ホドの海を見ていると思い出す。
既にホドから失われた、得難き真珠の夫人を。
ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデはすと、と羽根のように自然にガルディオス伯爵籍の船舶の甲板に降り立つ。閉じた瞼がゆっくりと持ちあがり、ホドの海と同じ色をした青がすっかり現れたときには、ばしゃあん、と大音量の水音を立ててリヴァイアサンが落ちていった。ヴェルフェディリオは、たった一人で凶悪なリヴァイアサンの討伐任務を遂行した。アルバート流剣術に組み込まれた衝撃波を槍のように突き出す剣技を譜術に極めて特化した自身に向くよう応用し、さながら数多の龍を操るがごとく魔物の身体を第六音素で貫いた。ヴェルフェディリオは既存の譜術式を自在に組み替えて、その状況に応じた譜術を編み出す抜きん出た才があった。それも、譜術式の超高速構築は、彼にとって深く考えることなく行えることだった。一般の「天才」譜術士からは、でたらめとしか言いようがない、譜術士。それが、『神の右手』と呼ばれる男、ヴェルフェディリオだった。
任務を終えたヴェルフェディリオは、しばらくその場を動かずにいた。ヴェルフェディリオの脳裏には、ある女の影がちらついた。その女は、花柄のドレスをたなびかせて、華やかに笑ってヴェルフェディリオの眼前を行き過ぎる。過去も、未来も違わぬ女神のような輝きを放って、ヴェルフェディリオに微笑みかける。
その女は、美しく強い女だった。
『神の右手』と呼ばれるヴェルフェディリオでさえ、譜術を発動させる前に懐へ密やかに踏み込むことを許してしまうような女だった。そして、強かに打ち込まれる剣は軽やかで、重かった。
だが、味方につけば、戦場に立つだけで士気を高ぶらせるような女でもあった。騎士として、ホドの外交官としてだけれはなく、彼女には内から発せられるような輝きがあった。それが、ホドのみならず、マルクト・キムラスカの人間を惹きつけた。
彼女がホドを去ってなお、彼女を慕い焦がれる人間が絶えないのがその証拠だ。
そして、己もまた例外ではないのだろうとヴェルフェディリオは思う。
ホドの海は、先程の騒ぎなど影も形も無く、ただ穏やかだ。海底に宝石が散りばめられてでもいるような美しいそれは、ヴェルフェディリオの目の色でもあって、彼女の目の色でもあった。彼女はいつもホドの海と共にあった。自ら剣を握り、あるいはホドを負う外交官として、果てなき青を縦横に駆け巡った。ヴェルフェディリオと肩を並べて、そして己が及ぶべくもない女神のような絶対的な存在として。
だが、今彼女はホドにいない。
彼女は失われた。失われてしまった。
重苦しい秘密と衣擦れの音だけを残して、ホドを去ったのだ。
「珍しく、感傷に浸ってるね。明日は空から槍が降ってきそうだ」
いや、もう降らせたね。あなたが。聞き覚えのある声がして、ヴェルフェディリオは振り向いた。いつからそこにいたのか、あるいは出航した時から付いて来たのか。レヴァーテインが『第6席』ナリスサッガ・グレニールと、『第7席』エッダナルヴィナ・グレニールだった。ヴェルフェディリオの譜術アレンジを加えた、アルバート流剣技・光龍槍を揶揄してナリスサッガが言った言葉に、クスクスと笑ったのは双子の弟のエッダナルヴィナ。鏡映しのようにいっそ気味が悪いほどそっくりな双子の少年たちからは、耽美的な薫りがして、背に花を負ってでもいるようだった。ヴェルフェディリオは、操舵室の屋根に腰かけ、壁に背を預ける少年たちへ向けた表情が存外に憎々しげに歪んでいたことに、ナリスサッガが肩をすくめたことで気付いた。
「何の用だ、ボウズども」
「ボウズなんてご挨拶だなァ。それを言ったら、ボクらからしたら貴方だって立派なオジサンだけど?」
ち、とヴェルフェディリオが苛立ちを隠さずに短く舌打ちする。『第6席』ナリスサッガ、黄金の巻き髪を垂らした細く美しい肢体の少年の、口から出でるのは茨のようなアイロニックだ。
「ボクらに腹を立てるより、貴方にはもっとやるべきことがあるんじゃないの?」
「…何が言いたい?」
クスッ、とナリスサッガは嗤った。壁に凭れかかったエッダナルヴィナが、クスクス、と口を押さえて秘め事のような笑い声を立てる。引き込まれるような芳しさが、その少年たちにはあった。ヴェルフェディリオは、己を保つべく努めて毅然として少年たちに問うた。
すると、ナリスサッガはヴェルフェディリオのまったく予期せぬ言葉を発したのだった。
「『第4席』…セクエンツィア、ね。ホドに、いるよ」
その瞬間、ヴェルフェディリオは心臓から突如血が逆流し始めたような気がした。
どくんと、大きく胸が鼓動して、ヴェルフェディリオの頭から少年たちが茨の腕を広げて自分を待ち構えていることを忘れた。
「…バカな!あいつはペールに頼んで本土の任務に着かせた、ヴァンのレヴァーテインの訪問が終わるまで帰らないように…」
