「ごちそうさまっ!」
ガイラルディアは、赤々とした宝石のような苺の最後の一粒を口に放り込むと、早々と席を立った。飛び降りるようなそれに、マリィベルは「こら、ガイっ!どこへ行くの!」と咎めるように問いを投げたが、「パーティが始まるまでには帰りますっ」と口早に言って玄関へと続く扉に手をかける。それじゃ、いってきます、と振り返って笑顔を浮かべるガイラルディアに、いってらっしゃい、と声を揃える両親に、マリィベルは扉が閉じる音と一緒にため息をついた。
「もう…父上も母上も、あの子に何か言って下さればいいのに」
「そうは言っても、元気があるのはいいことじゃないか。今日五つになったばかりなのだし。なあ、ユージェニー」
「ええ、健やかでいるのが一番ですわ。ホドを駆け回るガイラルディアは、貴方様に良く似ています。ねえ、ジグムント様」
「…朝から屋敷を抜け出して、ヴェルフェディリオを慌てふためかせた父上が言えることではないでしょうよ、ええ!」
父と母がほんわかと、花でも飛びそうな雰囲気を醸し出しているのに、またか、とばかりにマリィベルはつーんとそっぽを向いてパンケーキにフォークをずんっと突き刺した。ああ、ごめんねボウガン、とマリィベルは心の中でガルディオス家お抱えの一流パティシエに詫びた。拗ねた顔のまま、クリームとストロベリーソースを装飾品のように身につけたそれを口の中に放り込む。炎髪のパティシエが短い顎鬚を擦って、気になさらんで、お嬢様、と朗笑するのが聞こえた気がした。
「そうだ、マリィベル。朝食が終わったら私の部屋に来なさい」
「え?は、はい」
ふいに父が、さっきまで続いていた談笑に乗せるようにそう言ったので、マリィベルは驚きながらも二つ返事をした。それから、何の用だろうと考える。父は自分の部屋に来るよう伝えただけで詳しいことは口にせず、頬についたストロベリーソースを母に笑いながら拭きとられていた。マリィベルは、娘の前であっても堂々とのろけに走る両親に向かって、へなへなと脱力してしまうのだった。
「おはよう、エーリテ。レエンは元気?」
「ええ、今日の屋敷の警備の総括をやってるわ。兄ったら、現場に出られないってブーたれてたわよ!」
朝食を終え、一度部屋に戻ってからマリィベルは言いつけの通り父の部屋に向かうことにした。道すがら、廊下ですれ違ったチェインバー・メイドのエーリテと挨拶を交わす。いっぱいの洗濯かごを持って笑いかけるエーリテの笑顔は、洗いたてのシーツのように輝いていた。
長い銅の巻き毛が踊るようにして通り過ぎていくのを見送って、マリィベルは3階への階段を上る。すると、ミモザ色の頭の少女が窓ふきをしているのが見えた。確か、まだガルディオス家に仕えるようになって間もないシルフィという見習いメイドだ。14かそこらのミモザの少女は、脇目も振らず、という言葉が相応しい具合に、一生懸命窓を拭いている。微笑ましくなって、「シルフィ」と少女の名を呼んだ。
「あっ、お、お嬢様!」
「朝からお疲れ様。屋敷でのお仕事は慣れた?」
シルフィという名のメイド見習いは、赤面して俯いた。驚かせてしまったことを胸中で悔いつつも、穏やかな表情で答えを待つ。少女は俯いた顔をちょっと持ち上げて、はい、少しずつ、と小さく言った。
「それはよかった。分からないことがあれば、ちゃんと先輩の誰かに聞くのよ。メグミカやマーグメルは貴女と歳が近いし、気安くしていいわ。もちろん、私に話してくれてもいいし」
「そ、そんな…恐れ多いです。お嬢様は、ガルディオス家の子女でいらっしゃいますし」
「いいえ、」
マリィベルは、静かに首を横に振った。ケテル地区にある自宅から離れてガルディオス家に住み込むようになった、まだ不安ばかりを抱いている少女に、笑いかけた。
「私も、貴女も、同じホドの民。同じ、ホドを愛する家族よ。だから、気後れなんてしなくていいの」
シルフィが、ぽかんとした顔でマリィベルを見ていた。そして、次の瞬間、湧きあがるような笑顔がシルフィに浮かんだ。やっと見ることができた少女の笑顔は、彼女と同じ色をした花のように愛らしかった。
ノックを4回。「父上、マリィベルが参りました」。答えはすぐに返ってくる。「入りなさい」、とドア越しのくぐもった声に促され、入室する。自分の中の精神の糸がぴんっと張りつめるのを感じて、息をつく。
