ガルディオス伯爵邸の食卓を後にしたユージェニーは、すぐさま一人自室に飛び込んだ。バン!と音を立てて閉じた扉に背中を預け、ずるずるとずり落ちそうになる身体を済んでのところで押し留める。はあ、はあ、と激しい息遣いを引っ切り無しにくりかえし、めちゃくちゃな動悸の止まない胸に汗ばんだ手を当てる。なのに、ユージェニーの表情は不思議なほどに何の感情も抱いてはいなかった。のっぺりとした、人形のような顔がそこにあった。ユージェニーの中で、これまで積み重ねられてきた感情というものの層が、あの激昂ですべてを吐き出されてしまったようだった。ユージェニーの身体は今にも倒れてしまいそうに疲労していたが、その心は不気味にも小波ひとつなかった。
眠りたい。
ふらつく身体の芯からそう、叫ばれる。ユージェニーはそれに従って、覚束ない足取りでベッドに向かった。既にベッドメイキングが済まされたベッドに、ユージェニーはうつ伏せで突っ伏した。清潔なシーツに身体が吸い込まれてすぐに、ユージェニーは自身がなにか大きな手のようなものに掴まれることを感じた。ユージェニーを深淵に引き摺り下ろすそれに、ユージェニーは抵抗することなく成すがままだった。ただ、眠りたかった。深く、眠りたかった。
クリムゾン様。
ユージェニーが最後に呟いたのは、ジグムントの名ではなかった。
聖ホリィの噴水広場は、不穏な空気に包まれていた。広場に足を踏み入れた途端、ジグムントはまるでここがホドでないように感じた。不安。恐れ。疑心暗鬼。誰であろうと抱えて当然のその感情が、広場に集まったホド島民の間にリンクしていた。蒼天騎士団の騎士たちが、集まった島民を広場から立ち去るように怒号を上げるのも、それを助長しているように感じた。
ホド領主ジグムントとその右の騎士ヴェルフェディリオの登場は、島民たちにある程度の安心と、そしてそれに相反する感情の加速を促した。出迎えた小隊長のクニミツに、島民にはこれ以上不安を抱かせないように穏便に対応するよう命じると、クニミツは苦い表情を見せながらも頷いて、後輩の騎士たちへの連絡に走った。現場は、聖ホリィの噴水の袂だった。左の騎士アクゼルストとペールギュントが、セクエンツィアが待っていた。三者が三様に、クニミツが見せたのと同じような表情を浮かべている。彼らもまた、島民たちが抱く不安を、疑心を抱いているのだ。ジグムントは真っ白い布がかけられたそれの前に跪き、布をゆっくりと捲った。
鳩だった。1羽の鳩だった。噴水広場に住みついた、野生の鳩だ。真っ白い羽と、小粒のルビーを嵌めたような赤く美しい瞳をした鳩だった。その鳩は、明らかに刀傷を受けて血まみれになって倒れていた。一連の事件の中で考えれば、たった一羽の鳩だ。だが、それはホドのちょうど中心になるここで起こった。ホド島民が日々憩うこの噴水広場で。
「ルビー!」
その時、蒼天騎士の包囲網をかいくぐって一人の少女が駆け寄って来た。少女の名はマミといい、ルビーと呼んだ鳩を彼女がよく可愛がっていたことをジグムントは知っていた。ジグムントと同じようにルビーの前に跪いたマミを、騎士たちも相手が少女であるが故に強く出ることができない。マミは小さな手で、ジグムントが持ち上げた布の下にいるルビーに触れた。血まみれになった白い羽に触れて、彼女は大粒の涙を零した。それは、少女の桃色のスカートの上に落ちて、ぽつりぽつりと染みを作った。
マミは顔を上げてジグムントを見た。涙にぬれたその瞳がジグムントを見ていた。その瞳には悲しみが、そして、弾劾の意志が、確かに光っていた。
「ジグムントさま。誰が、ルビーを殺したの」
マミが泣きじゃくりながらそう、口にすると、それが引き金になって、島民の間から声が上がった。そうだ。誰が殺したんだ。刀傷だったぞ、俺は見たんだ。もしかして、ホドの人間が。いや、本土の奴らかもしれない。だったら、ホドにこんなことする奴が忍び込んできたってことか。いやだ。怖い。犯人は誰だ。犯人を見つけろ。騎士団は何をやってるんだ。シャーク爺さんのうちもやられたらしい。山でブウサギも、何だって、騎士団はその事件を隠してたのか。どうなってるんだ。そんな事件が続くなんて、同一犯じゃないか?そうに決まってる。余所者だ。犯人は余所者だ。犯人は―――。
噴水広場は怒涛のような混乱に包まれた。不安が不安を生み出し、連鎖するのを誰も止められなかった。左右の騎士も、蒼天騎士団も。
その時、ジグムントは。
「大丈夫」
ジグムントは、泣きじゃくるマミの頬に手を添えた。マミの瞳が、ジグムントを見た。低く、石畳にまで染み渡るようなジグムントの声は、その場で不思議なほど凛と響いた。広場の混乱がざわめきが、ジグムントの声で一瞬にして収束した。
ジグムントはマミを抱き上げて、すっくと立ち上がった。その時、広場は完全に静まり返る。狂乱は停止し、誰もがジグムントの一挙一動に目を奪われる。縋るような無数の視線を浴びて、ジグムントは口を開いた。
「皆、落ち着いて聞いてくれ。事件はもう、起こらない。もう、私たちが脅かされることはない。ホド島領主ジグムント・バザン・ガルディオスが約束する」
ひらり。
