揺り籠の中で嬰児が寝息を立てている。クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレはその子を、1歳と4月になる我が子を物言わず見つめていた。普通の父親ならば、安らかに寝入る我が子の髪に笑みを浮かべて優しく触れ、この世の幸福そのものである赤子にキスのひとつも落としてやったかもしれない。だが、クリムゾンはそうしなかった。彼は、我が子に触れることに恐れているようにも見えた。自らの血を分けた我が子に。
クリムゾンとその嬰児が血を分けた父子であることは、誰の目から見ても明らかなことだった。ふたりは同じ色を持ち合わせていた。幼児の柔らかく生え揃った髪と、今は瞼の裏に秘された瞳は、クリムゾンのそれらと同じ色をしていた。そして、それらは彼らがキムラスカの王族に連なる人間であることを如実に示していた。
赤い髪。
緑の瞳。
キムラスカの王族に連なる男児。
世界から、死を命じられた子供。
クリムゾンは、息子を見つめていた。
その手が息子に触れられることは、ついに無かった。
「11年前」
マルクト帝国の最奥部に集う影のうちひとつがそう語り始めたのを、マルクト軍参謀隊長ブーゲンビル・アルフェレス大将は聞いていた。彼もまた、ここに集うことを許された影であった。マルクト帝国の最たる暗部を背負う、選ばれた人材であった。
「ジェイド・バルフォア博士が、物質のレプリカを作り出す技術を発明した。フォミクリー技術と名づけられたこの技術は、以来我がマルクト帝国で研究が続けられてきた」
影が、続ける。
「その目的は、フォミクリー技術の軍事転用である。8年前、バルフォア博士が製作した生体レプリカ…レプリカ・ネビリムが引き起こした連続譜術士死傷事件は記憶に新しい。レプリカ・ネビリムの力は凄まじかった。ホドの『神の右手』ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデ、フェレスの『譜陣士の中の譜陣士』ヴィオレノッテ・フェレスの力をもってしても、封印という形でしか阻止できなかった」
連続譜術士死傷事件について言及されると、いくつかの影が身じろぎした気配があった。その中に、8年前の事件に実際に関わったことがあるものがいるのは自明のことだった。
「生体レプリカの実用化、そして軍事転用。これが可能となれば、我がマルクトの軍事力はキムラスカを遥かに上回ることとなる。しかし、フォミクリー技術は未だ不完全なものと言わざるを得ない。被験者とレプリカの固有音素振動数の大幅なズレが、レプリカの音素結合を不確かなものにし、音素乖離や精神崩壊を招く。
…だが、我々は当時ダアトの一研究者であったアクゼルスト・テオラ・ナイマッハ博士の論文の中に、新たなフォミクリー理論への可能性を見出した」
とん、と、資料であるナイマッハ博士の論文を机に落とす音。
「ホド人の身体を構成する音素に、第七音素が含まれているという、事実」
それは、アクゼルスト・テオラ・ナイマッハという一人の青年が、ホド人である自らをサンプルとして見出した研究結果であった。彼は、そこに後のフォミクリー技術に連なる理論を構築していた。…ならば、彼はバルフォア博士のようにレプリカを作ろうとしていたのだろうか?死したモノを。失くしたモノを、取り戻すために。
若き日のアクゼルスト・テオラ・ナイマッハの研究結果は、真実であると証明されつつある。ホド・フォミクリー研究所に集められたサンプルによって。
人体の構成音素に、その固有音素の結合として第七音素が存在する。それは、本来の人体には有り得ない構造だ。それも、純粋なホド人ほどその傾向は強かった。そのような構造を持ったホド人が、他と同じように平常に暮らしている。
それは、第七音素がフォミクリー技術の補完を成すという証明に成り得る。
しかし、サンプルが足りない。そう、別の影が言う。フォミクリー技術を補完するためには、膨大なサンプルが必要だ。影が言う。それこそ、全ホド人のサンプルが、レプリカ情報が。
だが、それをあの男が、ホド領主ジグムント・バザン・ガルディオスが許す筈がない。レプリカ情報の検出、それぞれ被験体の音素振動数に応じた音素の注入は、理論的に証明されていないものの、リスクを伴った。事実、ホドでも既に被験者の中に死者が出たと聞く。
穏便に、ホド人のレプリカ情報を手に入れる術があるだろうか。
「手は、ある」
そのような難色を示す声に、影がニヤリと笑った気がした。
「マルクト皇室に伝わる秘話によると…首都グランコクマの建築様式に影響を与えたフェレス島の建築は、ある目的を持って作られた、巨大な譜陣を形作っている。その譜陣は、ホド本島をも影響下に置く」
映写音機関により、壁一面にホド諸島の地図が浮かび上がる。ホド諸島のうち、第二の島フェレス島を頂点として、樹状の譜陣が描かれている。そしてその一点に、ホド本島。
「この譜陣は、範囲内の人間の固有音素とリンクして何らかの影響を及ぼすものだ。これを利用すれば…ホド人の構成音素として含まれる第七音素を注入すれば、全ホド人のレプリカ情報を一挙に得ることができる」
フェレス島が作る、譜陣。それは、おそらくブーゲンビル・アルフェレスの祖先が作り上げたものだ。天才建築家フェレス、その真の正体は、ホド島まで及ぶ巨大な譜陣を描こうとした大譜陣士だったのかもしれない。
