その日のカンタビレ家の屋敷は、常よりもほんの少し湧き立っていた。
「では、『総主』。行ってまいります」
そう言って、少年は玉座の間に腰かけた七天兵の総主、通称エルレ・アルハに頭を下げた。ここ十数年の間、不気味なほどに若さと眉目の秀麗さを保つその男は、面を上げるように己が孫にあたる少年に指示する。少年はそれに従って、祖父の前にその容貌を明らかにした。
黒髪の少年である。その色は、カンタビレの人間としては珍しくはない。幼児と分類される区域をやっと抜け出したばかりと見えるその少年は、菫色の瞳をきらきらと眩く輝かせていた。玉座の間に忍び込んでくるカサブランカの匂いが少年をより逸らせた。それが、まだ見ぬ主と対面するために初めてカンタビレの屋敷を出る自分を祝うために飾られたものであると少年は知っていた。
「うむ。己が主となる人間の顔、確とその目に焼き付けて来るがいい」
老成した声が荘厳に告げ、少年は「はい!」と元気よく返事をした。祖父は珍しく満足げな表情を見せて、少年の背後に佇むパルティータに視線を巡らせた。供を頼むぞパルティータ、その言葉に今回のホド訪問の同伴者である叔父パルティータが御意、と首肯した。
今、少年の胸には、大いなる希望が飛来している。
ホド。
母の寝物語に聞いた、白亜の島。
預言の中で『栄光の大地』と呼ばれる、始祖ユリアの愛した場所。
そこに、少年が、カンタビレの使命を負って生まれてきた少年が仕えるべき人間がいる。
はやく、
はやく、会いたい。
少年の心は、既にホドにあった。小さな身体が今にも飛び立ちたそうに身震いしていた。
その時は、もうすぐ。
その日ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデが目を覚ましたのは、いつもより僅かに遅い時間だった。自分の部屋のドアは半分開いていて、どうやら一度起こされてからもう一度寝入ってしまったようだと思う。ヴァンデスデルカは覚醒しきらない緩慢な動作でベッドを立った。
「おはよう父さん、母さん」
部屋を出、居間にやってきたヴァンデスデルカを、既に席についた父ヴェルフェディリオが迎えた。「おはようヴァン、よく寝てたな。寝癖ついてんぞぉ?」とホドのローカル紙であるグロリア・マスケッティエーレ新聞の向こうで父がにんまりと笑う。頬がかあっとなって、慌てて栗色の髪をなめしていると、キッチンから母がひょこりと顔を出した。
「おはよう、ヴァンデスデルカ。あ、玉子ありますけど、目玉にします?それとも、バラバラ?」
「じゃあ、めだ…」
「バラバラ!」
父の大人げなく上げた声で、ヴァンデスデルカの声が掻き消されてしまう。ヴァンデスデルカがあっ、と声を上げた時には時既に遅し、母はキッチンに引っ込んでいた。じとりと父を恨めしげに見れば、父は快活に笑った。「まだまだ甘いな、ヴァンデスデルカ」。
「しっかし、お前が二度寝とは珍しいな」
「からかわないでよ、父さん」
「いやいや、本気だって」
嘆息して、席についたヴァンデスデルカは、父のいつもの軽口をいなそうと思ったが、父の青が自分のそれを射抜くように光っているのに気付く。「眠れなかったのか?」ヴァンデスデルカは、父の言葉に素直に頷いた。
「…うん。今日、僕のレヴァーテインがホドに来るんだと思ったら、」
ヴァンデスデルカの胸に渦巻くのは、期待だけではなかった。父にとっての母のような、自分に仕える存在。それがヴァンデスデルカの元に初めて訪れる。もちろん、楽しみではある。昨日ガイラルディアに言ったように、新しい友達ができるという期待には胸が躍る。これから生涯を共に過ごしていく従騎士がどんな人間なのか、気になって仕様がない。
だが、それと同時に、漠然とした不安があった。身動きができなくなるようなそれは、昨日噴水広場に現れたメルトレムの表情と繋がっていた。あの目。ヴァンデスデルカを睨みつけたあの碧の目が、ヴァンデスデルカを縛りつけて、動けなくする。
ぱさり、と音を立てて、父が新聞を置いた。「ヴァンデスデルカ、」そう、息子の名を呼ぶ。父がヴァンデスデルカを見ていた。自分と同じ青の目が、まっすぐに、ヴァンデスデルカを見つめている。父は、何かを言いたげにゆっくり口を開いた。だが、それは音にならずに、ちいさな吐息になって現れ出でただけだった。父の不可解な行動に疑問を抱きつつも、「お待たせしました、ごはんですよ」とすっかり整った朝食の用意を乗せた盆をふたりの間に置いたので、その疑念はぱあっ、と霧散してしまった。
待ってました、と声を裏返さん様子で口にする父の表情は、いつもの父で、ヴァンデスデルカもまた漠然とした不安を振り払って手を合わせた。「いただきます!」と父が言って、自分と母も「いただきます!」と倣い、フェンデ家の朝食がはじまる。
