「…やはり、言い伝えは本当だった」

 フェレス島総督にして『譜陣士の中の譜陣士(サークラー・オブ・サークラー)』、ヴィオレノッテ・フェレスは杖を手に呟いた。フェレス島の一角で、杖を手に海に向かう彼女へと、立っていられない程の強風が吹き荒れた。桃色の髪と、桃色の目は決然として、それを迎え撃とうとしていた。

「稀代の建築家フェレスは、譜陣士としてこの島を作った!預言を覆すために…フェレスとホドを守るために、この島を作った!」

 彼女の前に迫る、波。それは大きすぎた。フェレス島を呑みこまんとするまでに、大きすぎた。彼女のフェレス島へと襲い来る大津波に向かって、彼女は譜陣を構築し続けた。それは、フェレス島そのものに張られた譜陣だった。創世暦から構築され、対岸のホドでさえも包もうとする、守りの譜陣。



「預言の時は来た。…始祖ユリア・ジュエの十人弟子の一人、フェレスは、預言を覆すために、この島を作った!」



 時間がない。時間が、ないのだ。既に、ホドを支える柱は消し去られた。急がねばならない。一刻も早く、この譜陣を完成させなければならない。稀代の建築家、否、譜陣士たるフェレスの名にかけて!

 その時、ヴィオレノッテ・フェレスの背にひと振りのナイフが突き刺さった。背後から投擲されたナイフは、正確にヴィオレノッテを射抜き、その身を崩れ落ちさせた。その瞬間、あと一歩で完成しようとしていた巨大な譜陣を巡る膨大な譜力が掻き消える。敷かれた譜陣の道筋だけが、残される。未完成に終わったそれは、その譜陣の中に含まれる物体のレプリカ情報を抜き取るだけの回路と化す。



「………ディ、…」



 ヴィオレノッテは、背後を振り返ろうとした。その桃色の目は、それを映すことなく暗転した。脳裏を掠めるのは、娘たちの姿だ。今年16歳になる姉と、生まれたばかりの妹。自分と同じ桃色の髪と、桃色の目の。あの子たちは無事だろうか。あの子たちは、あの子たちだけは、無事でいてくれるだろうか―――。



 ヴィオレノッテが倒れた時、大津波がフェレス島を襲った。





「ガレフィス!」

 ペールギュントは、キムラスカ軍の譜業爆弾の爆風を受けた騎士のひとりに駆け寄った。既に白光騎士の剣撃によって討ち倒されたクニミツの隣に倒れ込んだ、ペールギュント隊に所属する小隊長、ガレフィスは、左半身を爆風にやられ、麻痺した状態だった。両の眼球が想像を絶する痛みにぎゅりぎゅりとあらぬ方向へ巡り、それでも彼は、決死の覚悟をもって助け起こすペールギュントを見た。

「わしのことは、ほ、放っておけい。それよりも、ぺぺ、ペール、おぬしは、伯爵邸へ」
「しかし!」
「は、早く、い…け!間に合わなく、なる、ぞ!」

 ガレフィスは、ペールギュントと共に数多の戦場を駆けた歴戦の戦友だった。還暦を迎えてなお、酒を呑み交わし、語り合う、友人だった。ペールギュントは、ガレフィスの叱咤に打たれるようにして立ち上がる。血塗れのガレフィスは、笑った。目一杯皺を作って、笑って、敬礼した。ペールギュントもまた、敬礼を返した。ガレフィスのように笑っていられたかどうかは、分からなかった。





 裏門からガルディオス邸に入ったペールギュントは、その惨状から目を覆いたくなった。キムラスカ軍は最初ホド島南部の住宅街に上陸してペールギュントら蒼天騎士団をおびき出し、次いで島の北側から譜業爆弾を伴う奇襲攻撃を始めたのだ。ホドの戦力はずたずたに分断され、駆逐された。酷い失態だった。事態は全て、ホドにとって最悪の方へ動いていた。焦燥したペールギュントは、フェンデは何をしておるのだ!と、落ち合う約束をしながら現れないヴェルフェディリオに悪態をつくことしかできなかった。

「…フライヤ?」

 一足早くキムラスカ軍が退却したガルディオス伯爵邸の廊下で、ペールギュントは見知った背中が床に伏しているのを見つける。ガルディオス伯爵邸に仕えるメイドたちを取り仕切る、メイド長のフライヤだ。先代ガルディオス家当主の時代からガルディオス家に仕え、ジグムントとその姉ユリアナの乳母も務めた、使用人らの中でも最も古株の老女だ。その彼女が、うつ伏せになって床に伏せっていた。その時だ。小さな背中が、ぴくり、と動いた。ペールギュントはフライヤ、と悲鳴じみた声を上げて、彼女を助け起こした。

「フライヤ!フライヤ、しっかりしろ!」

 メイド長の顔は既に土気色をしていた。色のない唇には、赤黒い血反吐が張り付いていた。虚ろな瞳は、今にも途絶えてしまいそうな灯をちらつかせていたが、ペールギュントはその双眸が確と光を抱いていることに気付いた。何かを伝えなければいけない、という使命感がそこには感じられた。ペールギュントは、泣き叫びたくなる思いを押し殺して、その言葉に耳を傾けた。

「ペールギュント…様、『暖炉の部屋』です。『暖炉の、部屋』、に、お嬢様と、お坊っちゃまが」
「ああ、『暖炉の部屋』だな。分かった。直ぐに向かう。…有難う、よく伝えてくれた」

