歌が聞こえた。
ホド・マーブルの石畳の上を、ひとりの少年が翔けていく。後ろでひとつにまとめた柔らかな栗色の髪が、それに応じて鳥の雛の尾のように跳ねる。少年の足が石畳を踏むリズムに合わせて、その口は歌を紡いでいた。彼にとって、歌うことは義務でもあったし、本能でもあった。少年が口ずさむ歌は、彼の故郷であるここホドで歌い継がれてきた島唄に属するものだ。ホドの民は歌を愛する。作詞者も、作曲者も分からない、星の数ほどの歌が、今もこのホドで歌い継がれている。揺り籠で、母の胸で、父の腕で、子供たちの遊戯で、大漁の船の上で、収穫を喜んで、棺桶を囲んで。そして、道端で。
その内のひとつを口ずさむ少年の耳に、どこかから歌声が聞こえた。店前の水撒きに精を出す骨董品屋の老店主だ。鼻歌交じりに柄杓を動かす老爺は、少年の視線に気付いて深く皺の入った顔に笑みを浮かべた。少年は軽く会釈をしてそれに返す。この島はいつもそうだ。ひとりが歌い出せば、すぐにほかの誰かが歌い始める。美声の歌い手も、下手っぴいな濁声も、皆。そうやって、いつしかこの島そのものが歌っているような気分になる。
いつのまにか、少年の足取りははじめよりずっと軽くなっていた。軽やかなステップが聖ホリィの噴水広場の石畳を踏んだ時、少年の目がとらえたものがあった。
それは、輝くような金色。
聖ホリィの噴水の、ホド・マーブルに腰かけたふたつの人影。ふたつがふたつとも、きらきらと輝く金色の光を放っている。ふたつのうち、小さいほうの金色が少年の存在に気付いた。大きいほうの金色も、それに倣って少年をみつける。小さな金色は弾けるような満面の笑みを浮かべて、呼ぶ。少年の名を、呼ぶ。
「ヴァンデスデルカ!」
少年、ヴァンデスデルカは、誇り高きガルディオスの金と蒼に向かって微笑んだ。
「おはようございます、ガイラルディア様、マリィベル様」
「遅いよ、ヴァンデスデルカ!ぼく、姉さまと一緒に待ってたんだよ」
「ねえ、姉さま」と姉であるマリィベルに振り返るガイラルディアだが、マリィベルはふぅ、とため息をついて腰に手を当てた。
「姉さま、ではないでしょう。姉上、とお呼びなさい、ガイ」
「うぅーっ…ごめんなさい、あねうえ…」
ガイラルディアが姉に叱責されて、大きな瞳を潤ませたのを見てヴァンデスデルカは慌ててしまった。その蒼色の瞳から今にも涙が振ってきそうに見えたのだ。「マリィ様、少々きつく言いつけすぎではありませんか。ガイラルディア様はまだ4歳になられたばかりなのですし…」と慌てて捲し立てれば、マリィベルは弟と同じ一対の蒼を、弟とまるで違うかたちにきっと細めて言った。
「まだ、ではありません。もう4歳なのよ。ガルディオス家の跡取りたるもの、もうちゃんとした言葉遣いを覚えていなければなりません。ヴァンデスデルカ、あなたはガイラルディアに甘すぎます」
「で、ですが…」
「ですが、ではありません!」
懐に逃げ込んできた自分の腰ほどの背丈のガイラルディアの背に手を回しながら、ヴァンデスデルカはマリィベルの叱責に肩を跳ねさせた。未熟な自分は、こうやって主であるマリィベルに怒られてばかりだ。それでも、どうしてもガイラルディアに泣きつかれたら助け船を出さずにいられないのだった。そして、ふたりしてマリィベルからお叱りをもらう。その繰り返しが、ヴァンデスデルカの日常だった。マリィベルの言う通り、ガイラルディアのためを想うならもっと厳しく、距離を取って接するべきなのだろう。だが、ヴァンデスデルカには今のところそれをできそうになかった。ヴァンデスデルカは楽しんでいるのだ。その繰り返しを、幸せなリピートの記号を。
マリィベルがもう一度ため息をして、今度のそれはしょうがないわね、と言ってくれるため息だった。すると、彼女はふいに顔を上げて、なにかを見つける。エルドルだわ、と彼女は言った。ヴァンデスデルカは、ガイラルディアは彼女が見ているのと同じ方向に目を向ける。マリィベルが、エルドル、と彼女が呟いた名前をその持ち主に届かせるように声を上げると、その少年は3人の存在に気付いて、噴水広場に入って来た。
