ルビアを殺したのはお前だと言われたとき、ユージェニーは信じられなかった。
ルビアはユージェニーの友だちだった。小粒のルビーを嵌めたような赤く美しい瞳をした鳩だった。いつしかユージェニーの部屋の小窓に訪れるようになったルビアに、朝食の残りのパンくずをやるのがユージェニーの日課だった。いつもならユージェニーが朝食を食べ終えたころ、可憐な嘴でコツコツと窓ガラスをつついてパンくずをねだるルビアが姿を見せないのを不思議に思って、ユージェニーは朝食のトレイを下げにやってきたメイドに聞いたのだ。すると、メイドはこう答えたのだった。ルビアは塔の下で死んでいたと。それをやったのは、ユージェニーだと。
メイドが去った後、ユージェニーはふらふらとベッドに倒れ込んだ。覚えていない。メイドの言ったことが真実だなどとユージェニーには思えない。だが、ユージェニーの脳裏にメイドの表情が甦った。仮面を被ったような顔。感情を乗せない顔。その双眸の奥に浮かんでいたのは、確かな侮蔑だった。ユージェニーを憐れみながらも、それが当然だと断言する、物言わぬ感情の発露。ユージェニーは柔らかいピローに顔を埋めて嗚咽を漏らすことしかできなかった。ユージェニーは怖かった。メイドがユージェニーを見下ろすのが怖かった。メイドがそう考えているように、ユージェニーにとってもあのメイドはユージェニーとは別の世界に存在する事物だった。メイドはそれを侮蔑し、ユージェニーはそれを恐れたのだった。
そのとき、シーツの上を寄る辺なく彷徨う右手が何かにふれた。こつん、と音を立てた、冷たい金属性のそれを、ユージェニーの手が手繰り寄せた。ユージェニーは両手でしっかりとそれに触れ、握り込んだ。ユージェニーは涙でぐしゃぐしゃになった顔を持ち上げた。
それは、ひと振りの短剣だった。
セシル家の紋章が入ったそれ、貴族の夫人が護身用に持ち歩くようなそれを、ユージェニーは見つめた。その切っ先はユージェニーの手の中できらりと光って、ユージェニーの顔を短い刀身に映した。血がこびり付いていてよく見えない刀身から、ユージェニーは己を見出だした。その瞳は、爛々と輝いていた。その瞳は、血濡れた刀身と同じ色をしていた。
ルビアの血を浴びた短刀は、ユージェニーの世界を構成するもののひとつとなった。キムラスカを発つ日、ユージェニーは手紙ひとつ残すことさえ許されなかった。代わりに、ユージェニーはその短刀を残した。彼ならば、きっと気付いてくれるだろうと思った。
それが、彼との別れを示していることを。
ユージェニーが、冷たい仮面を被って生きていくことを決めたことを。
そして、彼の手にセシルの短刀が残された。
「…ウッ…」
ユージェニーはガルディオス伯爵邸の自室で目を覚ました。おかしな心地だった。目は覚めているのに、思考は霞みがかったようでうまく働かない。どうしてだろう、と思ったとき、ふいにズキンと頭が痛んだ。反射的に頭を手で押さえた。そのとき、ユージェニーは自分の手になにかの匂いがついていることに気付いた。染みひとつないネグリジェの袖口をユージェニーは顔から離して少し遠くから見つめる。そして気付いたのは、その匂いは手からではなくて、全身から立ちのぼっていることだった。
ガチャッと扉が開く音がありえないくらい大きなお頭に聞こえて、ユージェニーはビクリと震えた。扉を開けて奥様おはようございますと頭を下げたのは昨日と同じ、馴染みメイドのベラだった。彼女に挨拶を返すと、ベラは淡々とした声で今日も自室で食事を御取りになりますかと聞いた。ユージェニーが申し訳なく思いながらも頷こうとしたとき、ベラは付け足すように言った。帝都に参内なさっていたジグムント様が、戻っておられますが。
ユージェニーはぴたりと首肯を途中で停止した。「行きます」。ユージェニーはそう答えていた。ほぼ無意識のものだった。ベラはかしこまりましたと返事をして、彼女の手で開けられた扉を示した。ユージェニーはふらりと立ち上がり、彼女の示すがままに部屋を出た。覚束ない足取りで、ユージェニーは食事の間まで歩く。後ろからベラが足音を立てずついてくる。彼女はユージェニーの放っている匂いが分からないのだろうかと思った。ベラは何も言わなかった。ユージェニーが足を止めると一歩歩み出て、食卓の間の扉を開けた。
「おはよう、ユージェニー」
「おはようございます、母上!」
一瞬、ユージェニーは自分を呼んだ声が誰の声であるか分からなかった。背後でベラの手によって扉が閉められ、そのパタリという音が耳朶を打つと、それがジグムントの、マリィベルの声だと気付く。こうして、食卓についたのは久し振りのような気がした。それは事実で、ユージェニーはもう2週間もこの席に座っていなかった。ジグムントが、マリィベルが、挨拶の言葉を口に出す直前、まばたき一つ分の時間だけ驚きの表情を浮かべていたのも無理はなかった。
