14年前。
 もう、14年も前のことになる。
 思い起こすどの場面にも、爆音が鳴り響いていた。それが現実のものか、耳にこびり付いてしまったそれなのかは、分からなかった。味方も敵も同じ鬨の声をあげて、同じ断末魔の悲鳴をあげて降ったばかりの新雪を踏み荒らしていく。そう、そこには雪が降っていた。薄雪が敷き詰められた平原は、ホド・マーブルの石畳によく似ていた。故郷によく似たそれが、踏まれ、悲鳴を上げて、赤く染め上げられていくのを見るのは、耐えがたかった。
 初陣に発ったジグムントを睥睨する、ひとつのシルエット。
 それは、女だった。白ぶどうの髪色をした、女。全身に真っ赤な血を浴びたその女は、ジグムントを見ていた。キムラスカ軍の腕章をつけたその女は、ホドの王たるジグムントを遥かな高みから見下ろしていた。その真っ赤なルージュが引かれた唇が、綺麗に笑む。震えるジグムントを、嗤う。

 その目は、余りにも赤く。




 ―――いやだ



 ジグムントは、最早宝剣を満足に握ることも叶わなかった。初陣に持たされた宝剣を支えのようにして立つことしかできなかった。誰かがジグムントの声を呼んだ。あれは、ヴェルフェディリオだったと後で思い返す。だが、当時のジグムントにはうまく聞こえなかった。うまく聞こえなかったし、うまく見えなかった。
 己に迫るキムラスカ軍の兵士の刃にさえ。



 ―――誰も、殺したくない



 眼前の死は、ジグムントに届かなかった。
 代わりに、レクエラートが雪原に倒れていた。

 レクエラートの倒れた白雪が、レクエラートの血で真っ赤に染まっていた。ジグムントは絶叫した。ヴェルフェディリオが追撃に迫るキムラスカ兵をその手で退けても、ジグムントは絶叫し続けた。雪。血。鳴りやまない爆音。鬨の声と断末魔。悲鳴を上げる白雪。そして、己を睥睨する赤い目。そのすべてが、ジグムントの最奥に刻みつけられ、それ以降、ジグムントは戦場に立つことはなかった。ジグムントは思い出す。第4席の資格をなくし、ホドを去る直前のレクエラートが口にしたこと。



 お前の為じゃない、ジグムント
 お前がいなければ、ヴェルフェディリオ様が哀しむ。お前がいなければ、ホドは歌わない。



 それだけだ、とレクエラートは言った。レクエラートは、ジグムントを良く思っていなかった。ヴェルフェディリオに仕える彼は、ジグムントを次代のホド領主にしては頼りないくせに、主ヴェルフェディリオを気安く扱う敵だった。だが、レクエラートはジグムントを庇った。己が左目を犠牲にしても、ジグムントを生かしたのだ。



 時は、流転する。



 アストラエア。幼いジグムントに、初めて慕わしいものの死を教えた少女。彼女は、言っていた。血に塗れた姿で、言っていた。





「ホドの皆で、幸せになるのよ」






 ―――彼は、どんな思いであの手紙を書いたのだろう?何枚も、何枚も、届かないと知っている手紙を、自らの元へ戻されると分かっている手紙を、どんな気持ちで綴ったのだろう。少年のころ話してくれたように、彼の目から見た世界を物語る手紙。彼は、どんな思いで短剣を持ち主に返したのだろう。オールドラントにおいて、相手との決別を意味する短剣を、彼は返還した。彼は、同封した手紙で書いていた。たった数行の、短いことばで、彼は書いた。



 君を分かつことはできない
 君を愛している。





 彼女は言った。





 彼は言った。






「…どうして、避けないのですか?」

 キラリ、
 と、闇に光る短剣の切っ先を、ジグムントは静かに見つめていた。振りかぶった短剣を、振りおろせないまま、ユージェニーは聞く。吐息のようなかすかな声。その目は赤く、余りにも赤く、暗闇に閉ざされたジグムントの寝室で爛々と光っていた。



