深夜、ホド諸島第3の島、グレニール島の出張診療所でディーマ・トラディスは診療室に向かう足音を聞いた。ぺルカか?と先に眠りについた筈の妻の姿を思い描くが、その空想は即座に打ち砕かれた。足音はひとつではなく、複数のそれだった。異変に気付いたディーマの背筋に冷たいものが走る。しかも、それは彼にとって聞き覚えのある種の足音だった。

 自らに迫る、軍靴の音。

 ディーマが椅子から立ち上がって身構えたときには、診療室のドアが乱暴に開けられていた。

「…マルクト軍、だな」

 何者だ、と愚かな問いを放つことを、その中年医はしなかった。目の前に現れた男たちは皆目深いローブを纏っていたが、その佇まいはよく訓練されて隙がない。元軍医であるディーマにとって身近なものであったそれを、彼は平静さを纏って立ち合うことができた。だが、彼の胸中は穏やかではなかった。何故、マルクト軍がここに。何故、たかが帝国にとっての辺境地のいち元軍医と、その妻のところへ。そうだ、妻は、ぺルカは。ぺルカはどうした。
 動揺故に、ディーマは無意識に後ろ手に手をついた診療机の上を弄った。かさ、と鳴ったのは、先程まで目を通していたカルテだ。ホド本島を拠点としてホド諸島を回る彼が、ホドで受け持っている一人の妊婦のカルテだった。それまで、ディーマを威圧するだけで一言も発さなかった軍人のなかで統率者と思われる男の視線が、鋭くそのカルテを射抜いたのをディーマは見た。ディーマは、干乾びた口の中を必死に湿らせて言葉を発した。

「フェンデ…?」

 それは、ふたりめの子を授かったセクエンツィア・アドニス・フェンデのカルテだった。マルクト軍が、自分のような軍医自体を問題視して出向いてくるわけはない。ならば、彼らの目的は何か。それは、ディーマの受け持つ患者ではないのか。自分を排除することで対象へ直接干渉しようとしているのではないかと、ディーマは推測した。

「彼女を…フェンデ夫人を、フォミクリー研究所の見返りとして創設した帝立病院の保護下に置くことで、フェンデ家を自らの意のままに動かすつもりだな?おまえたちが、私のような矮小な不確定要素まで排除しようとするのは、それだけおまえたちの企てが帝国にとって重要ということか?」

 ディーマは思い出す。昨今のホドには、おどろおどろしい暗雲が忍び寄りつつあるように見えた。誘致されたフォミクリー研究所。見返りとして立てられた病院を始めとする無機質なインフラ施設。ナイマッハ博士の背後に垣間見える影。
 まるで、そのすべてが、ホドに影を差すかのような。



「…ヴァンデスデルカ、か?」



 フォミクリー研究所に被験者として出向くひとりの少年の名を口に出したとき、統率役の男が動いた。「知る必要はない」。そう、死刑宣告のように男は言い、すっと手を掲げた。それに倣って、その両隣りに立つ男の部下と見られる者たちが同じように手を掲げる。みっつ、だけではない、ディーマの見えない位置に立つ者たちの、幾つもの手が、ディーマ・トラディスという人間の存在そのものを否定するように掲げられる。
 そのとき、ディーマの脳裏に妻のことが思い浮かんだ。ディーマはハッとして、「ぺルカ?」と妻を呼んだ。「ぺルカ!ぺルカ!」ディーマの声に、答えるものはない。既にその存在は否定された。彼らがいては不都合な人間たちの手によってその存在そのものを否定された。だから、その声は届かない。どこにも届かないし、どこに行くこともない。




 ―――ぺルカ、プラティナ!