『その時』の為に、成さねばならぬことは何か?影は言う。
フェレス家当主、ヴィオレノッテ・フェレスに譜陣を完成させる。
フェレス島を統べる彼女が、そうせざるを得ない状況を作り出す。
島全体を、守らなければならない事態を。
そうすれば、譜陣が発動すれば、ホド人のレプリカ情報は、ホド島の、フェレス島のレプリカ情報は、マルクトのものになる。フォミクリー技術を完成させるための、王手が。
「既に、そのための駒は用意されている。いや、用意した。『作り上げた』」
影が笑う。
影が笑う。
影が笑う。
「ホドは」
キムラスカ国王インゴベルト6世は、その人物が己の目の前にいることが信じ難かった。
フード付きの分厚い外套を身にまとったその人物は、突如キムラスカの重鎮たちが集う会議の只中に現れた。衛兵は何をしているのだ、と声が上がったものの、その正体が分かった途端、それは無意味な問いであったと全員が理解する。彼は、そう、彼は、キムラスカでもなく、マルクトでもなく、そのどちらもに媚びず、恐れず、その必要も無く。彼こそは、事実上のオールドラントを統べる人間。
ローレライ教団、導師エベノス。
彼がフードを取ったその瞬間、そこに集うすべてのキムラスカ王侯貴族が席を立ち、敬礼した。導師がす、と皺の入った手を軽く掲げ、楽にするよう促すまで、全員が導師に向かって頭を下げていた。突如導師のために席が用意され、そこに彼が腰かけてやっと、キムラスカ人たちは疑問を頭に浮かべることができた。どうして、ローレライ教団の最高権力者がここに。導師たる彼がキムラスカ王国を訪れるのは、当然初めてではない。しかし、彼は尊き身分ある人間であった。ならば事前に何らかの知らせがある筈だった。
それが無いと言うことは、どういうことか。
応。それは、公にはできない用件のためだ。
「キムラスカ国王インゴベルト6世陛下、並びに出席の方々。まずは、突然非公式に訪問した非礼を詫びよう」
導師エベノスの言葉は、それがどんな言葉であっても口にしたこと自体が預言であると感じられるように重厚で、神々しかった。一国の王であるインゴベルトは、「いえ導師、貴方の訪問を歓迎します」と努めて平静に答えたが、その心はバチカル海の波打ち際のように波立っていた。「して、ご用件は」。
その時、導師は笑みを浮かべた。それは、限りなき慈愛を込めたそれにも見えたし、残酷な処刑人の浮かべるそれにも見えた。そして、思いつくままにチェスの駒を動かす無邪気な子供のようにも見えた。その笑みは、老齢の導師の顔に、ひどく似合い過ぎていた。
「キムラスカの民よ」
彼は告げる。
荘厳に、
残酷に、
面白げに。
「貴公らに、始祖ユリアの預言を授けよう」
そう、導師が言った。瞬間、立ち上がった導師の手の中で輝きが生まれる。それは、第七音素の光。導師が詠む未来の光だ。ローレライ教団導師自らが、預言を詠む。オールドラントに生きるものにとって、始祖ユリアを信仰し預言を信ずるものにとって、これ以上無い栄誉。臨席したものの中には、涙を見せるものもあった。その瞬間は、それ程の栄誉であった。
「ND2002、キムラスカ・ランバルディアは栄光の大地に攻め上る
其を率いるは、王族に連なる赤い髪の男である
名を真なる紅と称す」
ざわり、と粟立つ気配。
あらゆる視線が、預言の中に詠まれた名を持つ男に向かう。
すなわち、インゴベルトが最も信頼を置く男。クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレに。
「こののち、季節が一巡りするまで、キムラスカとマルクトの間に戦乱が続くであろう。
これは、キムラスカ・ランバルディアの未曾有の大繁栄へと繋がる道筋である」
導師が読み上げたのは、インゴベルトの甥でありクリムゾンの実の息子、ルーク・フォン・ファブレが生まれた時、ローレライ教団によってもたらされたのと同じ道筋の預言だった。キムラスカ・ランバルディアの未曾有の大繁栄。それを手にするための第一歩。
生まれた瞬間に、死を詠まれた甥も。
これから失われるであろう、キムラスカとマルクトの未曾有の命も。
すべてが、キムラスカ・ランバルディアの繁栄の未来のため。
導師エベノスの手の中の光が収束し、ひとつの譜石が生まれる。それがコトリと導師の手で議場の机の上に置かれ、「貴公らが成すべき事は、もうお分かりだろう」と言う。すると、臨席したものたちが次々に口を開く。「預言に従おう」「導師が我々に預言を与えて下さった」「我らがキムラスカ・ランバルディアの繁栄のために」「今こそマルクトを攻めるのだ」「戦争を起こせ」「戦争を起こせ」「戦争を起こせ」。
熱風が吹き荒れているようだった。その風が、インゴベルトまでをも浚っていった。インゴベルトはその身に熱が集まり、今にも弾けんばかりなのを自覚していた。彼の口は自然に動いた。それは、笑んだ導師エベノスと同じかたちに動いていた。
「ホドは」
「ホドは」
「ホドは」
「ホドは、滅ばなければならない」
キムラスカが、マルクトが、ローレライ教団が発した同じ言葉を聞きながら、クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレは、静かに目を閉じた。
心は不思議なほどに穏やかだった。
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