヴァンデスデルカも一緒になって笑った。
 「懐かしいわ」とマリィベルは言った。昔は、ひとつ違いのナイマッハ家のメルトレムとよくこんな風に遊んだものだ。そう言うと、ヴァンデスデルカはメルトレムが、と驚いた様子で言った。無理もない、とマリィベルは思う。メルトレムは、ヴァンが生まれたころから、いや、彼の母であるマトリカリアがコクマ海で行方不明になったときから、マリィベルとの接触を避けるようになった。マリィベルが5歳のときのことだから記憶は曖昧だが、マトリカリアはマリィベルにとって叔母のような存在であり、よくマリィベルに剣の稽古をつけてくれたものだった。女神のように美しく、勇敢な騎士だった、とマリィベルは思い返す。偉大な母を失ったメルトレムの想いを推し量ることは難しいが、マトリカリアのみならずメルトレムまでもがマリィベルから離れていったのは幼心にも寂しかった。メルトレムの弟であるエルドルラルトも同様だ。
 そうやって想いを巡らせていると、知らずマリィベルの表情は沈んでいた。傍らのヴァンデスデルカが、「マリィさま?」と呼んだときやっとマリィベルは我に返り、そして冒頭の言葉を口にしたのだった。
 わからない、と言いたげに首を傾げたヴァンデスデルカに、マリィベルは今にもくずおれそうに微笑んだ。

「お父様とお母様、悩んでるの。ガルディオス家の跡取りがまだ生まれないって。でもねヴァンデスデルカ、もし、私が男の子として生まれていたら、お父様とお母様を困らせることはなかったでしょ?」

 でも、私は女の子だから。

 ヴァンデスデルカは、きっとわからないだろう。まだ小さいから。わからなくていい、とマリィベルは思う。ヴァンデスデルカまで、困らせてしまいたくはなかった。
 ヴァンデスデルカは、ぽかんとして二対の青でマリィベルを見つめていたが、途端に絨毯から起き上がって「だ、だめです!」と叫んだ。目を丸くするのはマリィベルの番だった。ヴァンデスデルカは、慌てて口を動かした。




「マリィさまの髪も、目も、お姫さまみたいにお綺麗なのに。女の子じゃなかったらなんて、もったいないですよ!」




 あ、とヴァンデスデルカはぴたりと口を動かすのを止める。それから「で、でも、男の子であらせられても、お綺麗なのはきっと一緒ですよね!」と言った。幼いヴァンデスデルカが、主の笑顔を取り戻そうと必死になっているのが健気だった。起き上がったマリィベルは、まだ何か言葉を探しているヴァンデスデルカをぽかんとして見つめていたが、やがて彼女は微笑んだ。ちょうど中庭の花壇に咲いているマリーゴールドのような、輝くような笑顔だった。



「ありがとう、ヴァンデスデルカ」



 言って、彼女はヴァンデスデルカの鼻先に張りついた落ち葉を取り払ってやった。そして、ふたりはまた絨毯の上で笑い転げたのだった。





「…一人きりほど、苦い味わいはないな」

 ガルディオス伯爵邸、中庭。
 ホド・マーブルの石畳のテラスに設置されたパラソル付きのテーブルで、ジグムントは一人きりのティータイムを過ごしていた。いつもなら、ジグムントの隣で花開くような笑顔を浮かべる妻ユージェニーは今、ここにいない。姉ユリアナとの会話を彼女に聞かれてから、2週間が経過している。その間、ユージェニーと言葉を交わす機会は終ぞなかった。自室で食事を取るようになったのもその日からで、顔を合わせることすらない。ジグムントはユージェニーに歩み寄りなおす機会を見出せずにいた。
 まるで、11年前に戻ったようだとジグムントは思った。ユージェニーがキムラスカからやって来て、それを退けてしまったあのときに。今思えば、自分は何とむごいことをしたろうか。ユージェニーはただの少女だった。彼女からすれば敵国であるマルクトに否応無く嫁がされてきた、ただの少女だったのだ。海さえ見たことがなかったあの少女に、自分は何と言葉を吐いたのか。
 はーっと重く息をつくと、傍らに佇むガルディオス家のメイドのひとり、カヤが心配そうに視線を寄越した。ジグムントはそれに気付くとゆっくり彼女に目をやって、大丈夫、と微笑んだ。すると、カヤはあかがね色の髪を揺らせて微笑み返し、空になったティーカップに替りを注いでくれた。カヤはユージェニーが嫁入りする少し前に16歳でホドにやってきており、今年で27になる。ガルディオス家の使用人の中では中堅といったところだ。キッチンメイドとして働き始めた彼女だが、今では給仕や来客の取り次ぎなど、人前に出る仕事にも従事するようになった。ドジっこなところもあるが、メイド長フライヤや先輩メイドの言うことをよく聞く子だ。彼女の素直な笑みはジグムントの心を僅かなりと癒してくれた。「ありがとう」とジグムントが言うと、彼女は「どういたしまして」と恥じらい交じりに華やかに笑んだ。
 そこに、石畳を踏む靴音があった。それが軍靴であることは、ジグムントにはすぐ分かった。靴音のする方へ視線をやると、ナイマッハ家のペールギュントが歩いてくるのが見えた。こちらに気付いたのを知って、ペールギュントが小さく一礼し、歩みを進める。ジグムントはもう一度傍らのカヤに目をやって、ペールギュントの分もカップを用意するように言った。カヤがそそくさと屋敷の中に戻っていってから、ペールギュントがジグムントの元に辿りつく。その手に握られているのは、一枚の上等な羊皮紙である。マルクト帝国の皇室が使用する、正式な書状であった。