朝炊いたばかりの白米がこんもり盛られた茶碗。マリィベルに指摘されるまでこれが普通の量だと思っていたが、世間一般からすれば大盛だ。母は「たくさん食べたらその分おっきくなれる!」というのが持論で、白米にしろ、何にしろ、量が半端じゃないのだ。玉子はやっぱりばらばらの炒り卵にしてあって、でもまあいいかと思う。鶏農家のシャーク爺さんのところで買う我が家の玉子は、どんな風に料理したっておいしいのだ。玉子のうまみを味わうには、過分な味付けはいらない。塩と少しの醤油だけで事足りる。口に運べば、しっかり火が通って且つふわっとした触感が舌の上でまろやかにとろけて、一層箸が進んだ。
「さっき話してたの、聞きましたけど。とうとう今日ですねー、ヴァンのレヴァーテインが来るの!ふふ、わたしまでドキドキしちゃって。わたしの次の『第4席』って、どんな子なんでしょうね?」
母が少女のようなうきうきとした様子で言う。それを聞いた父は、あ〜、と、ばつが悪そうに言った。かちゃん、と素麺入りの味噌汁の椀を置く。
「それなんだがな、セツィ。残念ながら、お前は仕事だ」
「えーっ!?」と母は悲鳴じみた声を上げる。
「聞いてませんよぉ、ヴェリオさま…」
「仕方ないだろ、ペールのおっさんが本土での任務で剣士が足りないって愚痴ってきたんだから。だから、今日の朝の便で本土な」
「ううーヴェリオさま、横暴です…」
行ってくれるな、と父が念を押せば、母は不満そうな顔をしながらも素直に頷いた。母は、本当に今日のヴァンデスデルカのレヴァーテインとの対面を楽しみにしていたようだ。母は父の従騎士であり、件のレヴァーテインと同じ『第4席』という位にあたるが、父と婚姻を結ぶことで実家とは事実上絶縁状態にあるらしい。『第4席』は保持したままであるというものの、結婚後実家に帰ったことは一度もなく、7人いる他のレヴァーテインと一線を画された個別に動く存在ということで、件のレヴァーテインが何者なのかも知らされていないのだ。彼女とて、実家に未練がないわけではない。もしそのレヴァーテインがカンタビレの人間なら、実家の兄や、姉の近況が聞けるかもしれないと、彼女は思っていたようだった。
だが、彼女は自分の心境よりも主の命を優先することが当然なのだ。任務を了承すれば、その後はもう不満を漏らすことはなかった。食事が終わり、食器を盆に乗せてキッチンに消えた母の背中に、父は言葉を投げた。それはきっと、母には聞こえなかった。
「…お前だけには、まだ知ってもらっちゃ困るんだよ」
父の言葉の意味が、ヴァンデスデルカには分からなかった。
メルトレム・イコン・ナイマッハには、目の前に広がる風景に見覚えがあった。それは、他ならぬナイマッハ邸。自分が14まで生まれ育った場所だ。なのに、そこは自分の知るそれとはまるで違うものに思えた。メルトレムは、自分が自分の家のなかにいることは確かなのに、自分がどこにいるのか分からなかった。それ程に、その闇は深かった。自分の手足がどこにあるか分からなくなるほどに、深く、昏かった。
しん、と静まり返ったそこに生まれる音は何一つない。己が実在さえ見失う暗闇で、メルトレムは泣き叫びたかった。膝を降り、己を抱きかかえて泣き咽びたかった。だが、その身体は動かなかった。動けなかった。現実の自分より幼い自分が記憶した絶望が、音機関映写機のようにそのシーンだけを繰り返す。あのとき、メルトレムは泣かなかった。あのとき泣きだすべきだったのさえ、メルトレムは知らなかったのだ。
メルトレムは動けないまま、そこに立っていた。その心だけが、光を追い求めていた。この身から遠ざかる金色の光に、死にたくなるほど焦がれていた。
「…っ!!」
メルトレムは、ぱちんと風船が弾けるように突然目覚めた。
どうやら朝食のあと勉学の途中で眠り込んでしまったらしい、と机に突っ伏した自分を冷静に観察する。メルトレムは起き上がって、くしゃりと漆黒の髪を崩すようにして触れた。
昨日、マリィベルたちに会ったのがいけなかった、とメルトレムは思う。ガルディオス家のマリィベルとガイラルディア、フェンデ家のヴァンデスデルカ。メルトレムが意図的に交流を避けてきた同年代の子供たち。本来ならば、友として育つはずだった子供たち。そう、父たちがそうであるように。彼らとの接触は、その日のメルトレムを簡単に眠りに誘わせなかった。だから、こんな日中に眠り込んでしまったのだ。
マリィに会ったのはいつぶりだろう。
一度、彼らのことを想い浮かべた頭は、すぐにそれを追い払えなかった。幼いころ、まだ御三家の子供たちが自分とマリィベルしかいなかったころ、彼女はメルトレムにとって特別な存在だった。物心ついたときには自分には彼女がいたし、彼女には自分がいた。男だとか、女だとか、主だとか、騎士だとか、そんな括りなんて見えなくて、ただふたりで剣の稽古をしたり、ガルディオス家の庭の芝生を転がり合うのが楽しくて。
