「マトリカリア、という女性を知ってる?」

 下校途中、朝からずっと浮かない顔だったマリィベルがそう口にしたのに、メグミカ・アディティとマーグメル・ルイスはお互いに顔を見合わせた。「マトリカリアって、マトリカリア・クラン・ナイマッハ様のこと?」とメグミカが聞き返せば、「そう」とマリィベルは陰鬱な声色のまま肯定した。

「マトリカリア様って、10年くらい前に行方不明になったマリィの叔母様よね。10年前って言ったら、私達が5歳のころだけど、なーんとなく記憶にはあるわ」
「うん。私やメグみたいな、キムラスカからの移民の子孫の居住区であるビナー地区によく立ち寄ってくれてた記憶があるな」

 幼少時代の記憶を探りゆくように音譜帯を見上げたメグミカに倣って、マーグメルも空を見上げる。薄く閉じた瞼の裏に浮かぶのは、メグミカとマーグメルの雇用者であるガルディオス伯爵の娘でありふたりの大切な友達であるマリィベルと同じ色の金だ。どれだけ記憶の海に潜っても、眩く光り輝くそれには一片の翳りも見つけだすことができない。だが、本当はそんなことはない筈だ。彼女にだって、『レディ・バロック』と呼ばれた彼女にだって心に秘めたものがあった筈だ。そのすべてを、花柄のドレスで覆い隠して、白百合のように笑う。それが、マーグメルやメグミカのような、マトリカリアという女性をひと欠片でも知るものにとって彼女に対して抱くイメージだった。

「マトリカリアは…私の叔母上はね、行方不明になったんじゃなくて、ホドを出てフェレス島に行ったんですって。そこで、義理の弟にあたる人と一緒になったんですって」

 だから、マリィベルがそう告げたとき、ふたりはぎょっとした。メグミカの活発な性質をよく表すツインテールの黒髪の先がぴくっと跳ねて、「それって、どういうこと?」と聞いた。その言葉の端はふるりと震えて、メグミカの困惑と動揺を察せられた。そう努めて平静に同い年のメグミカを観察したマーグメルだが、自身こそマリィベルの言ったことを信じられずにどこか他人事のように効いていることしかできていないのだとも分かっていた。メグミカの問いに答えず、マリィベルは独り言のような言葉を紡いだ。「こんな風に思うのは、きっと間違ったことだけど」。

「私、父上からそう教えられた時、マトリカリアを…おばさまを羨ましいって思ったの。だっておばさまは、父上を、ホドを守る騎士のまま、愛するひとと結ばれた。そして、そのすべてを捨ててホドを出ることを選んだ」

 さあっと一陣の風が吹いて、マリィベルの長い髪をたなびかせる。少女としての花の盛りを迎えたマリィベルは光を放つほどに美しい。同級生であり彼女付きのメイドであるふたりの少女の知る限り、その双眸には常に貴族の子女として生まれた誇りと、その定めを知る蒼があった。だが、今その瞳に映っているのは、羨望であり、飽くなき憧憬であった。

「私には、」

 私には、できない。だから羨ましい。そう、呟いた声は、あまりにも儚かった。その横顔は、己がいずれガルディオス家のために嫁がねばならないことを、ホドを離れなければいけないことを知っていた。だが、それを拒む色はそこにはなかった。彼女は受け入れている。すべてを、受け入れている。だからこそ、叔母にあたる女性へ嫉妬にも似た思いを抱いたのだ。  マリィ、とメグミカが友人の名を呼んだ。マリィベルはもう、続きを言わなかった。その背はふたりに余りにも遠く、そして美しいまでに潔かった。





