フェレス島総督にして『譜陣士の中の譜陣士』、ヴィオレノッテ・フェレスは杖を手に呟いた。フェレス島の一角で、杖を手に海に向かう彼女へと、立っていられない程の強風が吹き荒れた。桃色の髪と、桃色の目は決然として、それを迎え撃とうとしていた。 「稀代の建築家フェレスは、譜陣士としてこの島を作った!預言を覆すために…フェレスとホドを守るために、この島を作った!」 彼女の前に迫る、波。それは大きすぎた。フェレス島を呑みこまんとするまでに、大きすぎた。彼女のフェレス島へと襲い来る大津波に向かって、彼女は譜陣を構築し続けた。それは、フェレス島そのものに張られた譜陣だった。創世暦から構築され、対岸のホドでさえも包もうとする、守りの譜陣。 その時、ヴィオレノッテ・フェレスの背にひと振りのナイフが突き刺さった。背後から投擲されたナイフは、正確にヴィオレノッテを射抜き、その身を崩れ落ちさせた。その瞬間、あと一歩で完成しようとしていた巨大な譜陣を巡る膨大な譜力が掻き消える。敷かれた譜陣の道筋だけが、残される。未完成に終わったそれは、その譜陣の中に含まれる物体のレプリカ情報を抜き取るだけの回路と化す。 ペールギュントは、キムラスカ軍の譜業爆弾の爆風を受けた騎士のひとりに駆け寄った。既に白光騎士の剣撃によって討ち倒されたクニミツの隣に倒れ込んだ、ペールギュント隊に所属する小隊長、ガレフィスは、左半身を爆風にやられ、麻痺した状態だった。両の眼球が想像を絶する痛みにぎゅりぎゅりとあらぬ方向へ巡り、それでも彼は、決死の覚悟をもって助け起こすペールギュントを見た。 「わしのことは、ほ、放っておけい。それよりも、ぺぺ、ペール、おぬしは、伯爵邸へ」 ガレフィスは、ペールギュントと共に数多の戦場を駆けた歴戦の戦友だった。還暦を迎えてなお、酒を呑み交わし、語り合う、友人だった。ペールギュントは、ガレフィスの叱咤に打たれるようにして立ち上がる。血塗れのガレフィスは、笑った。目一杯皺を作って、笑って、敬礼した。ペールギュントもまた、敬礼を返した。ガレフィスのように笑っていられたかどうかは、分からなかった。 「…フライヤ?」 一足早くキムラスカ軍が退却したガルディオス伯爵邸の廊下で、ペールギュントは見知った背中が床に伏しているのを見つける。ガルディオス伯爵邸に仕えるメイドたちを取り仕切る、メイド長のフライヤだ。先代ガルディオス家当主の時代からガルディオス家に仕え、ジグムントとその姉ユリアナの乳母も務めた、使用人らの中でも最も古株の老女だ。その彼女が、うつ伏せになって床に伏せっていた。その時だ。小さな背中が、ぴくり、と動いた。ペールギュントはフライヤ、と悲鳴じみた声を上げて、彼女を助け起こした。 「フライヤ!フライヤ、しっかりしろ!」 メイド長の顔は既に土気色をしていた。色のない唇には、赤黒い血反吐が張り付いていた。虚ろな瞳は、今にも途絶えてしまいそうな灯をちらつかせていたが、ペールギュントはその双眸が確と光を抱いていることに気付いた。何かを伝えなければいけない、という使命感がそこには感じられた。ペールギュントは、泣き叫びたくなる思いを押し殺して、その言葉に耳を傾けた。 「ペールギュント…様、『暖炉の部屋』です。『暖炉の、部屋』、に、お嬢様と、お坊っちゃまが」 何ということだろう。ガルディオス家の子息ら、ガイラルディアとマリィベルは生きているかもしれない!ペールギュントは、万感の思いを持って老メイドに礼を述べた。彼女の命を糧とした忠義が、ペールギュントの心に火をともしてくれた。メイド長はうっすらと笑みを浮かべた。そして、役目は果たした、とばかりに、光の失われていく目を閉じた。その表情は、満足げだった。ペールギュントは、忠義者のメイド長に敬意を払い、その身を優しく横たえた。そして、ペールギュントは未練を掻き捨てるように走りだす。己もまた、忠義を果たさなければならない。手遅れになる前に。 『暖炉の部屋』に辿りついたペールギュントは、言葉を失った。 「おお…おおおおおッ…」 ペールギュントの前に広がっていたのは、ああ、広がっていたのは、少女たちの、死体の山だった。 ペールギュントは気付く。彼女の、彼女らの下に、秘されたものを。彼女らが命を懸けて守ろうとした、庇おうとした、生かそうとしたものを。 ガルディオス伯爵邸を出たペールギュントを導いたのは、小隊長のカルビレオだった。彼の先導で、ガイラルディアを抱いたペールギュントは港に辿りついた。そこには、エンジンに音機関を搭載した小舟があった。 「揺れが激しくなっています。隊長はガイラルディア様を連れて、いち早く脱出して下さい」 船に乗り込んだペールギュントは、岸のカルビレオとその小隊の騎士たちに告げる。だが、カルビレオは首を横に振った。 「いいえ、我々は後続の敵を阻む役目があります」 ふたりの騎士が歩み出て、小舟と岸を繋ぐロープを切った。船が岸から離れる。どるんどるんと音を立てて、音機関エンジンが、動き出す。 いずれも、若い騎士たちだった。小隊長のカルビレオを筆頭として、20歳から30歳前後の騎士が集められた小隊だった。戦を知らないはずの世代の彼らは、ペールギュントに向かって笑って敬礼をした。ぴしりと揃った敬礼は、立派な騎士のものだった。彼らは笑って、笑って、ペールギュントを見送った。 |
Lacrimosa ]T