キムラスカは王都バチカル、巨大譜石の落下によってできた地面の窪みを利用して作られた幾層にも分かれた要塞都市のうち上流貴族の住居区となっているエリアに、ホドの密偵カロレはいた。時刻は既に日を跨ぎ、彼以外にバチカルの夜を歩くものはない。カロレは素肌にぴったり張りつく黒手袋の袖をきゅっと引きなおして、2メルトルほどある白煉瓦積みの塀に勢い良く飛び付いた。カロレの履いた底の浅いブーツの靴裏が白煉瓦の壁を蹴り、カロレの身体が浮き上がる。そして彼は見事塀を登り切った。彼は息を休めることなくそこから屋敷の敷地内に飛び降りた。

「ふぅ。ここが、セシル家か」

 カロレが侵入を決行したのは、ユージェニーの実家であるセシル家である。セシル家の屋敷の外観や内部図は既に日中で調べはついていた。ただひとつ、カロレが首を捻ったのは、セシル家の敷地の中で今カロレがいる辺りのエリアだった。カロレは辺りを見回した。
 セシル家の館の裏側にあたる場所に、だだっ広い空間があった。青々とした芝生の絨毯に突き刺さるようにして、真っ白い塔が立っていた。それは、初めて目に映したときは違和感なくその場に調和して見えるが、落ち着いてみればどうしてそこにあることが許されるのかと思うほどに違和感を醸し出す存在だった。聳え立つそれはセシル家の本館とはまったく違う存在に見えた。外観も、内装も、使用人の数も、ごく一般的な貴族がもつにふさわしいものを所有するセシル家が、ただひとつ抱え込んだ、矛盾。カロレは孤塔に向かって足音もなく歩き出した。不気味な程に静かな夜のことだった。
 白磁の階段を昇る。長い階段の途中にいくつか設けられた石窓から月明かりが差し込んで、カロレを照らす。そこを過ぎれば、カロレの姿はまた闇に消えていく。そしてまた石づくりの窓が現れてと、そんなことを幾度か繰り返すと、開けた空間に出た。白という一色で構成されたその空間に、同色の扉があった。カロレはそれに手をかけて、一気に開く。
 塔の最上階に小さな部屋があった。鳥かごのようだ、とカロレは思った。そこを埋め尽くしていたのはホドと同じ白であったけど、カロレが慣れ親しんだそれとはまったくの別物だと感じた。うまく言い表せないが、そこにある白は豊かさと温かみを醸す白ではなく、空虚さと冷たさを感じさせるそれだったのだ。今カロレの立っている白磁の床でさえ、今にも崩れ去っておかしくなかった。カロレは一歩踏み出して、鳥かごのような白に囚われそうになる自分を解放する。一歩、また一歩踏み出すと、カロレは見失いかけた自己の感覚をひとつずつ取り戻した。カロレは部屋の真ん中までやってきたところで立ち止まった。
 孤塔の最上階にあたる一室は、風化してはいるものの確かに何者かが生活していた跡があった。こんなところに閉じ込められた人間が、正常な意思を保てるだろうか。カロレは胸のあたりをぶるりと震えさせた。そこで気付いたのが、大量の本が納められた本棚にも、ベッドにも、長い間使われた様子はないのに埃ひとつ見当たらないことだった。誰かが手を加えているのだろうか。ここから去った誰かを想うように、この部屋を保っているのだろうか。

 そして、彼は見つけた。彼の正面に向かうところに、シンプルながらも美しい白のカーテンを備え付けた窓がある。両脇にまとめられたカーテンの下にあったのは、陶器製の白いデスク。カロレは歩を進めて、その引き出しを開いた。自分がなぜ、迷うことなくそうしたのかカロレには分からなかった。カロレは引き出しの中にあるものを迷わず手に取った。

 それは、細い紐でひとつにまとめられた手紙の束だった。古いものもあったし、新しいものもあった。一番下に位置しているものなどは、風化して茶色く変色していた。その中で最も新しいものは、手紙だけでなく、両掌に乗るくらいの包みが同封されていた。カロレはそれを拾い上げて、流麗な字で書かれた宛名を読んだ。