そう、あの頃は。
母さんがいた、頃、は。
「…エルダ…?」
ふいに、メルトレムは、弟の姿が見えないことに気付いた。いつもなら、自分の勉強中は同じ部屋で本を読んだりして過ごしているエルドルラルトが。メルトレムは、椅子から半ば飛び降りるようにして立って、自室を出た。自分でも思うくらいにうるさい音を立ててナイマッハ邸の廊下を速足で歩く。気が逸るぶんだけ、歩く速度が上昇していく。
居間では、父がテーブルについて読み物をしていた。分厚い眼鏡をして熱心に手元の紙束に目を通す父は、ブツブツと口を動かしていて、そこからは断片的な研究用語を拾うことができる。メルトレムが「父さん」と呼んだのでやっと息子がやってきたのに気付いたようで、頭の中の高速演算を一時停止し、ああ、とひと匙の驚きを乗せた音を発した。
「何だい、メルトレム?」
「エルダを知らない、父さん?」
「エルダ?」
父は書類を手放さずに、「エルダなら、いつものように君といると思っていたよ」と言った。メルトレムは、小さく舌打ちをして苛立ちを露わにした。ふい、と父から視線を外して、弟が行きそうな場所を思い浮かべる。
そして、
メルトレムは、気付いた。
「まさか…」
そう、口にした時には、メルトレムは床を蹴っていた。父が何ごとか発した声が背中を追うが、振り返らない。ナイマッハ邸を出、メルトレムは走った。時刻は、正午。
フェレス島からの定期便が、ホドへ着く時刻だ。
メルトレムは走った。何が自分を走らせるのか、分からなくなるほどに。
「ヴァンデスデルカーっ!」
船着き場には、既にガイラルディアとマリィベルがいた。ヴァンデスデルカとて、約束より早めの時間に着くように来たのに。こちらに元気よく手を振るガイラルディアも、マリィベルも、きっと今日という日を楽しみにしてやって来たのだろう。ヴァンデスデルカにも、あたたかな笑みが浮かんだ。
「遅いわよ、ヴァンデスデルカ!あなたの従騎士なのだから、あなたが一番に迎えてあげなければ」
「大丈夫ですよ、マリィ様。船が着くのは正午の予定ですから、まだ10分もあります」
「ぼくたち待ちきれなくて、30分前から着ちゃったんだよね、あねうえ!」
「これ、ガイラルディアっ!」
マリィベルがムキになって拳を振り上げる真似をして、ガイラルディアが反射的にそれを防ごうと頭を抱える。ぷっと吹き出しそうになったヴァンデスデルカの耳に、たったっと間隔の短いステップ音が聞こえた。ヴァンデスデルカが、マリィベルがガイラルディアが振り返ると、そこにいたのはエルドルラルトだった。昨日、顔を合わせた少年が、こちらに向かって走って来ていた。
「エルドルラルト!?」
ヴァンデスデルカは、はあ、はあ、と苦しそうに呼吸を荒くして3人の前で立ち止った少年の肩に、自然と手を置いていた。はあ、はあ、と激しい呼吸をようやっと落ち着かせて、エルドルラルトは顔を上げた。
「あはは、こんにちは、みんな」
「こんにちは、じゃないだろう。どうしたんだよ、そんなに急いで…」
「僕も」
ヴァンデスデルカが声を荒げたのを、エルドルラルトは微笑みで返した。昨日と同じだ。柔らかく光を放つような、笑み。
「僕も、みんなと一緒に、新しい友だちを出迎えたくて」
エルドルラルトは、碧空のような瞳を放物線のように細めて「いいかな」と聞いた。答えたのはヴァンデスデルカではなくて、ガイラルディアだった。「いいよ、エルドル!一緒にヴァンのレヴァーテインを出迎えてあげよう!」弟が答えたのに応じて、マリィベルもまたそうね、と頷いた。「出迎えるひとが多い方が、相手も喜ぶわ」。
その時、船着き場にぼぉーっと汽笛が鳴り響いた。4人が一斉に振り向いて、海を見る。一隻の船が入港しようとしていた。フェレス島からの定期便だった。フェレス家が自家の資産を投入して作り上げたその船は、見上げるほどに大きく、ただ、ただ、4人を圧倒した。船の上から、誰かが4人を見下ろしていた。それが、自分たちの待ち人であると、どうしてか4人には分かった。
船が、完全に停止する。足場が掛けられ、乗客がぞろぞろと降りていく。
その最後に、「それ」はやって来た。
パルティータ・カンタビレ=ジュエを伴い、ホドへ降り立った。
黒髪。
菫色の瞳。
何もかもが違う。
何もかもが異なる。
だが、分かった。
「彼女」を知る者すべてが、その既視感を理解した。
その少年が、何者であるかを。
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