「どうして」



 セシルの紋章が入った短剣を振り上げて、寝台のジグムントに馬乗りになったユージェニーに、ジグムントは抵抗しなかった。避ける素振りさえ、見せなかった。



「君が
 私を殺すことで、少しでも楽になるのなら」



 これが、私の選択だとジグムントは言った。ユージェニーは赤に変色した瞳を見開いた。真円を描く赤い月のような瞳が、ぶるぶると震えて、ジグムントを見下ろしている。ジグムント、さま。音になるか、ならないかの呟きに応えるように、ジグムントは言った、知っていたよ。
 知っていたよ、ジグムントはそう言った。知っていたよ、君がセシル家の屋敷ではなくて、白い孤塔で育ったこと。姉ジャクリーヌではなく、ユージェニー自身が『鬼の子』と呼ばれていたこと。それは、今はホドを去ったマトリカリアが独自に調べ上げことであった。ユージェニーの懐妊後間もなくマトリカリアの口からそれを知ったジグムントは、それでもユージェニーを受け入れることを選んだのだ。ホドを愛し、愛されようとする彼女を、受け入れることを。



「ホドの皆で、幸せになる」



 カラン、と音がした。セシル家の紋章の入った短剣が床に落ちた音だった。ユージェニーの身体が崩れ落ちる。ジグムントの胸にぽすんと落ちてきた彼女の頭を、ジグムントは、できるだけそっと、撫でてやった。



「…ホドの皆で、幸せにする」



 ユージェニーが、ウッ、と声を上げた。彼女はそのまま、大きな声を上げて泣きだした。すべてを吐き出すような泣き声だった。ジグムントは、ユージェニーが泣きやむまでずっと、そうさせてやった。




 ホドの皆で、君を幸せにするよ。




 ジグムントの手が、そう言っていた。




 雪が、振っていた。季節外れの雪が。ホドに降り積もるそれは、踏み荒らされることも、真っ赤な血に染められることもなく、ただ、ただ、白かった。すべてを包み込んでくれるように、優しかった。





「ルビーを殺したのは、私なの。ごめんなさい、マミ。本当に、ごめんなさい…!」
 
 深く頭を下げたユージェニーの言葉を、マミはきょとんとした顔で聞いていた。まだ幼い少女の頭が、ユージェニーの口にしたことを理解し、呑みこむまで、少しの時間がかかった。マミは、泣き笑いのような表情をしてから、こう答えた。

「…うん、いいよ」

 その代わり、ユーさまの新しいこどものお友達になってもいい?マミがそう言ったのを、ユージェニーは泣きそうになりながら、是非そうしてくれるように言った。ジグムントと、ジグムントに肩を抱かれたマリィベルは、ユージェニーの後ろからそれを見ていた。ウンディーネリデーカンの月、ホドの秋も深くなった日のことだった。
 季節外れの雪は、次の朝になってすぐに消えてしまった。マリィベルは雪に足跡をつけたかったのにと悔しがったが、それは冬までお預けだねとジグムントが言うと、じゃあ今はお外の紅葉でガマンしましょう、とおしゃまに言って見せた。ガルディオス伯爵邸の庭は、紅葉の盛りである。ジグムント、ユージェニー、マリィベル、それから、ユージェニーの中に宿った、新しい命が、ガルディオス伯爵邸の庭園で憩っていた。
 ユージェニーの懐妊が分かったのは、一連の事件が終わってすぐのことである。この朗報が分かった途端、あれほどホドに渦巻いていた不安や不信感などどこへやら、皆が皆ガルディオス伯爵邸に集って飲めや歌えやの大宴会を繰り広げた。今度こそ思いっきり酒びたりになる、と変な気合を入れたセクエンツィアが、ヴェルフェディリオの止める間もなくごきゅごきゅとキフォンティをらっぱ飲みしたものだから、こりゃダメだと匙を投げたヴェルフェディリオの代わりに息子のヴァンデスデルカが果敢にも止めに入り、5歳にして苦労性の芽が垣間見えたりと、久々に楽しい集まりとなった。ガルディオス家の夫妻とその長女は、一通りの騒ぎを終えて静かになったガルディオス邸の庭園で、ほのぼのと紅葉を眺めているのだった。

「ねえ、マリィ。生まれてくるのは、男の子のほうがいい?それとも、女の子?」

 ユージェニーの、降り積もる落ち葉のような柔らかい声に応えて、マリィベルが両親に顔を向けた。その顔には、満面の笑みがある。「どっちでもいいよ」とマリィベルは言った。



「どっちでもいいんだ。この子は、私をおねえちゃんにしてくれるんだもの!」



 マリィベルの言葉に、ジグムントとユージェニーは顔を見合わせる。そして、ぷっと吹き出した。あはは、と笑い声が聞こえてくる。3人分の笑い声は、歌のようになって、ガルディオス伯爵邸に響き渡る。秋風はそれを乗せて、ホド中にそれを届かせる。そして、ホドは歌い出すのだ。ホドに新しく芽吹くいのちを、祝福する歌を。



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