彼が駆けていく。背高のっぽの木から降り立った彼が、彼の箱庭を駆けていく。彼とすれ違うたび、見張りの交代を終えて兵舎に戻る途中の二人組の騎士が、中庭のホド・マーブルの石畳の上を掃くメイドの少女たちが、今日の来賓客を迎える手筈をしている老執事が、おはようございます、と彼に声をかける。彼はその一人ひとりに、その名前を呼んで、おはよう、と返す。
 正門が見えてきた。そこには、門番を任せられるようになって日が浅い、幼さの残る青年騎士が緊張した面持ちで立っている。彼に気付いた門番は、突然のことに驚いて目をくりくりさせた。彼は、いってきます、と言った。門番は、いってらっしゃいませ、と言葉の最後を裏返らせて返す。彼は若い騎士にわずかに笑いかけた。石畳の上を跳ねるように駆け出した。






「まあ、ジグムント様ったら。朝から嬉しくって、堪らなくていらっしゃるのね」



 ユージェニー・セシル・ガルディオスは、背高のっぽの木が彼の体重を受けて音をたてるのを聞いて微笑んだ。



「この大切な日になーにしてんだ、あンの野郎ぉおおっ!騎士(おれ)の苦労も鑑みろぉおおっ!!」



 ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデは邸に赴いた途端お決まりの主の脱走を知り、憤慨した。



「ジグムント様がお出かけか。おお、またフェンデのが怒り狂うぞ。怖い、怖い」



 ペールギュント・サダン・ナイマッハは、妻が亡きあと自ら丹精こめた花壇の前に座り込みながら、石畳を踏む軽やかな足音を聞いて苦笑した。



「…ふ、ジグ、君だけは変わらないね」



 アクゼルスト・テオラ・ナイマッハは自室の窓から彼が駆けていくのを目にし、ちん、と僅かに露出させたカタナの刀身を鞘に収めた。



「…ジグさま、」



 セクエンツィア・アドニス・フェンデは帝立病院の病室から眼下に見えた彼の背中を眺め、ふっと微かな笑みを零した。



 彼が駆けていく。
 ホドを、駆けていく。



 彼はホドのすてきな場所を見つける天才だ。彼を迎えに行くのは、いつだって彼の右の騎士の役目だった。もうすぐヴェルフェディリオ・ラファが彼を探しにやってくるだろう。そして、ホドにこんな場所があったのか、と何度目かも分からない驚嘆を抱くことになるだろう。
 ジグムント・バザン・ガルディオスは、ホドのどこかで緩く目を閉じる。
 波音が聞こえる。引いては寄せるそれと響き合うように、歌が聞こえてくる。それは、音なき音である。ホドを形づくる音素が、ひとつの歌となって彼を包み込む。彼は小さく口ずさんだ。歌に不得手なジグムントが勝手に作ったでたらめな歌だったが、それはホドの中に溶け込んでいった。

 ホドは歌う。高く、低く、大きく、小さく。

 彼は目を開ける。その先には、光を放つ日々が広がっている。彼はそれを知っていた。恐れることなく目を開けた。




 ND2002、イフリートデーカン・ローレライ・41の日のことである。



Lacrimosa ―涙の日