メルトレムが駆け出したのを、ヴァンデスデルカらは急速に遠ざかる彼の足音で知った。彼らがそうしたように、シュヴェリアと名乗ったレヴァーテインの少年もまた、振り返る。そこに母がいたのに、ヴァンデスデルカは驚いた。母は父の指示を受けて、朝の便で本土に発った筈だった。朝食を終えたあとすぐ正午までと図書館に出かけたヴァンデスデルカは、セクエンツィアがそうせずにホドに留まったことを知る由もなかった。
母と、レヴァーテインの少年の瞳がお互いを捉えた。その瞳の色が同じであることに、ヴァンデスデルカは気付く。水晶の中に花弁状のコンクルージョンが透けるような、菫色の瞳。一杯に花びらを広げてもどこか儚げないろ。少年はただ、茫然とした様子で向かい合うそれを見つめていた。思いがけないところで菫が咲いているのに、純粋に驚いてでもいるようだった。
母は。
母は、目に見えて当惑していた。それはまるで、道に迷った小さな少女のようだった。ヴァンデスデルカの記憶の中で、父や周りの大人たちと一線を画す、若く美しい容姿を保ち続ける母は、ヴァンデスデルカと同じくらいの、いや、それよりもずっと幼い、少女に見えた。帰り路を失くして、今にも泣き出してしまいそうな、ちいさな子供に。
時間にすれば数瞬の邂逅。時が静止したかのようなそれを打ち破ったのは、他ならぬヴァンデスデルカだった。母さん、どうしてここに。その、反射的に口にした言葉が、迷子の少女を母に戻した。自分と同じ色をした少年に引き込まれそうになったその瞳は、現実のヴァンデスデルカをとらえた。その時、ストンとベッドに身体を落とし込むような安心感が自分の中で生まれたのを、ヴァンデスデルカはどこか冷静なところで自覚した。
「兄様!」次に声を上げたのは、エルドルラルトだった。おそらく、彼を追いかけてきたのだろうメルトレムの後ろ姿は、もうヴァンデスデルカたちには見えない。自分の後を追ってやってきた兄が突然姿を消したのを、エルドルラルトはにわかに不安そうになって辺りを見回した。母は、瞳をみるみる潤ませた少年へと駆け寄り、その肩を抱いてやった。
「大丈夫、…エルドルラルト。わたしが、あなたのお兄さんを追いかける」
「…ほんとう?」
「ええ。ヴァンデスデルカ、あなたはエルドルラルトといてあげて…その子を、迎えてあげて」
母は、状況が掴めずに戸惑った様子のレヴァーテインの少年に目をやってから、ヴァンデスデルカに言った。ヴァンデスデルカは是非もなく頷いて、母もまたそれに頷き返した。母はエルドルラルトの肩を一度、ぎゅうっと力強く抱いてから、駆け出した。母の背中はすぐに、見えなくなった。港にはヴァンデスデルカが、幼いそのレヴァーテインの少年とガイラルディアが、表情を鉛のように硬くしたマリィベルが、そして何を考えているか得体の知れない張り付いたような微笑を浮かべるパルティータが残された。
セクエンツィアは走った。胸のあたりが苦しくて、一歩足を前に踏み出すたびに痛みが蜘蛛の巣状になって広がった。それが、身体から発せられる激痛の悲鳴を無視してなりふり構わず足を動かし続けているせいか、あの少年の目の色のせいかわからなかった。
メルトレムがナイマッハ邸に戻った様子はなかった。となれば、彼が行きそうな場所で、セクエンツィアが思い浮かぶ場所はひとつしかなかった。島の北東部。青々とした草むらが広がる、なだらかな丘陵地帯。その一角に、かつてセクエンツィアはある女性とともに訪れたことがあった。それは、ヴァンデスデルカが生まれるよりも前のことだ。当時のメルトレムは、泣き虫の少年だった。主であり幼馴染のマリィベルに情けないと叱咤されては、そのたびに落ち込んでしまっていた。それは、ともにホドを代表する、優秀な騎士を父母に持ったことのコンプレックスも手伝っていたのかもしれない。
あの子は、落ち込んだ時はいつもここに来るのよ。
かつて、彼の母親似あたる女性がセクエンツィアの前を歩きながらそう言った。項を僅かに覗かせる長さの金髪が、太陽を反射して天使の輪っかを作っていた。あんなに眩しいものはないと、今でもたやすく瞼の裏に描けるような、美しい金だった。セクエンツィアは、前を行くもののない坂道を、一気に登り切った。
そこに、メルトレムが立っていた。
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、セクエンツィアはその少年を見つめていた。彼女から背を向けたかたちで、少年は佇んでいた。彼の母親とも、父親とも異なる、黒鳥色の髪が上天の光を鈍く反射する。彼と向かい合う位置に立つ、みっつの墓石。それらには、それぞれメルトレムの義姉、実姉、祖母にあたる人物の名が刻まれている。セクエンツィアの知らない、かつてホドに生きた人々の墓。ヴェルフェディリオの、ジグムントのアクゼルストの、そして、あの女性のよく知る、今はもういない、慕わしい人たちの墓だ。
