「じゃあ、ヴァンデスデルカ。父さんは、母さんのお見舞いに行ってくるからな」
慌ただしく外出の準備を整えながら、父が言う。ヴァンデスデルカは寝ぼけまなこを擦りながら食卓について、「分かったよ、父さん」と返事をした。食卓の上には、ほかほかと湯気を立てる白米、一夜漬けの胡瓜と、赤ミソと豆腐の味噌汁に、昨晩から残った肉じゃが。どれも、父が作ったものだ。父は料理が上手かった。戦場で勇ましく振るわれる『神の右手』は、キッチンで奮われるその時も冴え渡っていた。
父はヴァンデスデルカが席についたのを見て、頷いて玄関へ向かおうとした。だが、父はふと思い立ったように振り返る。父はヴァンデスデルカの傍までやってきた。どうしたのだろう、と疑問を抱くヴァンデスデルカの頭を、父はぐしゃりと撫で潰した。
「わっ、と、父さん?」
「誕生会が始まるころには俺もガルディオス家に行くからな。…いい子にしてろよ、ヴァン」
「分かってるよ、父さん」
父に頭を撫でられるのは、どこか気恥ずかしかった。父は昔からずっとこうやって、ヴァンデスデルカの頭を撫でる。父の大きな手がヴァンデスデルカを撫でるのは、子供扱いをされているようで躊躇うけれど、自分はその手を待ちわびているような気がした。それを認めるのはどうにも恥じ入られて、ヴァンデスデルカはむくれながらやんわりと父の手を払う。
父は、すうっと手を離した。その手が数瞬、行き場なく宙で浮かんでいた。次の瞬間には、父はにかりと笑って、「じゃあ、行ってくるぜ、ヴァン!」と言って身を翻した。「行ってらっしゃい、父さん」と返したときにはもう父の姿は見えなくて、ドアが開閉する音が聞こえる。
途端に、部屋が静かになった。ふたりがひとりになっただけなのに、こんなに静かになるものなんだと、いつもながら思う。
ふと、食卓の上に並ぶ、父が用意してくれた朝食のことを思い出す。そういえば、最初は父の料理を食べたがらなかったな。ヴァンデスデルカは思い返す。最初と言うのは、母が身籠ったことが分かり間もなく帝立病院に入院したときのことだ。入院した母の代わりに、父が食事を作るようになった。だが、ヴァンデスデルカは最初それを突っぱねたのだった。母さんがいい、母さんの料理が食べたい、と。父の方が料理上手だと知っていたのに。父がいつだって、母と同じで、ヴァンデスデルカのために料理を用意してくれていたと知っていたのに。
母が入院してから、こうやって一人で食事を取ることも増えた。それまでは、一度もなかったことだ。父が本土での任務の為に家を空けることもあったが、そのようなほんの僅かな例外を除いて、いつも3人で食卓を囲んだ。それを考えると、父が、母が、どれだけヴァンデスデルカのために家族全員で食事を取るということを重んじ、努めていたかわかった。それが、どれだけ幸福なものだったということも。
「…やっぱり、一人はさみしいな、」
ヴァンデスデルカは、一人きりの食卓で手を合わせる。いただきます、とそう言って、答えを返してくれるひとはいない。これから生まれてくる弟か妹のことを思った。彼か、あるいは彼女がやってくれば、今度は4人で食卓を囲むことができるんだろうと思った。その日が一日でも早く訪れることを堪らなく願った。
朝食を終え、キッチンのシンクに食べ終えた皿を置いたとき、こんこん、と窓を叩く音が聞こえた。控えめなノック音の主をヴァンデスデルカはよく承知していて、蛇口を捻るその手をぴゃっと引いて窓際に走る。ガラスの向こうに見えたその姿に、ヴァンデスデルカはほうっと息をついて窓を開けた。
「これは、ガイラルディアさま。おはようございます」
それから、お誕生日おめでとうございます。と慌てて付け加える。今日、5歳の誕生日を迎えるガイラルディア・ガランはその名を冠する花のようにぱあっと華やかに笑った。ヴァンデスデルカの主の名の由来が、主の母がホドにやってきたばかりの頃島民から受け取った花束にしたためられ、ガルディオス家の庭を彩るようになった花のうちのひとつであることをヴァンデスデルカは知っていた。「おはよう、ヴァン!」と笑うガイラルディアが浮かべるのは、太陽から祝福されたような笑み。それは、たくさんの花びらが集まってひとつの美しいカタチを織りなすあの花によく似ていると思った。
はたと疑問を抱いたのは、ガイラルディアが何故ここにいるのか、ということだ。ガイラルディアがこうやって窓を叩くのは、姉や家のものに隠れてヴァンデスデルカの元を訪れるときだ。家では誕生会の準備が進められているだろうに、どうしてガイラルディアはこっそりとヴァンデスデルカを訪問しているのだろう。そう首を傾げて、「なにか、御用ですか?」と尋ねると、ガイラルディアは少し怒った顔をして、言った。
「ひどいよ、ヴァンデスデルカ!約束したでしょ、次の誕生日には『あの場所』に連れてってくれるって。忘れちゃったの?」
そこまで言われて、ああ、とヴァンデスデルカは思い出す。ああ、そのことか、と。