 マルクトより放たれた無数の手に、第五音素が収束する。そして、弾けた。ちいさな診療所は強力な爆裂譜術で一瞬にして吹き飛んだ。被験者ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデの母親の担当医だった男は、妻と息子の名を叫びながら第五音素に焼かれた。その声さえも焼き尽くされてしまった。





「ヴァンデスデルカ!」

 ガイラルディアの声が、ヴァンデスデルカをまどろみから連れ出した。ガルディオス家の中庭に広がる緑の芝生から身体を起こすと、ぴかぴかと金色に輝く少年がヴァンデスデルカを心配そうに覗きこんでいた。ヴァンデスデルカは、彼の放つ光を反射するようにしてにこりと笑いかけた。

「すみません、ガイラルディア様。ついうとうとしてしまいました。日差しがあんまり気持ちよくて」
「なあんだ、そっか。ヴァン、疲れてるのかと思っちゃった」
「大丈夫ですよ。心配してくださって、ありがとうございます」

 それを聞いてガイラルディアは安心したようで、ふふっと笑みを零す。ガイラルディアが笑うと、ヴァンデスデルカも自然と笑みが浮かんでくる。少しだけ、疲労の色が覗くその表情に、ガイラルディアは気付かなかった。だが、彼の姉はきちんとそれに気付いていたのだろう。ヴァンデスデルカの背後で、彼女が呆れがちに息をつくのが聞こえた。

「マリィベル様」
「ヴァン、貴方は少し我慢が過ぎるのよ」

 金縁のトレイを手にしたマリィベルが、弟たちと同じように芝生の上に座り込む。トレイの上に乗ったユージェニーお手製のザッハトルテに、ガイラルディアの目が輝いた。芝生の上に広げられるよう整えられたお茶会の準備をヴァンデスデルカも手伝った。マリィベルが丁寧にチョコレートケーキを切り分け、薫りのよいホド・コクマーの茶葉のティーがこぽこぽと三人のカップに注がれれば、お茶会の始まりだ。
 フォークで口に入る大きさにしたザッハトルテを舌に乗せる。濃厚な、しかししつこさの感じられない上品なチョコレートの味が口の中いっぱいに広がる。一秒でも長く味わっていたいような甘さとほろ苦さは、夢のようにすっと消えてしまう。だから、夢の続きを見ようと次の一切れを口に運ぶ。その繰り返しで、分け与えられたザッハトルテの一ピースはみるみる小さくなった。ふと気付いたら、からになった皿を見たマリィベルがくすくすと笑っていて、赤面する。どうも気恥ずかしくて、皿に乗せられるもう一ピースにすぐには手が伸びなかった。
 小さなガイラルディアは、つたない手つきでフォークを握ってザッハトルテに突き刺す。甘いものに目がないガイラルディアは夢中になって手を動かすのだが、これが危なっかしくて仕方がない。押し付けるようにして口に運ぶと、口元にチョコレートがべったりついてしまった。すると、マリィベルはすかさず自分の皿を置いて、トレイに乗せられたハンカチーフを手に取りそれを拭ってやる。「ガーイ、貴方という子は!」「ごめんなさい、姉上ぇ」と交わす言葉は、前者は叱責を、後者は謝罪の色を帯びているけれど、どちらもどこか優しげだ。
 すべてが、あたたかだった。ガイラルディアも、マリィベルも、ふたりが交わす音も、常緑の芝生も、イフリートデーカンの日差しも。それは、あの場所にはないものだ。あの場所には。ヴァンデスデルカの脳裏に浮かぶのは、出入りするようになって数カ月が経つ研究所だ。



 あの場所は、冷たい。

 あの場所は、無機質だ。

 あの場所は、



 「あ、」とやっと自分の皿を空にしたガイラルディアが声を上げた。ヴァンデスデルカは、その声に引き戻されたような気分になる。「父上たちだ」。ガイラルディアの視線の先には、彼の父が、そして、ヴァンデスデルカの、ここにいないエルドルラルトとメルトレムの父がいた。こちらに向かってすっと柔らかく手を掲げたジグムントへ、ガイラルディアが立ち上がり、駆けていく。その、蒼を纏う腕に抱きとめられて、彼の父と同じ輝くような笑顔を咲かせる。