 ユージェニー・セシル




 差出人の名前はなく、宛名だけがそう書かれていた。そのひとつひとつの手紙は、投函された印のスタンプは押されているのだが、ユージェニーの元には届かず、ここにある。何らかの理由で、ユージェニーに届けられる前に差し止められ、ここに戻されたのだろうか?ならば、その理由とはなんだろう。それは、この手紙がユージェニーに届けられてはいけなかった手紙であるからではないだろうか。キムラスカの政略にとって許されない内容、もしくは差出人自体がそうであると。



 例えばそれは、ユージェニーを懇意に想う相手からだったとしたら。



「…っ!?」



 その瞬間、カロレはゾクリとした悪寒に襲われた。背筋を走った電撃のようなそれに、カロレは振り返る。懐の短刀に手を添えることが、カロレにはできなかった。カロレの手は短刀の束の切っ先に触れたまま動けない。カロレの二対の碧が激しく揺れた。全身から冷や汗が流れた。カロレは動けなかった。カロレを貫いた絶対的な恐怖が彼を動かせなかった。

 しかし、振り向いたそこには誰もいない。

 カロレの身体が再び動くようになるまで、どれほどの時間がかかったか分からない。それは一瞬のことだったかもしれないし、何時間ものことだったかもしれない。自分の身体が動けるようになった瞬間カロレがやったのは、即座にデスクに向きかえり、引き出しに納められた手紙の束を掻きいれるようにして懐に収めることだった。カロレの手は自分の意識とは無関係に動いた。そうせねばならぬと、カロレは震える手を動かした。すべてのそれがカロレの懐に収まると、カロレは弾かれるようにして白磁の床を蹴り、その場を立ち去った。カロレの去った孤塔の一室に、空っぽになった引き出しが残された。





 深紅のひかりだけが、それを見ていた。





 マルクト皇帝カール5世との謁見を終え、退出を許されたジグムントは、謁見の間へと続く大扉がバタリと音を立てて閉まると、深く息をついた。
 カール5世との謁見は短時間で終了した。ホド島で起きている一連の事件を早急に解決し、マルクト皇民に被害を拡大させるのを防ぐこと―――ホドがマルクトの支配下にあることを言い添えるのは忘れずに―――が伝えられただけで、謁見は終わった。皇帝は昨今息子たちとその支援者の帝位継承権争いに辟易しているということだから、ホドで起こった一連の事件を気にかける余裕がなかったのかもしれないが、ジグムントはひとり胸を撫で下ろさずにいられなかった。今回のグランコクマ参内は、ホドの外交を取り仕切って来たマトリカリアが失われてからはじめて、供を連れずジグムント一人で訪れたものである。自分の一挙一動がホドの未来を左右する、その事の重大さがジグムントに改めてありありと感じられた。

 姉マトリカリアは、ジグムントの代わりにその重荷を背負い続けていたのか。
 それでも、あの女神然とした美しさと勇敢さを持ち続けたのか。
 ジグムントは、彼女に驚嘆を抱かずにおれなかった。

 帝都グランコクマは、譜術の制御により街の隅々にまで水を張り巡らせた海上都市だ。帝国創設時代に築き上げられたそれは、グランコクマを『水の都』と呼びたらしめている。こうして宮殿の中を歩いていても、どこかから涼やかな水音が聞こえてくる。ジグムントはホドの空と海とその境を、蒼と青と碧をこよなく愛していたが、グランコクマのそのような雰囲気を気に入っていた。歩きながら耳を澄ませていると、自分の足音が水音と調和して、ハープの弦を弾く音のように聞こえてくる。ジグムントは、無意識のうちに水音の聞こえるほうへ足を向けていた。水音が聞こえている。ポロン、とハープの弦が弾かれる。
 グランコクマ宮殿には、謁見の間と同様のガラス張りの造りを備えた開けた空間がある。謁見の間ほどではないが、街を取り囲むようにして建設された水道橋が作り出す見事な滝と虹目当てに謁見を申し込む一般市民が代替にとその景観を楽しむ場所であった。ジグムントが足を止めたのは、そこだった。時間帯のせいもあってか、ジグムント以外に人影はない。