そして、
みっつの墓石に並ぶようにして、十数個の小石が積まれている。そこから零れたのであろうより小さな小石が、その周りにばらばらと落ちている。丁寧に乗せられた、幾度も積み直された小石の塔の周りに、ささやかな花たちが置かれている。しおれたものはひとつもなく、そのどれもが瑞々しく新しいものであることに、そこに祀られた人物がどれだけ民の尊敬と敬愛を受けていたかがうかがえる。セクエンツィアも、その民のひとりだった。彼女もまた、その人物を想って花を供えた。セクエンツィアの知るホドで最も美しく、勇敢な女騎士へと、花を手向けた。
「…あの子の顔を見たか、セクエンツィア?」
マトリカリア・クラン・ナイマッハ、10年前ホドの海に消えた女の息子は、セクエンツィアが記憶していたそれよりずっと低くなった声で言った。声質は彼の父と同じなのに、彼のようなじんわりと身体の芯に染み渡る低音ではなく、地面を這ってくるような底冷えのする低さだった。
「黒髪。菫色の瞳。何もかもが違う。何もかもが異なる。だけど…笑った顔は、エルダと同じだ。母さんと、同じだ」
「ああ、髪の色は僕と同じだったな。くくっ、何て趣味の悪い偶然だろう」。くっくっと笑うその顔は父のものとも、母のものとも違う。深淵から聞こえてくるようなそれに、セクエンツィアは震えが止まらなかった。そんな。あの人は、死んだ筈だと、言ったと思う。震えた声のそれを聞いて、メルトレムはヒッ、と引きつけを起こしたような笑い声を上げた。
メルトレムが振り向いて、みっつの墓石に並んだ石の塔を示した。ホド‐キムラスカ間の定期便が難破して行方不明となった彼の母親を、死体の見つからなかった彼女を悼むために島民たちが積み上げた小石。生死不明という苦く曖昧な結論のために墓を造ることもできずに、それでもせめて帰らなかった彼女を想って建てられた悼みの塔。それを睥睨して、「こんなものは、まやかしだ」とメルトレムは言った。絶望のように言った。
「母さんは、死んでなんかいない。母さんは生きている。一目で分かった。あの子供は、母さんの子だ…」
メルトレムは、弾劾の人差し指をセクエンツィアに突き出す。
「あんたの生まれた、カンタビレ家で産んだ子だッ!!!!!!」
ぐらり、と
世界丸ごとが揺らいだような気がした。立っていられないような眩暈がセクエンツィアを襲う。だが、それは許されたなかった。許さなかった。弾劾者としてのメルトレムが、それを許さなかった。違う、だとか、そんな、だとか、現状を否定する言葉を羅列することしか、できなかった。
そんな。じゃあ、兄様と姉様はどうした。あの子がカンタビレ=ダアト家の子ならば。兄様と、マトリカリア様の子ならば。どうして、マトリカリアはホドを去った?それは、補完の役割のためではないのか?カンタビレに近い血をもつ彼女が、レクエラートと番ったのは。
兄と、姉が一度、結ばれたから。
その代替品として、マトリカリアが必要とされたから。
「どうして、知らないんだよ。あんた、カンタビレの人間のくせに、どうして知らないんだ。母さんは、あんたの代わりにホドを去ったんだ。あんたのせいで、」
メルトレムの弾劾は、礫のようにセクエンツィアを穿つ。セクエンツィアの脳裏に過ぎるのは、映写機を早回しにしたような記憶の奔流だ。主であるヴェルフェディリオとの結婚を認めてくれた兄、スタールビーのペンダントとウェディングドレスを送ってくれた姉。彼らは知っていたのだろうか。ふたりが、より濃い血統を保つためにと、家畜にそうするような理由で、望まぬ形で結ばれることを。そして、子供と夫を捨て置いてでも、花柄のドレスをたなびかせてホドを去っていったマトリカリアは。知っていたのだろうか。それでも、ホドを去ることを選んだのだろうか。
かれらはそのすべてを知っていながら、セクエンツィアに伝えることを良しとしなかった。
セクエンツィアを、その幸せを、守るために。
「あんたのせいだ!!母さんがホドを出ることを選んだのも、…僕と、エルダを、ふたりきりにしたのもっ!!あんたが、生贄になればよかったんだ!!あんたが、兄妹同士が番い合う狂った一族のままでいればよかったんだ!!!!あんたなんかが、ホドの人間になったつもりでいて、気持ち悪いんだよっ!!!!!」
セクエンツィアは、知る。
自分の幸せは、他人の幸せを奪って手に入れたものだったのだと。
「ごめんなさい…」
視界が揺らぐ。
身体ごと、ぐらりと揺らいだ自分の重心を抱きかかえるようにして、セクエンツィアは倒れた。唐突に暗転する意識の最後に、ヴェルフェディリオの声が聞こえた気がした。
ごめんなさい。
|