ユージェニーが席につくと、家長のジグムントが音頭を取って、いただきますと手を合わせた。ホド独特の風習であるそれを終えると、ガルディオス家の朝食が始まる。この秋できたばかりのホドの小麦を使って作られた、さまざまな種類のパンがずらりと並び、ほかほか湯気を上げている。その隣には、ひとつひとつ瓶に詰められた手作りジャム。いちじくのは赤い蓋で、かぼちゃのは緑色の蓋。それから、ヨーグルトを絡めたフルーツサラダ。ジグムントが手ずからもぎに行くことすらあるホドのリンゴが薄くスライスされて入っていて、おいしそうだ。なのに、ユージェニーはうまく手が進まなかった。ずらりと並んだごちそうを、おいしそうだとは思うのに、自分から一番近くに置かれた秋野菜のスープをスプーンで掬って口に持っていくことばかりを緩慢に繰り返した。厨房で働く使用人たちが、近頃朝方がめっきり冷え込んだのを想って作ったであろうあつあつのスープに、何故だか温度を感じなかった。ジグムントが、マリィベルが心配してかちらちらとこちらの様子を伺っているのは分かっていたが、ユージェニーはスプーンをスープ皿と口元を上下させることばかりを繰り返した。向けられる視線さえ、どこか億劫に思えた。
ジグムントはユージェニーを気にかけながらもやがて、ごちそうさま、と手を合わせた。父に倣って手を合わせたマリィベルは、ユージェニーの様子が気になるようでなかなか席を立とうとしなかったが、ジグムントに「ホップ先生の譜術理論の授業があるだろう。用意をしておきなさい」と家庭教師の名前を出して指示されて、躊躇いがちに椅子を降りた。ベラが開けた扉に向かう直前、マリィベルは振り返ってユージェニーを心配そうに見ていたが、そのまま背を向けて食卓を出た。ベラもまたマリィベルについて部屋を出、食卓にはジグムントとユージェニーのふたりだけが残された。耐えがたい沈黙がその空間を支配していた。ユージェニーは逃げるようにすっかり湯気も消えた秋野菜のスープを掬って、口に持っていく。味がしないのは、もうスープが冷えてしまったからか、それとも、ユージェニーの心が冷え切ってしまっているからか。
「ファブレ公爵と、話したよ」
ジグムントが口にした言葉で、ユージェニーの手は空中で静止した。スプーンの先がふるりと震える。ジグムントが口にした人物が誰を指しているか、ユージェニーにはすぐに分かった。ユージェニーの瞳に火が灯ったのを、ジグムントは見た。
「クリムゾン様、と?」
ユージェニーの口は、10年の長きに渡り呼ばれることのなかった名前のかたちに容易く動いた。そう音にした途端、ユージェニーの身体を何か、あたたかいものが包むような心地がした。故郷のキムラスカの風がふわりと吹いてくるようだった。その風は生気に溢れいきいきとしたホドのそれと異なり、毛布にくるまれるようなまどろみがあった。
明らかに表情を変えたユージェニーに、ジグムントは「興味があるのか」と聞いた。ユージェニーには、その言葉はまるで非難のように聞こえた。ユージェニーは語気を荒げて反論した。
「興味があっては、いけませんか?」
「…ユージェニー?」
「あの方のことを知りたいと言ってはいけませんか?私には、あなたの言うことに唯々諾々と従うことしか許されないのですか?」
さっとジグムントの顔色が変わった。ジグムントがガタッと立ち上がって「ユージェニー、私は、」と言うのを遮って、ユージェニーは叫んだ。
「私にご不満があるのなら、代わりの伯爵夫人を連れてくればいい!島民から何の文句も出ない、あなたに逆らわない、貴族の子女として男児を産み落とすという使命をすぐに果たせる女を!預言に逆らわずにいたいなら、余所で済ませればいい!!」
それは、ジグムントが初めて目にしたユージェニーの感情の爆発だった。そこには何の覆いもなく、剥き出しになったユージェニーがいた。藍色の目がぶるぶると震えて、大粒の涙が彼女から零れていく。激昂した甲高い声は裏返るが裏返らないかのところでたゆたい、反響した。ジグムントは口を開いても、そこから何らかの音を生み出すことはできなかった。ジグムントの口はそれでも何かを伝えようと震えた。ユージェニーががたりと席を立ったとき、ジグムントは反射的に「ユージェニー!」と呼んだ。だが、ユージェニーは止まらなかった。その小さな背は、ジグムントを拒んでいた。だからジグムントは、動けなかった。
ユージェニーが去ってからも、ジグムントはすとんと椅子に腰を下ろして考え続けていた。あの時、クリムゾンと出会ったとき、ジグムントの中で生まれた感情を。ユージェニーがクリムゾンの名を聞いたとき浮かべた表情に対して浮かんだ感情を。ばたん、と音を立てて扉が開いた。険しい表情のヴェルフェディリオがそこにいた。ヴェルフェディリオは言った。
「…また、事件だ。今度は、噴水広場で鳩が殺されてた」
ジグムントは、嫉妬していたのだ。
ジグムントの知らない時間を共有する、ふたりに。
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