白銀の髪と、碧空のごとき瞳。それが、父と対に立つ『白鷹』と呼ばれる騎士のもつそれと同じものだとヴァンデスデルカは知っている。少年が跳ねるたびに頭の後ろでぴょこぴょこと動く、刺繍のリボン。ヴァンデスデルカより小柄な体躯をした、ともすれば少女にも見える少年は、実のところヴァンデスデルカと同い年だという。噴水の袂までやってきた少年が「おはようございますマリィベルさま、ガイラルディアさま」と言った口調はどこか覚束なく、ヴァンデスデルカよりずっと幼げに聞こえた。
少年の名はエルドルラルトという。右の騎士であるフェンデ家と対をなす左の騎士、ナイマッハ家の次男であり、自分と同い年のこの少年を、ヴァンデスデルカはよく知らなかった。彼と、彼の兄メルトレムは、ガルディオスとフェンデの子供たちにとってどこか遠い存在だった。島で顔を合わせることはあるものの、互いに挨拶を交わすくらいだ。特に、ナイマッハ家の長男メルトレムは自分やマリィベル、ガイラルディアを避けているようにさえ思える。エルドルラルトは、そんな兄と常にといっていいほど共に行動している。だから、同い年で家同士も縁があるという格好の友だちに、ヴァンデスデルカは声をかける機会が終ぞなかった。その不自然が気にならなかったのはどうしてだろう、とヴァンデスデルカは思った。
ふいに、エルドルラルトがこちらに視線をよこした。ヴァンデスデルカとエルドルラルトの、青と碧の目がぴったりと向き合う。自分はいつのまにか、エルドルラルトを熱心に見つめていたらしい。エルドルラルトは、ヴァンデスデルカににこりと笑いかけた。それは、ガルディオスの姉弟を真昼の太陽とするのなら、朝ぼらけの太陽の笑みであった。目覚めようとするホドを照らす、柔らかな日差しのような笑みだった。どうして?ヴァンデスデルカは、思った。どうして、このやさしい光を放つ白銀と碧は、自分から遠ざけられたのだろう…
「―――ヴァンデスデルカ、聞いてるの?」
マリィベルの声が聞こえた。はっとなって、引き戻されるような感覚で現実に返る。マリィベルが、ガイラルディアがこちらを見ていた。何をぼんやりしていたんだ、と自分を叱りつけながら、すみません、聞こえていませんでしたと素直に謝った。マリィベルは、呆れながらもおそらくは先程言ったのと同じことを繰り返した。
「だからね、明日はあなたのレヴァーテインが初めてフェレス島から会いにくるのよね、って」
ああ、とヴァンデスデルカは頷いた。「そうです。明日の便で」と言いながら、ヴァンデスデルカはひと月前から指折り数えた日がとうとう明日に迫っていることを思い出した。
ヴァンデスデルカの生家であるフェンデ家は、始祖ユリアの子孫だ。だから、フェンデ家を守るためにこれまでさまざまな決まりが作られてきた。その内のひとつが、レヴァーテイン制度だ。フェンデ家当主を守るために組織される7人の従騎士たちが、当然次期当主のヴァンデスデルカにもつくことになる。中でも、父ヴェルフェディリオにとってのセクエンツィアのような、常にフェンデ家当主に付き従い務めを果たす『第4席』が、次代の『第4席』が、明日ホドを訪れるのだ。
「私の『第4席』は、まだ4つなんです。だから、今は顔合わせだけ」
「ぼくと同い年なんだね。友達に、なれるかな?」
「なれますよ、きっと。楽しみですね、ガイラルディア様」
「そんなこと言って、本当に楽しみなのはあなたでしょう、ヴァンデスデルカ?カレンダーの明日の日付に花まるをつけたりして、いじらしいったら」
「ま、マリィ様!いつ私の部屋のカレンダーを見たんですか!」
「ヴェルフェディリオが教えてくれたわよ?」
「と、父さん…!」
マリィベルにからかわれて顔をかあっと赤くしていると、ふいに、エルドルラルトがくすくすと小さな笑い声を上げていた。ヴァンデスデルカは、はっとしてエルドルラルトを見つめる。細められた目元から漏れだす碧空の如き瞳の光が、ヴァンデスデルカをやわらかく照らしていた。エルドルラルトは、幼げな唇をゆっくり開いた。