父が窓に手をついて、外を眺めていた。一瞬、父がまた窓から飛び出していくのかと思ったが、父が振り返ったことで杞憂に終わった。父はいつも、玄関から出るのと同じように窓を開けて外へ出ていく。背高のっぽの木に飛び移って、ガルディオス家の中庭に降り立つ。そして、いってきますという一言だけを告げてホドを駆けていくのだ。
「御用はなんですか、父上」
言って、マリィベルは父を見る。三十と七の父は、若い頃肩までに切り揃えていた黒髪を短くしていた。前髪だって、額が露わになるくらいに短くなった。フレームなしの分厚い眼鏡の向こうに見える目元に細かい皺が見え、静かに培われた思慮深さを感じさせるとともに、父が老いはじめていることを認めざるをえなかった。
「君に、渡したいものがある」
父の唇が動いたとおりに、マリィベルは「渡したい、もの?」と自分のそれでなぞった。父が執務机の引き出しを開ける。そして父は何かを取りだした。父が取り出したのは、手のひらほどのサイズの四角いケースだった。目が覚めるような蒼色のそれを持って、父が歩いてくる。マリィベルは、父の意図するところが分からずに当惑した。父はマリィベルの戸惑いの傍らにすっと忍び込むようにして、娘のところへやってきた。
父が立ち止まり、ケースを渡す。マリィベルは、覚えず震える手でそれを受け取った。暫くの間黙したまま手の中のそれを見下ろしていたマリィベルは、「開けてみなさい」という父の声に促され、やっとケースに手をかけた。マリィベルの手が、ケースの蓋を取り払う。ガルディオスの色たる蒼のケース。そこに入っていたのは。
「これは…ガルディオス家の、紋章?」
ケースの中には、クッション生地に包まれた金色のメダルが納められていた。ガルディオス家の紋章が刻まれたそれは、父の左胸に輝くそれとまったく同じものだ。「成人の儀には早いかもしれないが、プレゼントだよ」。父の低く浸み出るような声がそう言ったのを、マリィベルははっとなって顔を上げた。
「父上、これはガルディオス家で成人の儀を迎えた者に贈られるものです。私が…私には、これを受け取る権利は無い筈です!」
マリィベルは、半ば泣き出すような声でそう言っていた。「そうだね」。父が、答える。「だけど、私は君にこれを受け取ってほしい」。
マリィベルがガルディオス家で成人の儀を迎えることはない。何故なら、それまでにマリィベルは他家に嫁ぐことになるからだ。実際、ガイラルディアの5歳の誕生会が行われる今日は、マリィベルのお披露目も兼ねられている。マリィベルは、今年で16。いつ嫁ぐことになってもおかしくない歳だ。マリィベル自身も、それを覚悟していた。貴族であるガルディオス家に女として生まれてきた以上、それはマリィベルの義務なのだ。マリィベルはそれを、よく心得ていた。
そう遠くない未来、マリィベルは、ホドを去らなければならない。ホドを離れて、マルクト本土へ、いや、母と同じようにキムラスカへ嫁ぐことになるかもしれない。父母と、ガイラルディアと、ヴァンデスデルカと、フェンデとナイマッハの騎士たちと、屋敷の使用人たちと、すべてのホドの民と離れて、ひとりで立たなければならない。
覚悟はできている。できている、つもりでいる。でも、本当は、本当は、…本当は。
怖い。恐ろしい。ホドの外で生きていくが、怖くて恐ろしい。大好きなホドの民と、離れることが、寂しい。離れたくなんてない。ずっとホドにいたい。ホドの人間ではない人間に、なりたくない。
大好きな皆と、ずっとホドで生きていたい。
「これから、君がホドを離れることになっても」
父の言葉に、マリィベルの心が包みこまれる。低く、ぬくもりを滲ませる声が、マリィベルを抱きしめる。
「君は、ホドの人間だ」
これが、それを証しするんだ。
父は言った。
お父様、とマリィベルは父を呼んだ。マリィベルは、ほんものの父の腕に抱きとめられた。父の大きな胸の中で、マリィベルは涙を流した。
屋敷の片隅で、メグミカが泣いていた。幼げな顔立ちをしたメグミカの、小さな肩が震えていた。気丈なマーグメルの頬にもまた、涙が伝っていた。マリィベルと、メグミカ、マーグメル。主と、それに仕えるメイドであり、かけがえのない友達である彼女らは、肩を寄せ合うようにして泣いていた。彼女らの中心には、マリィベルに与えられたガルディオス家の紋章が刻まれたメダルがあった。
「これって、マリィがずっとホドの人間だってことだよね」
メグミカが、言う。