「今朝がた帝都からの鳩で届きました。陛下からの親書です、ジグムント様」

 ジグムントは恭しく差し出されたそれを受け取り、目を走らせた。そこに書かれていたのは、ガルディオス伯爵ジグムント・バザンの参内を命じる旨であった。ジグムントは御苦労、とペールギュントを労わり、席につくように促した。ペールギュントはそれに従った。

「今回の一連の事件が、皇帝の元にも届いたということか」
「そうでしょうな。2週間前の野ブウサギ、10日前のチーグルの群れ…そして先日の鶏小屋。3件もの連続した事件に、説明を求められることは間違いない」
 ジグムントが動けずにいた2週間の間も、事件は動いていた。
 野ブウサギの惨殺事件から4日後、チーグルの群れが野ブウサギと同じように刀傷で切り殺されているのが発見された。そして、一昨晩はとうとう野良の動物ではなく鶏農家のシャークという老爺の島民が所有する家畜に被害が出たのだ。1件目、2件目の事件は被害にあったのが野良だったこともあり御三家の間で内々に処理されたのだが、3件目の事件が起ったことで先の事件もまた明るみに出、島民たちに不安が広がっていた。そして、ホドに現れた不穏な影の噂は海を越え、ついにマルクト皇帝の耳に入ったということだろう。

「…分かった。明日にでも、帝都に赴こう」
「では、其も参りましょう」
「いや、ペールギュント。貴方にはホドを頼みたい。左右の騎士と共に、これ以上の被害が出ないように努めてくれ」
「しかし!」

 ジグムントは首を横に振った。ぐ、と口を引き結ぶペールギュントに、ジグムントは「何よりも、貴方に頼みたいことがある」と言った。「ユージェニーのことだ」。
 ペールギュントは一抹の疑問を抱いてジグムントを仰ぎ見た。ジグムントもまた彼女に、ユージェニーに疑いを抱いているのかと。それほどに、ユージェニーを信じられなくなってしまったのかと。その疑問はすぐに取り払われた。ジグムントは二対の蒼でまっすぐペールギュントを見据えて、言った。



「ユージェニーは今、暗闇にいる」



 ジグムントの蒼が、ペールギュントの碧を貫く。



「それを打ち払うのは、夫である私の役目だ。それまでは、貴方にユージェニーを守ってほしい。貴方が、ホドが、彼女を守ってやってほしい」



 頼む、とジグムントは言った。ペールギュントはゆっくりと深く首肯する。承知致しましたぞ、とペールギュントが答え、ジグムントが頷いた。新しいティーポットとティーカップ、それから茶菓子を乗せた銀製のトレイを持ったカヤの足音が聞こえてきた。





 ぱたん、と扉が音を立てたのに反応して、ヴェルフェディリオは背もたれに項を預け、逆さまの視界にそれを映す。無理な体勢で一瞬薄らぼんやりとなった視界が捉えたのは、セクエンツィアだった。「おかえり」と出迎えの言葉をやれば、一呼吸遅れて「ただいま帰りました」と答えが返る。その表情は暗く、沈んでいた。どうだった、とヴェルフェディリオは問いを投げて、フェンデ邸の食卓の椅子に座りなおした。セクエンツィアは同じように席について、沈みこんだ声で言った。

「だめ、でした。ユー、私がどう話しかけても、ずっと上の空で」
「お前でも駄目、か」
「…ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。お前は悪くないし、お前が今思ってるように、奥方様の力になれない役立たずでもない」