 いや、
 一人だけ、いた。



 真紅。青を基調としたガラス張りの向こうを見つめる、赤い髪の人物。体格からして、男性だろう。腰まで伸ばした赤い髪は、輝かんばかりの白い礼服と対比している。ジグムントは、もの言うための喉を奪われた気分だった。それほどまでに、その真紅はジグムントを引き寄せた。



「私に、何か?」



 ジグムントはその声が自分に向かって発せられたものだとしばらく気付けなかった。はっとして我に返ると、赤い髪の男が振り返ってこちらを見つめ返していた。その瞳は、宝石のような、緑。何か答えを返さなければ、とジグムントは焦りを浮かべる。考えるより先に、舌が動いていた。ジグムントは赤い髪の男にこう言っていた。



「貴方の髪が、余りにも赤いから」



 男は、きょとんとした顔でこちらを見ていたがやがて、何だそれは、と言って苦笑してみせた。ジグムントは、本当だ、と思う、本当だ。何だ、それは。ジグムントにも笑みが浮かんだ。緊張が解れたジグムントは、表情を引き締めて口を開いた。



「私はジグムント・バザン・ガルディオス。位は伯爵。
 …キムラスカの王族に連なる御方とお見受けする」



 水音が聞こえていた。涼やかなそれが、男とジグムントの間に降り注いだ。キムラスカの正当な王族に特徴的に現れる真紅の髪の男は、如何にも、と口にした。




「我が名はクリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ」




 ファブレ公爵にしてキムラスカ王国軍元帥クリムゾンと、ガルディオス伯爵にしてホド島領主ジグムント・バザンの邂逅である。





「ユージェニーは元気かね」

 クリムゾンに、良ければグランコクマ港まで自分の竜車にお乗せするがと申し出られたのを、ジグムントは素直に了承した。キムラスカ国王インゴベルト6世の名代としてグランコクマを訪れたクリムゾンは、皇帝との謁見を既に終えて、帝都の港からケセドニアを経由して王都バチカルへ戻る予定だと言う。キムラスカの誇る譜業技術を取り入れた竜車は空調設備が整っていて、居心地がいい。かと言って、物珍しげにキョロキョロ視線を巡らすのも不敬に想われて、ジグムントは隣席のクリムゾンの様子を伺いつつも、口をきちりと引き結んでガラス越しの御者の背中を見つめていた。ジグムントと同じように口を噤んだクリムゾンの唇が開いたとき、ジグムントは直ぐにそれに気付いて彼の横顔を凝視した。
 クリムゾンが口にした名前が、ジグムントの舌に良く馴染んだ名前であることに気付いたとき、ジグムントは「我が妻を、お知りで?」と返していた。彼女を名前でなく、自分と彼女の関係性を表す言葉が咄嗟に口を突いて出たのは何故だったろう。
 その赤い髪の男は、唇の端をくっ、と歪めて端正に笑った。それは皮肉げにも見えたし、大切な過去を懐かしく思い起こしたようにも見えた。



「ああ。知っているとも、誰よりもね」



 そう、クリムゾンが口にした瞬間、ジグムントの中で不可思議な現象が起った。炎のようなものがヴォウッと音を立てて発火したのだ。それは、酸素を得た火が一瞬に燃え上がるような衝動だった。この感情の昂りを、何と呼ぶべきかジグムントにはまだ分からなかった。その昂りは刹那的で、直ぐにジグムントの胸は平常のような小波の如き穏やかさが戻ったが、ジグムントは暫く己が内に燃えあがったそれを持て余すほかなかった。
 ジグムントを現実に引き戻したのは、クリムゾンが次に口にした、「それで、貴公はユージェニーをどう持て余しているのだね」という言葉だった。

「それは、どういうことか?」
「知れたこと。敵国から生贄として差し出されてきたユージェニー・セシルをどう扱っておられるのか、という話だよ。軟禁か?それとも、領地内のどこぞの孤島に送ったか?」

 クリムゾンの並べ立てた言葉は、ジグムントの頭を冷やさせた。「あなたは勘違いをなさっている、ファブレ公爵」とはっきり口に出来たのはその証拠だ。クリムゾンが少しだけ驚いた顔をして、ジグムントを見た。