すみません、と一言謝罪を述べて、少しだけ待っていてくれますか、洗いものを済ませるので。と言うと、ガイラルディアの表情はすぐに元に戻って、分かった、と返事をした。「じゃあ、外で待ってるね」。
くるくると目まぐるしく変わる表情のように、ガイラルディアはくるっと背を向けて駆けだした。ヴァンデスデルカは、その小さな背を見送る。その姿は、いつもヴァンデスデルカに鮮やかな風景を与えてくれる。ヴァンデスデルカは知らず微笑んで、キッチンに戻った。さあ、早く洗いものを済ませてしまおう。
こつ、こつ、と音を立てて、ふたつの影が階段を下りていく。ひとつがヴァンデスデルカで、もうひとつがガイラルディアだった。小さなガイラルディアの手を、ヴァンデスデルカが引いていた。万一別たれることのないように、互いが互いの手を強く握り込んでいた。
ホドは創世暦の時代より、古い建築物の上に新しい建築物を築いてきた。だから、ホドの地下には何世代もの遺跡が眠っている。そのほとんどは、土の中で静かに眠りについているが、ヴァンデスデルカの生家であるフェンデ家には、秘密の地下通路があった。父に連れられてその存在を知ったヴァンデスデルカは、父に内緒でガイラルディアにも地下通路の奥にある『あの場所』を教えてしまったのだった。だが、それが本来父に咎められることだとは分かっていたので、初めて主を其処に連れていった帰りに、また見に行きたいとねだるガイラルディアを「次の誕生日にね」と宥めたのだった。ガイラルディアはちゃんとそれを覚えていて、朝早くからヴァンデスデルカの元を訪れたのだ。
ガイラルディアは、待ちわびた『あの場所』に行けると思って頬を上気させていた。階段を踏むたび、そこに近付けることがたまらなくガイラルディアをわくわくさせた。しかしヴァンデスデルカとて、同じだった。『あの場所』を訪れるときは、いつも心が躍る。穏やかな海面の下で魚たちが舞い泳ぐように、人知れず。こつ、こつ、と足音を鳴らすたびに、湧き踊る。
そして、ふたりは其処に辿りつく。
その場所は、開けたところにあった。どこからか地上の光が漏れ入り、地下であるのに驚くほど明るかった。ホド・マーブルの床石が敷かれた道の両脇を囲むようにして、花畑が広がる。よく整えられたそれらは、ヴァンデスデルカの父が、その父が、そしてもっと遠くのヴァンデスデルカの祖先が欠かさず手をいれてきたもの。ふたりの正面に、ひとつの石碑が立っていた。天に向かってそびえ立つそれは、塔のようにも見えた。それは、ヴァンデスデルカが生まれたころから、いや、そのずっと前から、そこにあり続けるもの。そして、これからもあり続けるもの。ヴァンデスデルカが、ヴァンデスデルカが生まれるまでにそこに眠るひとからずっと繋がってきた血族の人間が守るべきもの。
始祖ユリア・ジュエの墓。
あたたかな光が降り注ぐそれを、ヴァンデスデルカとガイラルディアは見つめていた。堅く繋いだ手を離さないまま、ふたりは暫くの間そうしていた。これ以上ないほど静やかな空間で、ヴァンデスデルカの心が平らになる。平らになった水面に、ざざん、ざざあん、と、波が行きつ戻りつする。ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデという存在の根底から湧きあがるような、大いなるさざなみがヴァンデスデルカの胸に押し寄せる。ヴァンデスデルカは身動きがとれなかった。声を上げて泣きだしたいような、心がいっぱいに満たされた心地がしていた。
「ユリア様は」
ガイラルディアが、口を開く。ヴァンデスデルカははっとなって主を見た。ガイラルディアの蒼は、一心にユリアの墓標を見つめていた。
「ホドで生まれて、ホドで死んだんだよね」
ヴァンデスデルカが、そうです、と頷く。
「ねえ、ヴァンデスデルカ。ぼくも…ぼくたちも、ホドで生まれて、それで、ずっとホドで生きていくんだ。そして、ホドで死ぬんだ」
それって、
ガイラルディアが言う。ガイラルディアはヴァンデスデルカを見た。ガイラルディアは、笑った。
「すごく、しあわせなことだね。」
ガルディオスの金と蒼を受け継ぐ少年が、やがてホドの主となる少年が笑う。ヴァンデスデルカに光を差す。はい、とヴァンデスデルカは返事をした。
そうだ。
僕らは、ずっとここに生きていくのだ。
そして、ここで死ぬのだ。
ユリアがそうしたように、我らもホドに生き、ホドに死ぬのだ。
だから、離れることはない。
何があったとしても、離れることなんてない。
我らはホドの人間だ、とヴァンデスデルカの魂が叫んでいた。魂の叫びは音となり、ホドの一部になる。ヴァンデスデルカは、自らの生まれた島とともに歌った。歌は途切れることなく響いた。自らの存在を証明するために、絶えず歌は響いた。
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