 そう慰めてやっても、セクエンツィアはぎゅっと引き結んだ口元の結び目を解かなかった。ユージェニーが自室に閉じこもるようになってから、セクエンツィアはこうしてずっとユージェニーの自室に通っていた。まだジグムントとユージェニーが和解していないころのように。だが、ユージェニーはあの頃とは違う。セクエンツィアとだけは笑い合い言葉を交わしたあの頃とは違い、今のユージェニーはセクエンツィアにさえ心を閉ざしている。
 消沈したセクエンツィアが、ようやっとヴェルフェディリオに応えてはい、と返事をする。彼女は緩慢な仕草で顔を持ち上げた。そして、彼女はヴェルフェディリオの手に握られているものを見る。それは、一枚の紙切れ。ヴェルフェディリオが既にキムラスカに発ったホドの密偵カロレに言って探し出させた、ユージェニーについて記された書類である。セクエンツィアは、テーブルの上に置いた拳をぐっと握り込んだ。

「ヴェリオさまも、ユーを疑ってるんですか」

 ヴェルフェディリオは、答えない。瞬間、頭がかっと熱くなって、セクエンツィアは両の拳をだんっ、とテーブルに叩きつけた。テーブルの上の砂糖瓶がカランと音を立てた。




「ユーは…ユーは、そんなことできるような人じゃありません!私みたいな身分の人間でも平等に扱ってくれる、優しい子なんです!ホドのことを大好きでいてくれる、私のいちばん大切な、ともだちなんです!!なのに、ヴェリオさまも、奥義会の人たちも、皆ユーを疑って!そんなの、おかしいですっ!!」




 立ち上がったセクエンツィアは、主であり夫である人に向かってそう感情をぶちまけると、ずるずると、身を引き摺るようにして元の席に座り込んだ。おかしい、ですよ。泣きごとのようにセクエンツィアの唇が囁いた。

 おかしい。

 何かが、おかしい。ヴェルフェディリオも、そう考えていた。セクエンツィアとは、きっと少し違うふうに。
 ヴェルフェディリオが持ち帰った、ユージェニーのことが記された一枚の書類。そこにはキムラスカ王室の判が押されており、それが正当なものであることは明らかだ。だが、そもそもここからがおかしい。そこに書かれているのはユージェニーの名、生年、家族構成、そして18歳までキムラスカ貴族たるセシル家で大切に育ててこられたことが書かれている。それだけ、だ。結婚相手であるガルディオス伯爵に送られてきたのは、この紙切れ一枚きりの情報だけである。それは余りにも、少なすぎる。
 この書類に記された以外にホドが彼女について知り得たこと、すなわち彼女の生家・セシル家がキムラスカ随一の軍家であること、彼女の母親が『鬼』と呼ばれヴェルフェディリオやジグムントも対峙したことのある武人であったこと、その娘にあたる姉妹のうちひとりが『鬼の子』と呼ばれセシル家に幽閉されていること。それらすべては、ホドの情報網により知り得たことだ。

 …それが、真実でなかったとしたら?

 その言葉は、ヴェルフェディリオの思考の道筋にぴかりと輝きそれを照らした。どうして、今まで思い至らなかったのだろう。一枚きりの書類に書かれたことが真実であると、どうして疑わなかったのだろう?ホドの知り得たことが真実であると、どうして疑わなかったのだろう。

 それでは、彼女は何者だ?



 『鬼の子』は、誰だ?



 ヴェルフェディリオは、セツィ、と妻を呼んだ。セクエンツィアは緩慢な仕草で面を上げる。その瞬間、ヴェルフェディリオは彼女の肩を両手で掴んだ。「きゃっ!」と短く悲鳴を上げる彼女を気遣う余裕がない。ヴェルフェディリオはセツィ!ともう一度呼んだ。彼は上手く回らなくなる舌を必死に動かして、言葉を紡いだ。



「セツィ、俺だってあの人を疑いたくなんてない。あの人がこんな事件を起こせるような人だなんて、誰も思っちゃいない。おかしいんだ、何かが、おかしいんだ。俺らの知らない何かが、動いてるんだ。セツィ、ユージェ二ー様の振舞いで、おかしかったこと、不自然だったこと、違和感を抱いたこと。何でもいい。お前の知ってることを教えてくれ。ジグムント以外で、ユージェニー様の最も近くにいるお前だからこそ分かることがある筈だ。教えてくれ、セツィ!」



 ヴェルフェディリオはセクエンツィアの肩を前後に揺さぶった。セクエンツィアの新円の形になった瞳が揺れる。菫色のそれがヴェルフェディリオを見据える。やがて、セクエンツィアの唇が自然とこう動いた。




「…ユーの、目のいろ、」




 それは、セクエンツィア自身も予期しない言葉だった。セクエンツィアの脳裏に甦るのは、11年前、ガルディオス家の結婚披露宴。ジグムントに罵られ、披露宴を抜け出したユージェニーを追いかけて彼女に宛がわれた寝室を訪れたときのことだ。初めてセクエンツィアが彼女と視線を交差させたときのこと。セクエンツィアは、見ていたのだ。彼女の小さな、しかし確かな変化を、既に目にしていたのだ。




「赤、かったんです」




 藍から深紅に変わる、その瞳を。



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