「ハーハッハッハ!さーすーが、僕とジェイドが監修しただけあって、最高の研究所だね!」
「…家名か階級で呼ぶように、何度言ったら分かるんだい?ネイス少尉」

 父の研究に協力しはじめたメルトレムがその二人の姿を目にしたのは、フォミクリー研究所が完成して間もないころだった。ホドにおけるフォミクリー研究の黎明期となったその頃、ホド本島は元よりホド諸島の島々や遥か本土からその研究所に百人を超える研究者たちが集まって来ていた。その中でも、その二人の姿は際立って見えた。
 一人は、黄金色の髪をふわりと肩にかからない位置に浮かせた男。その双眸はおよそ人に自然に現れるものとは思い難い、血液の色そのままの赤が収まっている。メルトレムを見ているとも、他の何を見ているとも知れなかったが、本能的な恐怖を喚起する色であるとメルトレムは思った。彼はレンズのごく薄い眼鏡をかけていたが、それがなければ彼の瞳が何の障壁なく自分と向き合うことになるのだと思うと、ぞっとした。
 もう一人は、同じ赤であっても一人目とは異なる桃色を帯びたそれをもった男である。その色は、下品なほどに大っぴらに花びらを開かせる大薔薇を思わせた。彼の方も眼鏡をしているが、こっちは丸眼鏡だ。肩までできっちり切り揃えられた機械的な色の銀も相俟って、神経質そうな性質がうかがえた。ネイス少尉と呼ばれた男は、黄金色の髪の男にすげなく言われると、ちぇっとひどく子供っぽく悪態をついて「はあい、カーティス中尉」と言った。
 ネイス少尉、カーティス中尉と呼び交わすその二人の男性が纏っているのは、マルクト軍の正式な軍服だった。首都グランコクマの象徴である水を基調としたそれの上に白衣を羽織った二人は、周りの研究員たちよりずっと若く、青年と言ってもよかった。だが、研究員たちが彼らに黙して払う敬意のようなものを感じられた。自分より年嵩の研究員たちが自然に彼らのために開ける道を平然と歩いて、ネイス少尉と呼ばれた男が歩み寄ったのは、ひとつの音機関装置だった。装置の前で立ち止まった彼に並んで、カーティス中尉と呼ばれた男が「どうした?」と聞くと、尋ねられた男はふぅんと顎に手をやった。

「これ、僕が設計した音素測定装置だね」
「ああ…あの、複雑にし過ぎて音機関技師が組み上げられずに匙を投げたやつか」
「そう、それ。あの技師連中が低レベルだったのもあるけどさ。…ねえ、この音機関を組み上げたのは誰?」

 ネイスという男が、後ろに目をやってそう聞いたのを、ふたりに影のように付いて行っていた父がメルトレムを慌てた様子で手招きした。「この子です、バルフォア博士、ネイス博士。私の息子です」。
 メルトレムを、ふたつの赤が覗きこむ。振り返る血液の色の目の男、メルトレムに合わせてわずかに視線を下した薔薇色の目の男。そのどちらもが、まるで感情を乗せていなかった。



「名前は?」
「…め、メルトレム・イコン・ナイマッハ」



 名を尋ねたネイスに答えた声は、情けないほどに震えていた。薔薇色の瞳は数瞬メルトレムを映してから、「気が向いたら、覚えておくよ」と言った。そして、メルトレムに興味をなくしたかのように背を向けて、別人のようになってカーティス、もしくはバルフォアにはじめのように絡み始めた。メルトレムは、放心状態のまま思っていた。彼らの瞳に移る自分や父、他の研究者たちは、彼らの周りにある音機関とかわりがないのだ。命あるものと、そうでないものの区別がついていないのだ。最も近くにいるものでさえ、互いさえも、きっとそうだった。そんなことを想いながら、メルトレムは父に促されてふたりに背を向けた。それから、そのふたりがホドのフォミクリー研究所を訪れるのを見たことはなかった。





「驚いたよ。君が、自ら申し出てくれるとは」

 そう言ったアクゼルストの声は、驚嘆が滲んでいた。ナイマッハ家に多く見られる白銀を不精に伸ばし、簡素な髪紐でまとめたその男は、騎士というより研究者の表情をしていた。



「感謝するよ、ヴァンデスデルカ。君の協力は、ホドのフォミクリー研究において素晴らしい成果を生むだろう」



 後ろで、ずっと何かの音機関の稼働音が聞こえていた。わずかの不快感とともに耳に張り付いてでもしまいそうなそれに、いずれは自分は慣れてしまうのだろうとヴァンデスデルカは思った。





 エルドルラルトを見かけたのは、研究所からの帰り道だった。ホド島の中心部から外れた、北東部の丘陵地帯にそびえ立つそれを後にしたヴァンデスデルカは、さっき分かれたばかりの人物と同じ透けるような白銀を見つけた。同い年にも関わらずヴァンデスデルカより一回り小さな体躯の少年は、ゆりかごを揺らすようなリズムで身体を揺らして歩いていた。それが彼の歩き方なのかもしれなかった。その手には、シロツメクサの花冠があった。エルドルラルトが作ったのだろうか?器用なんだな、と思うと同時に、自分はエルドルラルトのことを何も知らないのだなと思った。
 エルドルラルトの後を追ったのは自然な行動だった。追いかける、と言うよりも、後をついていく、というような具合だった。エルドルラルトの歩く速度について歩いた。それはひどく穏やかで、安らかな速さだった。
 しばらくそうやって歩いていると、ヴァンデスデルカはふと、気付かされた。この道は。ヴァンデスデルカが、ひと月に一度母に連れられて歩く道だった。青々とした草むらが広がる丘陵地帯。エルドルラルトがどこに向かっているのか、ヴァンデスデルカはようやく理解した。
 小高い丘を越えると、眼下にホドを見渡せる場所があった。そこに、みっつの墓石と、小石を積み上げた小さな塔が立っている。その内の、塔の前でエルドルラルトは立ち止った。塔に向かって、小さな両手で花冠を掲げていた。その時、エルドルラルトはどんな顔をしていたのだろう。背を向けたエルドルラルトの表情は、ヴァンデスデルカには見えなかった。  顔も知らない母親の、偽りの墓標に向かうエルドルラルト。