島民たちの上に、白いなにかが舞い降りた。見間違いのように思われたそれは、ひとつ、ひとつ、天から降り注いできた。雪だ。まだ、ウンディーネリデーカンの月だというのに。早すぎる雪に、不穏さえ漂う異常な天候に、島民たちは怯えなかった。ただ、広場の中心に立つジグムントを見つめていた。もう大丈夫だ、といったジグムントの言葉が、染み渡るような低い声が、島民たちを支えていた。
雪が、振っていた。
ジグムントの二対の蒼が、降り注ぐそれを確と見据えていた。彼が見つめるものは、ただ一つ。これから己が選ぶ未来であった。
「やっぱりあんたは、あんたの母親と同じだわ」
そう吐き捨てたのは、ルビアの死を告げたのと同じメイドだった。感情をなくした仮面を自ら剥ぎ取って、彼女はこれまでよりも最も人間らしい顔をしてユージェニーを罵った。
「狂人。売女。鬼の血を受けた化け物。お前なんて、一生この塔に閉じ込められていればいいのよ」
メイドの胸からはとくとくと血が流れていた。赤い赤いそれが流れ出る胸を押さえて、メイドは笑った。ケタケタと音を立てて笑った。
「ユージェニー・セシル、忌まわしい『鬼の子』」
ユージェニーの手には、血に濡れた短剣があった。
ベッドから、影がすっくりと立ちあがった。随分と長い眠りについていたようだ。カーテンを引き忘れた窓から侵入する月光によって現れたシルエットは、女。彼女はベッドを降りて、裸足で絨毯の上に降り立った。女は絨毯の毛が圧される音を立てながら、ドアに手をかけた。部屋を出た女は、緩慢な動作で屋敷を歩き回った。女が歩く音以外に、その静寂を乱すものはなかった。女は身体を揺らしながら、全身から匂いを醸していた。それが血の匂いであると女は自覚していた。女は血の匂いを撒き散らして歩いた。女は、可笑しそうに笑んだ。
どうして、誰も気付かなかったのだろう。
女は始めから、血まみれのドレスを纏っていたのに。
女はある部屋の前で足を止めた。迷いなく扉を開ける。がらんとした部屋に住人は不在だ。そこは、ガルディオス伯爵邸でも客人用に設けられた部屋だった。女はゆっくりと、窓際に置かれたテーブルの元に歩み寄った。そこに置かれていたものを、拾い上げる。
それは、手紙だった。細い紐でひとつにまとめられた、手紙の束だった。古いものもあったし、新しいものもあった。一番下に位置しているものなどは、風化して茶色く変色していた。その中で最も新しいものは、手紙だけでなく、両掌に乗るくらいの包みが同封されていた。
女の手は招かれるように素早く動いた。手紙を束ねたひもを解き、一番古いものから開いていく。女の良く知る文字で、それは書かれていた。女は手紙を読み続けた。ひとつを読み終えると、取り落とすようにそれを置いて、次を読み始めた。そうやって、驚異的な速度で女はそのすべてを読み終えようとしていた。彼女は、最後の一つを手に取った。両掌に乗るくらいの小包を開ける。逸る手を動かして、それを、開ける。
「…誰だっ!?」
突然、扉が開いた。ホドによく見られる輝く金髪のショートヘアに、碧い瞳。驚きに見開かれたそれが自分を認識するかしないかの数瞬で、女は部屋の本来の住人である青年の袂に移動した。床を滑るような速さで疾駆した女に反応できず、青年、カロレは、女が懐に入るのを許してしまった。女はネグリジェの腕を伸ばし、そのままカロレの首を掴んだ。「ぐぁぅっ!」と空気を押し出されたような悲鳴を上げるカロレ。女はそのままぎりぎりとカロレの首を締め上げた。その左手には、小包の中身があった。
ひと振りの、短剣。セシル家の紋章が刻まれたそれ。
女が左手に握ったそれを、振るわなかった。カロレは唐突に締め上げる手から解放され、床に落ちてごほごほと咳き込む。女はカロレに目をくれることなく、部屋を出た。カロレは床に伏せったまま、その後ろ姿を見送るほかなかった。
ホドに戻ったカロレに、ヴェルフェディリオが告げた言葉を思い出す。セシル家。戦場において、セシル家の人間は須らく同じ色の目をしている。だが、セシル家の本来の色は藍だ。戦場において特異な才能をもつセシル家の人間は、いずれも突然変異としてその色を持つのだ。だが、それだけではない。セシルの姓を冠し、戦場にその名を馳せるそういった人間たちの中で、目の色を藍と伝えられるものがいる。それは、キムラスカ側の情報だった。だが、マルクトで伝えられるところによると、その人物の目の色は藍ではない。それは、藍の目に生まれながら一時的に変色する目をもつものがいるということではないか。そういった稀な例は、普段藍の目であるときは通常の人間と変わらぬが、その目が変色したとき、人格変化とも言うべき現象を起こすのではないか、と。
そして、カロレは見た。自分を締め上げた手の主を。底冷えるほどの視線でカロレを睥睨したのを。その目。その色。人が変わったようだった。藍ではなかった。その色、その色は。
『カロレ、知っているか』
赤、かった。
『ユージェニー、ジャクリーヌ。このふたつの名は、古代イスパニア語で共に、尊き乙女、という意味だ。だが、ふたつの名には、もうひとつ意味があるんだ。中期キムラスカ方言で、ジャクリーヌは、藍の乙女。そして、ユージェニーは』
「ユージェニー…さま…」
『深紅の乙女、と言うんだよ。』
ジグムント様が、危ない。
カロレに分かったのは、それだけだった。闇に引きずり込まれるようにして、カロレは意識を手放した。
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