沼底から浮き上がるように目が覚めると、視界に白い天井が移った。
それが、トラディス個人病院の病室の天井であると、セクエンツィアは知っていた。
彼女の覚醒とともに、「セツィ!」と声が鳴った。それが己の名を意味する音であると認識するのに、いくらか時間が要った。そして、主であり夫である男がそう呼んだのも。セクエンツィアは、ベッドの上に身体を横たえたまま彼を見やった。ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデが母親に置いて行かれた子供のような顔をしてセクエンツィアを見つめ返していた。セツィ、ともう一度、彼の唇がそう動く。その唇が震えるのが、そこからやってくる音までも震えさせる。一刻も早く、その肩を抱いてやらねばならなかった。彼を抱き寄せて、何も恐れないでいいと優しく言ってやらなければならなかった。
だが、セクエンツィアの身体は動かなかった。身体中に重い鎖が巻きついているようだった。そして、それは他ならぬ彼女自身から生え出ているのだった。
「…メルトレム、は、」
はじめにセクエンツィアの口から現れたのは、あの黒髪の少年のことだった。自分の預かり知らぬ由縁から現れ出でた鎖に縛られて、苦しみもがいていたあの少年。セクエンツィアの問いに、ヴェルフェディリオは一瞬痛みを受けているように顔を歪めて、「アルが、連れ帰ったよ」と言った。
「どれくらい、わたし、ここに?」一文節ずつたっぷり拍を置いて、セクエンツィアは言った。高低のない平らな声は、とても彼女のものとは思い難かった。「丸一日だ」とヴェルフェディリオが答える。セクエンツィアは驚いて表情を少しだけ動かした。丸一日。そんなに、長く。あのとき、メルトレムの激昂を受けて、堪え切れずに倒れたのは覚えている。それにしたって、長すぎる。頭を打ったかなにかしたのだろうか。それとも、その前に感じた身体の不調は思い過ごしではなかったのだろうか。
からだから浮かび上がる鎖がずしりと、重みを増す。
ヴェルフェディリオは黙っていた。彼はなにかを言い淀んでいた。口の中がからからになって、足りなくなった水分を無理矢理ひり出して、呑みこむ。ぐぅっと彼の喉の出っ張りが上下した。そして彼はゆっくりと口から開いた。そこから現れ出でた言葉は、干乾びて湿り気がなかった。
「子供がいるんだ」
お前のお腹に、とヴェルフェディリオは言った。セクエンツィアは瞬きひとつしなかった。ただ、ぼんやりと虚空を見つめていた。その瞳の中で紫紺が咲いていた。散っても、散っても、またあたらしく花開く、呪いのような色が。
レヴァーテインの少年が母親のいないフェンデ邸で一夜を過ごし、去っていった日の夕方のことだった。倒れた母親のこと、そのほかの様々なことがヴァンデスデルカにいずれ自分のためにその生涯を捧げることになるあの黒髪の少年への振舞いをぎこちなくさせた。レヴァーテインの少年は気にするふうもなく現『第3席』パルティータと共にフェレス島へ帰っていった。今度、彼はいつホドへやってくるだろう。そのとき自分は彼に笑いかけることができるだろうか。その顔は、引き攣り歪んではいないだろうか。
ヴァンデスデルカは、名付けようのない思いを抱えて自室のベッドに腰かけていた。己以外に存在するもののない部屋で、自分で自分を抱きしめた。
母は、今日の昼過ぎになって父に連れられて帰って来た。母が倒れたと聞いた時ヴェルフェディリオは気が気でなかったが、帰って来た母の表情を見たときその不安はますます肥大した。疲れ切った母の顔。感情を乗せるのが億劫になった表情。それは、まだ少年のヴァンデスデルカをひどく恐れさせた。ささやかに花開く菫。ちっぽけであっても、零れるような光を溢れさせる笑み。ヴァンデスデルカにとって、母というのはそのような存在だった。それとかけ離れた、今まで見たことも無い母の姿は、ヴァンデスデルカを大きく揺らがせた。震えが収まるように、自分を縛るように一層強く自分を抱きしめた。
無力だった。自分が、ひどく無力な存在に思えた。この手は、この腕は小さすぎて、自分ひとりを抱きしめるので精いっぱいだ。こんな、こんな無力な腕では、だれも守れない。なにも、できない。
「僕は…僕は、父さんのようにガイラルディア様やマリィベル様を守れないし、母さんを慰めることもできない。…僕に、何ができるんだろう…」
その時、部屋の外でガタンと音がした。ヴァンデスデルカは小動物のようにびくっと肩を浮かせて、居間に続く扉に目をやった。かたく閉め切られた扉に、ヴァンデスデルカは静やかに忍び寄った。細心の注意を払って、扉をほんの少しだけ開ける。馬鹿みたいに震える手で。
その隙間から、オレンジに光る光景が零れる。
椅子が一脚倒れていた。さっきの物音は、あれだろう。母が蹲っている。その背を父が抱いている。ふたりの表情はヴァンデスデルカの目に見えなかった。窓からオレンジの光が射していた。そこに存在するすべてが、眩いばかりのオレンジに染まっていた。