「ともだち、」
なれるといいですね、とエルドルラルトは言った。それから、少し目を伏せて、続ける。ぼく、本当はマリィさまやガイさまと、ヴァンともっとお話したいんだ。でも、兄様はダメだっていうんだ、どうしてかは分からないけど…そこまで、エルドルラルトが拙い口調で言ったときだった。
「エルダッ!!!!」
それは、怒号じみた声だった。びくりとエルドルラルトの肩が跳ねて、今呼ばれた名前が彼の愛称であることを知る。ヴァンデスデルカは、声の主のいるである方向に俊敏な動作で振り返った。
黒烏のような漆黒の髪。こちらを睨みつける瞳の色は、碧。その色はエルドルラルトのそれと同じものの筈なのに、どこか恐ろしい。ヴァンデスデルカより大きな、年嵩のある少年を、ヴァンデスデルカは知っていた。
メルトレム・イコン・ナイマッハ。
ナイマッハ家長男にして、エルドルラルトの実の兄。
聖ホリィの噴水の袂、突如ぴたりと停止した空間の中に、彼は足音も立てずに入り込んだ。彼は、動かない、もしかしたら動けないエルドルラルトへと歩み寄って、その手を取る。メルトレムは「こんなところにいたんだね。心配したんだよ」と声変わりを経た少年の声で、言った。それは、先程怒号を上げた少年と同一の人物とは思えないような、彼の父と同じ、柔らかく、身体の芯に染み渡るような声だった。その瞳には、弟以外の何者をも、映してはいなかった。ヴァンデスデルカも、主であるマリィベルも、ガイラルディアも。
さあ、帰るよ。メルトレムに手を引かれ、エルドルラルトはよろよろとした足取りで歩きだす。ヴァンデスデルカは、動けなかった。身体が自分のものではないように思い通りにならなかった。何かを。何かを、言わなければならない、と思ったのだけど、行動に移すことはできなかった。広場を後にしようとするエルドルラルトが振り返って、手を振ったのが、ようやくヴァンデスデルカを動かした。ばいばい、と手を振るエルドルラルトに応じて、手を上げられたのは、エルドルラルトがもう背中を向けてしまったときだった。ヴァンデスデルカの顔は、無理矢理作ったかのような歪な笑みが浮かんでいた。そのやっとの思いで浮かべた笑みは、次の瞬間凍りついた。
ぞくり、とする。
メルトレムが、こちらを睨みつけていた。マリィベルでも、ガイラルディアでもなく、ヴァンデスデルカを。自分だけを、睨みつけていた。うまく名前を見つけることができない負の感情がないまぜになった色が、彼の瞳の中で渦巻いていた。ヴァンデスデルカは、思わず自分を抱きかかえるような姿勢を取っていた。
どうして。
頭の中で無意識に浮かんだ、漠然とした問いに答えをくれるものはなかった。代わりに、マリィベルが「メルトレム」と既にこの場を立ち去った少年の名を呼んだ。「もう随分と、話してないわ」。
「姉上は、メルトレムとお話したことがあるんですか?」
「ええ。彼は、私のひとつ下だから。昔はよく一緒に遊んだものよ、あなたとヴァンデスデルカみたいにね」
彼は変わったわ、とマリィベルは言った。マリィベルは過去を思い起こそうと視線を遠くへやった。その目の先には、丘の上に形作られつつある研究所があった。
「そうね…彼のお母上が、マトリカリアおばさまが、行方不明になったころからかしら」
ホドの緑の丘の上に、ホドとはまったく別のモノが建てられる。もうすぐ完成するであろうそれは、きっとホドの風景にはうまく馴染まない。ヴァンデスデルカは思う。それでもホドはそれを受け入れるだろう。丘の上の研究所はホドを構成するものになる。だが、そうやって迎え入れたものが毒をもっていたら、どうしたらいいのだろう?ホドに害を成すとしたら、どうしたらいいのだろう。そして、それを迎え入れるために犠牲にされたものは、どこへ行くのだろう。
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