「ユージェニーは、既に我がホドの人間だ。彼女自身もそう、考えている。彼女は我が左右の騎士とその家族にも親しいし、島民の信頼も厚い」

 ジグムントの口にしたことはすべて、真実だ。ユージェニー手ずから腕を奮った菓子は島民たちを湧き立たせるし、ユージェニーもそれを喜んでしばしばガルディオス伯爵邸に島民を招く。今年で5歳になるヴェルフェディリオの息子、ヴァンデスデルカがセクエンツィアのお腹にいると分かったときなどは、ジグムントの不在にも関わらず自ら島民たちを招いて大宴会を開いたという。そこに自分がいなかったこと、それから特別に取り寄せたとっておきの白ワインを開けられたことに歯軋りしたものだ、と5年前の出来事を思い返していると、クリムゾンの笑い声が耳を打った。ハハッ、という、心底可笑しそうな笑いだった。

「これは驚いた。ガルディオス伯爵、貴公は彼女が自らに害を成す存在であると思わないので?いつ裏切るともしれない女を、野放しにしていると?」

 もう一度笑い声を上げたクリムゾンの横顔に、ジグムントはまっすぐな視線を突きつけた。「もう一度言う。ユージェニーはホドの人間だ。彼女を警戒する理由は何一つない」。端正な顔立ちを崩さないそれを、ジグムントは貫けるものなら貫いていただろう。クリムゾンは嘲笑をやめた。彼の双眸が自らを捉えるのを、ジグムントはスローモーションで見ていた。魅入られそうな緑が細められて、ジグムントを眼下に映した。



「ユージェニーが、既にホドの人間だと?」



 ゾクリと粟立つ肌をジグムントは黙殺した。ジグムントは無意識のうちに膝の上に置いた利き手を逆の手で覆おうとしていた。それが震えているのに気付かれないように。だが、ジグムントは宙に浮かべた左手を静止し、利き手と同じように膝の上に戻した。ジグムントはぎゅっと両の拳を握り込んだ。



「そう断言するのなら、貴公はユージェニーの中に流れるキムラスカの血をすべて抜き取って、マルクトの血を流しこんだとでも言うのか?ガルディオス伯爵」
「彼女が何者であるか決めるのは、血ではない。彼女がホドを愛し、愛されたからこそ、ホドは彼女を受け入れたのだ」
「詭弁だな。貴公が何を言い張ったところで、彼女の中に流れる血も、彼女の上にある預言も変わりはしない」



 ジグムントは、クリムゾンと真正面から対峙していた。ジグムントは己がなにか偉大なる意志とともにあるように感じていた。それがジグムントの蒼にクリムゾンの緑と立ち向かわせる力を与えていた。光そのもののようなそれは、溢れ出る泉のようにジグムントを押し立てた。その光は、ジグムントと共にある。そしてこの身を輝かせる。

 マトリカリアも、こうやってあらゆるものと対峙してきたのだろうか。
 そう、思えた。

 クリムゾンの表情は歪んでいた。細められた緑がジグムントを睨みつけていた。語り始めとは打って変わった、苛立ち混じりの声で吐き捨てた。




「貴公が詭弁を弄した所で、未来はひとつ。預言の語るそれだけだ」
「そう、未来はひとつだ。ただし、それは我らが選ぶ未来という名の、だ」




 蒼が、緑が、互いを映す。先に目を逸らしたのは、緑だった。

 クリムゾンがさっとジグムントから視線を外して、唇を噛む。ふたりの間に沈黙が落ちた。ガタガタという竜車の車輪の立てる音だけが聞こえていた。ジグムントは、御者の背中に視線を戻した。そして、口を開いた。




「私は、ホドに訪れるすべてを受け止める。ユージェニーも、ユージェニーがもたらすものも…そして、あなたであろうと同じことだ、ファブレ公爵」




 それは、誓いのような言葉だった。ガタガタ、と車輪が立てる音に合わせるように、しかしはっきりと、クリムゾンは言った。「私は認めない。貴公は、下らぬ理想家だ」、車輪の音が止まった。御者が御者台から降りて、竜車の扉を開いた。




「それを、直ぐに理解することになるだろうよ。他ならぬ、彼女によって」




 ギィ、と扉が開いて、クリムゾンの言葉の最後を引き取った。降りられよ、とクリムゾンは言った。ジグムントは竜車に乗ったときと同じように、大人しくそれに従った。



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