「あの子ったら、父上たちが話をしているのに」
「いいじゃないですか。まだ幼くていらっしゃるのですし」
「貴方はまた、そうやってガイを甘やかす!」

 マリィベルの叱咤に、返す言葉もない。すみません、と肩をすくめると、彼女は拍子抜けしたようにため息をついた。彼女は、かちゃ、とティーカップを置いて言った。

「先程も言ったけれど、貴方は我慢が過ぎるわ、ヴァン。研究所でやっていること、随分と貴方に負担がかかっているのでは?」
「…そんなことは、」
「お願いだから、私に気休めの嘘は言わないで。…どうして、貴方がそこまで自分を差し出さなければいけないの?」

 ヴァンデスデルカは、すぐにマリィベルへ答えを返せなかった。答えに窮したわけではなくて、その横顔があまりにも、痛切であったからだ。



「…実験は、僕自らが望んだことです。研究所の人は、僕を必要としてくれている…僕がガルディオス家の、ひいてはホドの発展へ貢献していると言ってくれているんです。だから、マリィ様が気に病むことなんてありませんよ」



 ヴァンデスデルカの口調は穏やかだったが、彼は必死だった。マリィベルは、こんな表情をしていてはならない。彼女にこんな顔をさせてはならないのだ。マリィベルは、ガイラルディアと同じで、ヴァンデスデルカにとって太陽だった。彼女や、ガイラルディアが、永久に輝くからこそ、自分はその光を反射できる。この、世界で一番あたたかな場所に、居続けることができるのだ。
 だが、彼女の表情は晴れなかった。彼女はどこか、遠くを見るようにしていて、ヴァンデスデルカを不安にさせた。その瞳は、どこまでも飛んで行ってしまうような鋭い矢のような蒼だった。



「私は貴方が心配よ、ヴァンデスデルカ」



 風が吹く。



「私がいなくなったとき、貴方はひとりで全てを背負いこんでしまいそう」



 ホドの歌をさらうように、強い風が吹いていく。



「え、」



 その時、ヴァンデスデルカは11歳の少年だった。

 目の前の幸せな風景が失われることなんて考えもしない、それが永遠であるようにと信じ込んだただの少年だった。






 自らの故郷を滅ぼすなどという、耐えがたい音叉を背負うことなんて許されない、ただの少年だったのだ。





 ガルディオス伯爵邸の渡り廊下で、ジグムント・バザン・ガルディオスとヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデは言葉を交わしていた。主と右の騎士の関係でありながら、唯一無二の幼馴染であるふたりの会話は、公のものでないために後者の色がよく現れていた。それでも折々に前者らしさが現れるのは、ふたりが主従の間柄として長い時間を共に過ごしてきたことを物語っている。

「セクエの様子はどうだ?」
「ん、…相変わらず。奥方様と話してるときなんか、前みたいによく笑うんだが…ふとした瞬間に、どっか遠くのほう見てたり、な」

 どこ、見てるんだかな。そう苦笑して言うヴェルフェディリオの表情は、すこし前よりずっと老成したように見えた。ヴェルフェディリオの妻、セクエンツィアは最近になってホドの帝立病院に入院していた。産み月にはまだあるが、彼女の精神状態は万全とは言い難かった。ヴェルフェディリオは戦場に立つことを極力控え、セクエンツィアに寄り添うことを選んだ。彼は時間を見つけては病院に赴く。そこで、ヴェルフェディリオは何もしない。ただ、セクエンツィアの傍にいるのだ。ジグムントがふたりの元を訪れたとき、ふたりの間に会話はなかった。ただ、ヴェルフェディリオがセクエンツィアの手をやさしく取り上げて、なにかを口ずさんでいた。セクエンツィアがその手を握り返していたかどうかはジグムントにはわからない。ヴェルフェディリオが、何を歌っていたのかも。
 その時、渡り廊下に足音が聞こえた。コツ、コツと穏やかな、一定のリズムで向かってくる足音をふたりはよく知っている。アクゼルスト・テオラ・ナイマッハだ。「よお、アル」とヴェルフェディリオが声をかけてから、アクゼルストは緩慢な仕草で俯いていた顔を上げて「やあ、ジグ、ベル」と柔らかく挨拶した。歩きながら寝てたのか?とヴェリオが茶化すと、そうかもね、などとアクゼルストは葉が擦れるような微かで柔らかい声で返してきた。朝ぼらけの太陽のように笑う彼の表情に、僅かに影が差していることを、幼馴染たちは気付いていた。