母がその細く白い手首に当て、父が払い落した短刀。
床に落ちたそれが、夕日を反射して痛い程の光を放っていた。
カラン、
カラン、カランと、床に転がった短刀が、柄の部分を軸にして回転していた。いつまでも鳴っているその音が耳鳴りのように耳の中で響いていて、その回転がいつまで続いているのか、それとももう回るのを止めているのか分からなかった。ヴェルフェディリオは、右手を短刀を払い落した位置にしたままで、言った。
「…ふざけるな」
まるで、家が丸ごと振動したような危機感を覚える大きな音を立てて、一脚の椅子が倒れた。外出していたヴェルフェディリオが帰った途端、滑り込むように居間に座り込んだ女と、女が手首に当てた短刀の間に割って入ったからだ。ヴェルフェディリオは、握っていたものをなくして力なく宙に浮いているその手を、ぐいと掴んだ。
「ふざけるな!!許さないぞ、これだけはっ!!!!」
それは、ヴェルフェディリオがその怒りを露わにしたとき吐き出す声だった。彼は、普段怒りと言う感情を表ざたにする人間ではない。それほどまでに、今彼の中で湧きあがる感情が溢れ出んばかりのマグマに似たそれであることが察せられた。
セクエンツィアは、蹲ったまま動かなかった。長い間、そうしていた。痺れを切らしたヴェルフェディリオが声を上げようとした、その時、ゆぅらりとセクエンツィアが顔を上げた。幽鬼のようなその動きに、ヴェルフェディリオは言おうとした言葉をそっくり呑み込んだ。
その表情は。
ああ、その、表情は。
「…わたしの」
世界の果てを見たかのような、絶望、が浮かんでいた。
「わたしのせいで、レクエ兄さまとキリエ姉さまはしあわせになれなかったんです」
カンタビレの、呪いのような菫の瞳から涙が溢れる。滂沱のようなそれが、セクエンツィアから感情というものを流れ落としていく。それらを落とし尽くして、仮面のように平らになった顔に、それでも涙の海は流れ続ける。
「わたし、幸せになんてならなくてよかった!わたしのせいで、兄さまや姉さまだけじゃない、わたしはマトリカリアさまの、アクゼルストさまの、メトロムとエルドルの幸せを奪ったんだ!わたしが死ねばよかった!姉さまの代わりに、わたしが兄さまのところへ行って、死ねばよかった!!わたしが死ねば、姉さまは死ななくてよかったし、マトリカリアさまがホドを去らなくたってすんだ!!わた、わたし、なんて、」
いなくなっちゃえば、いいんだ
最後の言葉を、ヴェルフェディリオは言わせなかった。セクエンツィアが泣き叫ぶたびに滑り落ちていった右手の代わりに、その左手でセクエンツィアの背を抱いた。セツィ、と彼は妻を呼んだ。願わくば、彼女の絶望をも打ち払うように、強く。
「セツィ。セクエンツィア、いいか。よく聞け」
セクエンツィアは知ってしまった。姉と兄が望まぬ形で結ばれたこと、姉が死んだこと、死んだと思われていたマトリカリアが兄のために家族を置いてホドを出たこと。預言に記された、かつて未来であった出来事。今は過去と呼ばれる出来事。
すべては、預言に記されたこと。セクエンツィアの兄は姉は、マトリカリアは、始祖ユリアとその遺産に心酔し崇拝するカンタビレに連なる彼らは、きっと知っていた。己が預言を知っていた。だが、彼らは自らの預言の通り動いた。それは、預言に記された未来に従っただけのことなのか。それとも、自ら選んだ結末だったのか。
ヴェルフェディリオには分からない。
「おまえの兄貴は、レイはなあ、」
ただ、涙が頬を伝いゆくように、己が見たままの彼を伝えることしか。
「言ったんだ。『妹を頼む』って。俺に、ずぅっと頭を下げて」
兄として、カンタビレの檻を抜け出そうとする妹へ、
「しあわせになれって、言ったんだ」
幸福であれと、鎮魂歌と名づけられた男は言祝いだのだ。
セクエンツィアは、いつまでもその場に蹲っていた。ヴェルフェディリオは、その背をいつまでも抱いていた。女の呻き声が部屋に響いてずっと止まなかった。窓から差し込むオレンジ色の日差しが、部屋全体をオレンジに染めていた。このまま世界の終りがきたとしてもおかしくないと思っていた。
「父さんの研究所の、手伝いがしたいんだ」
メルトレムが、感情を乗せ損ねた声で父に告げた。
「音機関のことを専門的に勉強したいし、…何か、没頭できることがしたい。何も、考えなくていいような」
アクゼルストは暫くの間黙り込んでいた。閉じた瞳を、ゆっくりと開いて、碧空が息子を捉える。「分かった。君がそうしたいなら、やってみなさい」とアクゼルストは答えた。メルトレムは、虚空がぴったりと張り付いた顔で礼を述べた。
(大丈夫。僕は、大丈夫)
メルトレム・イコン・ナイマッハの、ホド・フォミクリー研究所への参入。それが、ホドの一手目であることは、預言に記されていたのだろうか。
(はやく、はやく、終われ。僕、なんて、)
ホド以外のすべてを相手取った、世界と言うチェス盤の。
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