「その任務は、『第2席』ブルネッロが委託したよ。『七天兵』の指示でね。ということは…分かるでしょう?」
セクエンツィアは、
貴方達が必死に隠し通している『秘密』を、知ることになる。
ナリスサッガが薔薇の花弁のような唇から囁いた呪詛のような言葉に、ヴェルフェディリオは、震えた。それが自分で分かったのと、ヴェルフェディリオの両耳を両の少年の嘲笑が打ったのは同時だった。交響曲のように美しく調和して耳朶を撫でていくそれは、ぞわりと肌が粟立つような生理的な嫌悪感を抱かせた。ヴェルフェディリオは、すぐさまそれを振り払うべきだったのだ。ヴェルフェディリオの中に忍び込んでくる蔓茨を、打ち払うべきだったのだ。
だが、ヴェルフェディリオは動けなかった。
それが、自分の預言であるかのように、必然じみた感覚で少年たちの囁きに縛りつけられた。
少年たちの茨の花園に、囚われてしまった。
「本当は、もっと早くに知る筈のことだったんだ。貴方たちが、それを無闇に遅らせただけの事。それだけ、奈落の底が深くなることは知っていただろうにね」
少年たちのいずれかが、ヴェルフェディリオに言う。それがナリスサッガ・グレニールなのか、エッダナルヴィナ・グレニールなのかは分からなかった。ただ、その言葉と一緒に、クスクスという笑い声がずっと聞こえていた。
「貴方は自分が変われたと思いたいようだけど、そんなことはない。貴方はずっと同じだ。臆病で、自分のことばかり考えている、預言の正確さに怯える情けない男だ。さながら、フランシス・ダアトのようにね。そうやって、自分の代わりに周りの人間を傷つける」
底無しの闇の顎がヴェルフェディリオに向かって口を開けている。動けないヴェルフェディリオは、成す術も無く喰らわれる。呑みこまれ、腹まで行きつき、すっかりそのものとされる。
「貴方は自覚しておくべきだ。人は、預言の示す未来のために動かされる駒にすぎないと」
その圧殺されかねない陰鬱さは、少年たちの最後の言葉とともに一斉に霧散した。
気付いた時には、双子の姿はなかった。ヴェルフェディリオはだらだらと嫌な汗を流しながら、唐突に解き放たれた身体を荒々しく動かした。そして、操舵室の扉を開け放つと、操縦者に言葉を荒げて言った。…ホドに戻ってくれ、すぐにだ!と。
セクエンツィア・アドニス・フェンデは、息を切らせてホドを走る。昼食の準備をしていたらこんな時間になってしまった。何と言っても、今日は息子の、ヴァンデスデルカのレヴァーテインになる人間がホドへやってくるのだ。ヴェルフェディリオにとっての自分のように、ヴァンデスデルカにとって生涯の供となる人間を迎えるならば、ちゃんとしたもてなしをしなければと思って、机に乗り切るか分からないほどのごちそうを用意してしまった。
先輩のブルネッロが任務を代行してくれるよう申し出てくれてよかった、とセクエンツィアは思う。まだ見ぬその子は、自分の用意したごちそうを気に入ってくれるだろうか?活きの良い鶏を締めてローストしたメインディッシュの大皿、春野菜とラディッシュのサラダを、ガルディオス家のパティシエに頼んで作ってもらった純白のクリームを纏ったスポンジケーキを。
セクエンツィアの胸は期待にざわめいていた。心地よいざわめきだった。未知の敵と切り結ぶときに感じるようなわくわくした鼓動が胸を打った。その分だけ、足は弾んで港に向かってセクエンツィアを運んで行った。
その子は、わたしたちの家族になるんだ。
わたしがそうなれたように。
胸が弾んだ。
まばたき一つ分だけでも早く、その子に会いたかった。
そして、
『それ』はやって来た。
「え、」
そう、単音を発したのはマリィベルだった。幼いガイラルディアが、姉が動揺したわけが分からずにただ姉を見上げる。
まるで時が静止したようだった。ホドの白畳にふわりと降り立ったその少年は、軽くステップを踏むようにホドのこどもたちへと歩み寄る。闇のような男がその後ろにつく。自分と同年代の子供たちが集まるそこへ辿りついた時、少年はステップをやめた。立ち止った少年が、彼らに向かってその容貌を明らかにした。
黒髪。
菫色の瞳。
何もかもが違う。
何もかもが異なる。
だが、分かった。
「彼女」を知る者すべてが、その既視感を理解した。
「彼女」のと同じ血を引くものたちは、それが己が「同類」であることに気付かされた。
「はじめまして!僕は、ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ様のレヴァーテイン、シュヴェリア・カンタビレ=ダアトです」
―――その少年が、マトリカリア・クラン・ナイマッハの血を引く子供であると。
少年が、花が咲くような笑顔で右手を差し出した時には、
メルトレム・イコン・ナイマッハは駆け出していた。
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