 アクゼルストに翳りが見え始めたのは、フォミクリー研究所の存続の是非が問われはじめてからだ。イフリートデーカンの始め、マミという少女がフォミクリー研究所の実験過程で死亡した。小さい頃ガイラルディアが親しくしていて、近所のお姉さんとして慕った少女だ。12を迎えたばかりの彼女は、身寄りがなかったが、その分素直で働き者の性分のおかげもあってユリア大通りの大人たちに可愛がられていた。研究に協力することを決めたのは、花売りを手伝わせてくれているニナという中年女性に報いるためだったという。マミの死は、ホドの民に深く悼まれた。そして、その原因と責任が追及された。その原因は、彼女が協力していたフォミクリー研究以外に有り得ない。だがその責任は、すべて自分にあるとジグムントが表明した。ホドで起ったあらゆることは、その指導者であるジグムントの責任であると。その責任の取り方として、ジグムントはフォミクリー研究所の撤退を要請するべく動いている。ジグムントは、アクゼルストは研究所の所長を任されたにすぎないとしたが、彼にも非難の声は上がっていた。
 アクゼルストは、挨拶だけを交してふたりを通り過ぎようとする。その背中が、あまりにも儚く見えた。今にもくずおれてしまいそうに見えた。こどもたちの笑い声が聞こえていた。その声が届かないようなところまで彼が行ってしまいそうな気がした。



「アクゼルスト」



 ヴェルフェディリオの呼びかけが、アクゼルストの歩みを止めた。なあに。彼は、振り返る。五月の光に透けそうな肩。アル、とヴェルフェディリオは幼馴染を慕わしい呼び方で呼んだ。その言葉は、どんな感情の色付けもされず、ただただホドの海のように深く、清らかだった。



「アル。お前の上にどんな預言が待っていようと。お前がそれを受け入れようと、受け入れまいと」



 ヴェルフェディリオは、アクゼルストに向き合う。自分の青を、アクゼルストの碧と確と交わし合う。



「俺は、お前を肯定するよ」



 お前や、マトリカリアがそうしたようにな。



 ヴェルフェディリオは、アクゼルストの真似をして柔らかくぽんにゃり笑おうとした。だが、うまくできなかった。やっぱりこういう笑い方は、お前がすんのを見るのが一番だわ。アクゼルストに、いつもの調子で笑った。アクゼルストは、笑えなかった。無理矢理作ったようなそれで、くずおれそうに笑った。

 「ちちうえ!」と声がする。ガイラルディアだ。ガイラルディアが、駆けてくる。ジグムントは、自分の腕の中に飛び込んできたその子供を抱き上げた。そして彼らは輝くような笑みを浮かべる。ホドを照らす光を放つ。ヴェルフェディリオは、アクゼルストは、眩く光るそれを、すこし目を細めて見つめている。



「ガイラルディア。よく、ホドを見ておきなさい」



 ジグムントは、腕の中の息子に語りかける。
 低く、じんわりと染み渡るような声で。祈りにも似た声で。




「ここは、君の島だよ。」




 ガイラルディア・ガラン・ガルディオス、5歳の誕生日の前日のことであった。



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