「マリィがホドを離れることになっても、私たちずっと一緒だってことだよね!?」
メグミカが、泣きながら、言う。マーグメルが頷いた。「そうだよ。私たち、ずっと一緒なんだよ」。
マリィベルは、やがてホドから去らなくてはならない。それは、避けられないことだ。でも、マリィベルはずっとホドに在る。これが胸に輝くかぎり、ホドに在ることができる。
「ありがとう…メグ、マゴ…」
3人は、泣いた。寄り添い合って、声を上げて泣いた。音が巡る。涙をともなう唄がホドに響く。少女らの音は歌は、ホドの一部になる。ホドの歌の一部になる。
そして、ホドが歌い出す。
宴が、始まる。
「父さんったら…遅いなあ。パーティーが始まっちゃうよ」
ガイラルディア・ガラン・ガルディオスの5歳の誕生パーティーの会場であるガルディオス家の大ホールは盛況だった。。ガルディオスに連なる一族郎党が一同に集まるさまは、圧巻の一言だ。出席者の中にはガイラルディアの叔母にあたるユリアナもおり、弟のジグムントと一言、二言言葉を交わしていた。彼女の夫にあたる男性はダアトから遥々やってきた高名な預言者で、彼がガイラルディアの一年の預言を詠むことでパーティーが始まるのだった。
ガイラルディアが母ユージェニーに連れられて親戚たちへ挨拶回りをし、どきりとするような綺麗なおめかしをしたマリィベルが優雅に来客の相手をする。ペールギュントが丹精した見事な花々が飾られた花瓶の傍らにいるのはエルドルラルトで、祖父の手伝いをして一緒に摘み上げたというそれをにこにことして見つめていた。それらを見ながら、こんなに楽しいのはいつぶりだろう、とヴァンデスデルカは静かに思った。最近は、こんな風に穏やかな心地でいれたことがなかった。いつも、どこか緊張していて、気が休まることがなかった。
でも、今は。
ヴァンデスデルカは、母に手を引かれるガイラルディアを見る。彼が。彼らが放つ光が、ヴァンデスデルカを照らしてくれる。彼らという光が、ホドという光が在る限り、ヴァンデスデルカは迷わない。痛くて、苦しいことだって耐えられる。
だから、大丈夫だ。
何があったって、大丈夫だ。
自分は、ガイラルディアと、マリィベルと、皆と、ホドで生き、そして果てるのだから。
「…ヴァンデスデルカ」
その時、背後からヴァンデスデルカを呼ぶ声があった。
父か、と思って振り向くと、そこにいたのは別の人物だった。
「何ですか?アクゼルストさん」
それは、右の騎士たる父の対となる左の騎士、アクゼルスト・テオラ・ナイマッハだった。ぽんにゃりとした柔らかい笑顔に、研究所で着ている見慣れた白衣ではなく、騎士としての白い正装を纏っている。「少し、いいかな?」と聞いた彼に、何だろう、と思いながら「ええ、」と返事をした。
「少しだけ、ここを抜け出さないか?」
アクゼルストの言葉に、ヴァンデスデルカは困惑した。「どうして、ですか?」しかし、アクゼルストの表情は柔らかさとともに、抜き身の剣のような鋭さがあった。その鋭利な表情にたじろぎながらも、ヴァンデスデルカは言った。「もう、パーティーが始まってしまいます。後では、駄目ですか?」。
「実はね、セクエンツィアの容体が急変したんだ。ヴェルフェディリオの到着が遅いのも、そのせいでね」
「母さんが?」
「ああ、そうだ」
母の名を聞いた途端、ヴァンデスデルカの顔面が蒼白となった。身重の母の容体が、急変した。その言葉は、11歳の少年の動揺を誘うに十分すぎた。父がいつまで経ってもやってこないのにも、合点がいった。
「君を連れていく。いいね」
ヴァンデスデルカは、震えながらも即座に頷く。アクゼルストがその手を取った。アクゼルストが手を引くままに、ヴァンデスデルカは大ホールを出ていく。宴から背を向けて、駆けだす。その向こうにあるものが何かは分からなかった。ただ、暗いトンネルに入っていくようないわれのない不安があった。
もう、抜け出すことができないような。
闇が手招きする、暗いくらいトンネルに。
ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデは、アクゼルストに連れられ、ガルディオス伯爵邸から立ち去った。突如、轟音が伯爵邸に響いたのは、それから間もなくのことである。
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