そして、母は歌を紡ぐのをやめた。



 キムラスカの花嫁を迎える『憐れみの賛歌(キリエ)』を。

 『レディ・バロック』が宿命より解放される『怒りの日(ディエス・イレ)』を。

 彼女が騎士であり妻となる『奇しきラッパの響き(トゥバ・ミルム)』を。

 我が子の誕生を詠う『恐るべき御稜威の王(レックス・トレメンデ)』を。

 『鬼の子』の正体を読み解く『思い出したまえ(レコルダーレ)』を。

 カンタビレの呪縛に縛られた『罵倒するものたちへ(コンフターティス)』を。

 ホドの終焉を告げる、『涙の日(ラクリモーサ)』を。

 歌は、それで終わり。
 歌は、もう紡がれはしない。

 ヴァンデスデルカと共に崩落するホドに取り残された母は、瘴気に侵されていた。ユリアの譜歌はヴァンデスデルカと母を守ってくれたが、ユリアシティと呼ばれるドーム都市の住民に助け出されたときには、母は衰弱しすぎていた。間もなく母は待望の女の子を、ヴァンデスデルカの妹にあたる女の子を出産したが、その時には母の気力はとうに尽きてしまっていた。
 ヴァンデスデルカは母の枕元に立っている。その腕の中に、生まれたばかりの妹がいる。妹は、親指をくわえてあどけない顔立ちでベッドの上の母を見ていた。妹は母の乳を吸ったことがなかった。母を蝕む、瘴気障害(インテルナルオーガン)、と呼ばれる病が、母乳を通じて妹に移ってはいけないから、とユリアシティの住民は言った。
 ベッドの上の母は、急速に老いの色が濃くなった。母は元来三十の歳を迎えてもなお若く、少女のような顔立ちをしていたが、目の前の母は老婆のように年老いていた。深く皺が刻まれ、所々が黒ずんだ顔をした母は、ひゅうひゅうと乾ききった唇で空気を行き来させながら、「わたしの歌は、これで終わり」と言った。「ヴェリオさまのような歌は歌えないけど、わたしにだって、あなたたちのための歌は、うたえるの」。母は、息を吐くような音の声を出して言う。つっかえながら、言う。

 それは、死すべきものへの鎮魂(レクイエム)だった。
 それは、生きるべきものへの祈り歌だった。

 母の唇を介して、ヴァンデスデルカの前にあらわれた、ホドそのものの歌だった。

「…でもね、ヴァン。忘れていいんだよ。わたしの、わたしたちの歌を、忘れていいの。いい、んだよ」
「かあ、さん?」
「この歌はね、あなたに寄り添うためにあるんだよ。あなたの、涙を掬うために、あるの」

 母は泣いていた。菫の双眸から、身体じゅうの水分を使い尽くすような涙が流れ出た。
 なのに、母は言ったのだ。なかないで、と。泣いているのは母さんだよ。母さんが泣き止んでよ。それで、元気になって起き上がって、僕とティアを抱きしめてよ。母は微笑んだ。皮が引き攣った口元を持ち上げて。



 ヴァンデスデルカの、止まらない涙を掬うように、そう。





「いってらっしゃい。」





 ヴァンデスデルカが手に取る手を、母が、ぎゅっ、と握った。ヴァンデスデルカは、母に応えて強く、強くその手を握る。その手が握り返されることは、もう、なかった。





ND2002・ローレライデーカン・ルナ・7
セクエンツィア・アドニス・フェンデ、長女メシュティアリカ・アウラ・フェンデを出産後、間もなく死亡
カンタビレの秘術により若さを保ち続けた彼女は、クリフォトの瘴気に侵され、老婆のように老いた姿で亡くなった
姉から結婚祝いに渡されたスタールビーのペンダントは、息子ヴァンデスデルカからメシュティアリカに託され、一度彼女の手から離れたが、紆余曲折の末、再び彼女の手に戻った






「あのさ。名前、考えたんだ」

 帝立病院のベッドで、身を起こしたセクエンツィアの手を、ヴェルフェディリオが握っていた。ヴェルフェディリオは、彼らしくなく照れくさそうにぼそぼそと喋っていた。

「今から歌うから、聞いてろよな」

 ヴェルフェディリオは、力無いセクエンツィアの手のひらを両手で包み込み、すうと息を吸う。
 そして彼は、歌い始めた。始祖ユリアより受け継がれたその声は、音になった途端、ホドへ馴染んでいった。音は巡る。音が繋がれ、歌になる。歌は束ねられ、ひとつの歌になる。そうして、ホドが歌いだす。

 覚えていなくてもいい。忘れてしまって、いいのだ。この歌は、箱の中に込められ、引き出しの片隅に忘れ去られるべきなのだ。だが、その箱が開けられるとき。涙が止まらなくなるとき。その時は、君に寄り添おう。君に寄り添い、君の涙を、掬おう。





「…涙を掬うもの(メシュティアリカ)





 それは、父親になった少年たちと母親になった少女たちの、祈りを込めたオルゴール。




Lacrimosa ]U