 何ということだろう。ガルディオス家の子息ら、ガイラルディアとマリィベルは生きているかもしれない!ペールギュントは、万感の思いを持って老メイドに礼を述べた。彼女の命を糧とした忠義が、ペールギュントの心に火をともしてくれた。メイド長はうっすらと笑みを浮かべた。そして、役目は果たした、とばかりに、光の失われていく目を閉じた。その表情は、満足げだった。ペールギュントは、忠義者のメイド長に敬意を払い、その身を優しく横たえた。そして、ペールギュントは未練を掻き捨てるように走りだす。己もまた、忠義を果たさなければならない。手遅れになる前に。





「お…」

 『暖炉の部屋』に辿りついたペールギュントは、言葉を失った。

「おお…おおおおおッ…」

 ペールギュントの前に広がっていたのは、ああ、広がっていたのは、少女たちの、死体の山だった。
 メイド服を纏う華奢な少女たち。いずれも、見知った顔で。その手には、装飾用の剣が握られ。見開かれたままの目は虚空だけを映し。1314の年端もいかぬメイドまでもが折り重なるようにして倒れた、その少女たちの、中に、
 マリィベル・ラダン・ガルディオスは、いた。



「マリィベル様…ッ、おお、マリィベル様ッ…」



 ペールギュントは、今度こそ膝から崩れ落ちた。床に手をつく。這いずるようにして、彼女の元へ辿りつく。ペールギュントは、うつ伏せになった彼女の顔を起こした。涙が出る程、その頬は冷たく、固く、そして美しかった。
 マリィベルは16歳だった。16歳の、少女だった。本当ならば、間もなく婚礼の年を迎えたろう。ホドを出て、立派な殿方と、幸せな結婚をする筈だったろう。彼女の父と、母が、そうしたように。
 だが、その未来は奪われた。
 永遠に、奪い去られた。



「貴女様をみすみす殺させたわしを…お許し下され…」



 無力な己は、あまつさえ少女たちに剣を握らせ、戦わせたのだ。
 本当は、彼女らに剣を握らせてはならなかった。彼女らに、人を殺めようとさせてはならなかった。すべては、己が負うべき役目であったのに。絶対に、純潔であるべき彼女らに剣を握らせてはならなかったのに!




 その時、だ。




「………?」




 マリィベルは背中を切られ、事切れていた。何かを守るように。何かを、庇うように。

 ペールギュントは気付く。彼女の、彼女らの下に、秘されたものを。彼女らが命を懸けて守ろうとした、庇おうとした、生かそうとしたものを。




 それは、




「ガイラルディア、様…?」




 ガルディオス家の後継、ガイラルディア・ガラン・ガルディオス。




 ペールギュントは即座に少年を助け起こした。意識を失った少年の胸に耳を当てる。その鼓動は、確かに脈打っていた。か細く、聞こえない程小さなそれは、しかし確かに音を成した。それを知った瞬間、ペールギュントの頬に滂沱という涙が流れた。




 生きている。
 ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは生きている!




 それは、ペールギュントの胸に灯った最後の光だった。小さな、小さな鼓動の音が、ペールギュントを動かした。ペールギュントは立ち上がる。折り重なる少女らが繋いだたったひとりの少年の、そのいつ途絶えても可笑しくない灯を守るように、ぎゅうっと抱き締める。少年の手の中に、ぴかりと何かが光った。それは、主君ジグムントが持っていたのと同じ、ガルディオス家で成人を迎えたものの証し。ジグムントが、娘のために特別に作らせ、今朝マリィベルに手渡したもの。マリィベルの、形見とも言える品だった。ペールギュントは、ガイラルディアがそれを手放さぬように、小さな両手にそれをしっかりと握らせた。そして、床を蹴る。腕の中の鼓動がペールギュントを走らせた。例えホドを見捨てることになろうとも、走り続けよう。ペールギュントは思った。この灯を絶やさぬためならば、どこへでも走ろう。それが、ペールギュントに残されたたった一つの栄光であった。





「ペールギュント隊長、こちらへ!キムラスカ軍から奪った船を一台確保しています!」

 ガルディオス伯爵邸を出たペールギュントを導いたのは、小隊長のカルビレオだった。彼の先導で、ガイラルディアを抱いたペールギュントは港に辿りついた。そこには、エンジンに音機関を搭載した小舟があった。

「揺れが激しくなっています。隊長はガイラルディア様を連れて、いち早く脱出して下さい」
「よくやった。お前たちも、早く乗り込め」

 船に乗り込んだペールギュントは、岸のカルビレオとその小隊の騎士たちに告げる。だが、カルビレオは首を横に振った。

「いいえ、我々は後続の敵を阻む役目があります」
「しかし!」
「…ソルフェ、シュラト!船を岸から離せ!」

 ふたりの騎士が歩み出て、小舟と岸を繋ぐロープを切った。船が岸から離れる。どるんどるんと音を立てて、音機関エンジンが、動き出す。

 いずれも、若い騎士たちだった。小隊長のカルビレオを筆頭として、20歳から30歳前後の騎士が集められた小隊だった。戦を知らないはずの世代の彼らは、ペールギュントに向かって笑って敬礼をした。ぴしりと揃った敬礼は、立派な騎士のものだった。彼らは笑って、笑って、ペールギュントを見送った。



「隊長。どうか、ご無事で!」



 ペールギュントは、徐々に離れていく彼らの笑顔に向かって敬礼する。
 死すべき彼らに負けぬよう、精一杯に、笑って。




「さらば」




 ホドが離れゆく。崩れ落ちるホドが、離れゆく。
 ペールギュントは、二度とこの身がホドの地を踏むことはあるまいと思った。狂おしいほどの郷愁がペールギュントの胸に渦巻いた。
 腕の中のガイラルディアを抱きしめる。彼を守るために、生き延びたのだと思った。死に損なった老いぼれに、たったひとつ残されたその輝きを、決して離すまいと、思った。




「さらば!」




 そして、ホドは地図の上から消えた。



Lacrimosa ]T