「ぼくね、前から兄様や父様たちに黙って、ここに来てたんだ」



 前、広場できみたちと会ったのも、その帰りだよ。驚いて、ヴァンデスデルカは目を丸くした。いつの間にかエルドルラルトが振り返って、ヴァンデスデルカを見返していた。その顔に浮かんでいたのは、見るものの心を凪ぎさせる彼の父の笑みとは少しだけ違う、輝くようなそれ。恥じらいながら開く花びらのような。見覚えのない笑顔。だが、ヴァンデスデルカを照らすような、懐かしい笑顔。それは、彼の母親が浮かべるそれだったのかもしれない、と思った。それなら、メルトレムはどのように笑うのだろう。父のようにだろうか。それとも、母のようにだろうか。ヴァンデスデルカは、知らない。彼の笑顔を、知らない。

「聞いたよ。父様の研究所の実験に、協力するんだってね」
「あ、ああ…できるだけ、多くのサンプルが必要だって聞いたから。それに、実験って言ったって、ちょっと体内音素値を計測したりするだけだよ」
「…ぼく、嫌いだな。あの、研究所。だって、父様と兄様を連れて行ってしまうから…」

 エルドルラルトの表情が翳りを見せたのが、ヴァンデスデルカを揺らがせた。彼の父はフォミクリー研究所の所長だ。そして、彼の兄も研究者見習いとして父を助けていると言う。となれば、ナイマッハ邸に残されるのはマルクト軍に従軍して多忙な祖父ペールギュントと、彼だけだ。ヴァンデスデルカの胸が、つきんと痛んだ。「どうして、ヴァンは研究に協力しようと思ったの?」とエルドルラルトが聞いた時、ヴァンデスデルカは心の中に浮かんだ靄が溢れだすのを感じた。



「…僕は、無力だ。まだ、ガイラルディア様とマリィベル様を守ることもできないし…母さんの力になることもできない。でも、研究所で…言われたんだ。僕の協力が、すばらしい成果を生むことになるって。こんなことは、本当に些細なことだけど…僕が、誰かの役に立てるかもしれないって、そう思った」



 ヴァンデスデルカの脳裏に浮かぶ光景。蹲る母。その背を抱く父。母の涙、嘆き、床に転がる短刀。すべてがオレンジ色に染まっていた。



「僕の腕は、何も掴めない」



 彼女がエルドルラルトの母をホドから去らせたと言うののなら、エルドルラルトの、メルトレムの幸せを奪ったのだと言うのなら、自分もまたそうなのだろうか。目の前で儚げに立っているこの少年から母を奪ったのは、自分なのだろうか。

 ふいに、エルドルラルトがすっと右手を差し出した。「エルドル、ラルト?」そう彼の名を呼ぶと、彼は「エルダで、いいよ」と微笑んだ。招かれるようにして、その手を握る。笑みを浮かべたエルドルラルト。その意味が分からなくて、困惑する。エルドルラルトは、笑いながら言った。



「きみの名前は、ヴァンデスデルカ。古代イスパニア語で、『栄光を掴む者』」



 エルドルラルトは、ひとつひとつの音を大切に発音した。「そして、」ヴァンデスデルカの名を、たからもののようにして読み上げた。



「ぼくの名前は、エルドルラルト。古代イスパニア語で、『栄光の世界』」



 ね、君の腕は、何も掴めないなんてことないよ。エルドルラルトが笑う。白銀と碧が、やさしく光を放つ。



「ねえヴァンデスデルカ。きみの上に、どんな預言が詠まれていようと」



 エルドルラルトが、花冠をヴァンデスデルカの頭に乗せる。母のために作ったのだろうそれを、ヴァンデスデルカに与える。彼は知っていたのだろうか。ヴァンデスデルカの母が、ヴァンデスデルカが、彼から母を、もしかしたら父を、兄を奪ったことを。



「ぼくは、きみを祝福するよ」



 それでも、彼の笑みは、栄光とともに光り輝いていた。



Confutatis [