ユージェニー・セシル・ガルディオスは、自室の窓際にあるホド・マーブルのテーブルについていた。彼女の手の中には、一通の白い封筒があった。
ユージェニーは、ほんの少しそれを持ち上げて、窓の向こうからやってくる木漏れ日に透かしてみた。姉、ジャクリーヌの名義で出された手紙を、その朝ユージェニーはジグムントから手渡された。その中身が、姉の個人的なそれでないことは予想できた。もっと大きな、恐ろしいものが詰まっていることに気付いていた。
ジグムントもまた、それに気付いていたはずだった。彼が手紙を覗き見る機会はあったろう。だが、その手紙が開封された形跡はなかった。姉からの、ユージェニーの祖国からの手紙を、ジグムントは読まなかった。黙して、ユージェニーに直接手渡した。
ユージェニーは、姉の筆跡を懐かしく眺める。ユージェニー・セシル、そう宛先欄に綴られた名前を、指でなぞる。
「…私は、」
最後の、Lの字で、ユージェニーの指が停止した。か弱い彼女の人差し指は、わずかな悔恨とともにそこに留まり、そしてそれを振り払うように、欄外に跳ね上がる。
「ユージェニー・セシル…ガルディオス」
ユージェニーは席を立ち、引き出しの中の小箱にそれを収めた。蓋は閉じられ、それが開かれることは終ぞなかった。
ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデがガルディオス伯爵邸の大ホールに到着したのは、ガイラルディア・ガランの5歳の誕生パーティーが始まる直前のことだった。セクエンツィアの調子がよかったものだから、暫く話し込んでいて見舞いが長くなってしまったのだ。フェンデの正装に身を包んだヴェルフェディリオが、みっともなく息を切らせて大ホールに駆け込んだときには、ホールの中央でガイラルディアと、ダアトから来た預言士が向かい合っているところだった。来客たちにじとりとした目で横目見られながら、ヴェルフェディリオはふーっと息をついて出入り口近くからそれを眺めることにした。一年に一度、誕生日に預言士を招き、その一年の預言を詠んでもらうのは、本土の貴族の家々と同じようにガルディオス家にとっても年間行事のひとつだった。それも、今回招かれたのはジグムントの姉・ユリアナの嫁ぎ先であり、ダアトでもローレライ教団で大きな影響力をもつシェレクハルト家の預言士が来ていた。ホドと、ダアトの良好な関係を維持するためにも、よい機会だった。
ガイラルディアが、姉に促されて一歩前に出る。緊張した面持ちのガイラルディアと、ダアトの預言士が向かい合う。預言士は、冠を授けるようにガイラルディアの頭の上に両手を伸ばした。預言を詠むものと、詠まれるものの、正しい姿がそこにあった。静粛とした雰囲気の中、預言士が精神を集中させ、第七音素を紡ぎはじめた。預言士とガイラルディアを中心にして、緑色の光がぱあぁ生まれ来る。そして、預言士は口を開いた。ガイラルディア・ガラン・ガルディオスという存在に与えられた預言を、高らかに詠み上げようとした、
その時、だった。
だあん、と轟音が耳を打った。預言が中断され、ヴェルフェディリオが、列席するガルディオスの一族郎党が反射的にその出所を見つめる。それは、玄関から大ホールへ続く扉が開かれた音だった。勢いよく開けられたそれの向こうに、ひとりの騎士がいた。若い騎士だった。蒼天騎士団の兜を外した青年騎士は、はあ、はあ、と荒い息をして、倒れ込むようにして跪いた。その表情には、動揺と、混乱がないまぜになったそれがあった。青年の浮かべた表情は、驚きと戸惑いをもって青年を出迎えたものたちに同様の感情を抱かせた。
俄かにざわめきはじめた列席者の中から、ジグムントが歩み出た。一転、賑々しさが奇妙に停止した空間の中を、彼は颯爽と歩いた。青年騎士の元へやってきたジグムントは、「如何した、リュウ?」と花売りの息子、リュウに問うた。
リュウは、ジグムントを前にしてもなお、落ち着きを取り戻せなかった。がちがちと震える奥歯を、それでも彼はぎっと噛み締めて、意を決し大きく口を開いた。あ、という形に開いた口が、うんと溜めこんだ息を吐き出す。吐き出すようにして、彼は言う。
「キムラスカ軍が、」
リュウの言葉が、晴れやかな誕生会の会場を戦場に変える。
「キムラスカ軍が、ホドを襲っています。戦争が…戦争が、始まったんです」
その瞬間、大ホールは騒然となった。
「戦争、だって?」どこかから聞こえた声は、随分と現実味なく聞こえた。それから、次々と音が生まれてきた。「キムラスカ軍が、ホドに攻め込んできたっていうのか?」「嘘だろう、どうしてそんな」「戦争が、始まる?」不協和音が不協和音を生み、疑惑が、不安が、恐慌が波のように押し寄せる。それを、縮こまって被害を受けまいとするもの、立ち向かおうといきり立つもの、そして、訳もわからず流されようとするものがいた。皆が皆、青年騎士が浮かべたのと同じ、動揺と混乱を抱えていた。
「そんなこと、有り得ない。ホドには、ユージェニー様がいるんだぞ」
その時、ぴり、と空気が張り詰めた。列席者たちが、一斉にガイラルディアの傍らに立つユージェニーに視線を向けた。ユージェニーは、糸にがんじがらめに縛られたようにその場に突き立っていた。彼女のスカートを、ガイラルディアが引っ張っていた。マリィベルが、母を守るように立ち塞がった。それでも、音は生まれてきた。疑惑と、疑心暗鬼と、そして、糾弾を芽吹かせる音が。ユージェニーが立ち尽くしている。音が、音が、ユージェニーを苛む。音が、ホドの大地に根差すその足を、くずおれそうにする。
崩れ、落ちたく、なる。
「静まれ!」
ユージェニーを留めたのは、ジグムントの一喝だった。
ジグムントの発した音は、ざわめく不協和音を一気に消し去った。しん、となった大ホールの中央へ、ひとり、ジグムントは歩き出す。
「…生きることは、恐ろしい」
こつ、こつ、とジグムントが靴音を鳴らす。ゆっくりと、ジグムントは歩いていく。一歩一歩、ホドの土に根を張るように、ゆっくりと。
「その身に流れる血潮が、」
ユージェニーがぴくんと肩を震わせ、
「その身を縛す柵が、」
ペールギュントが胸を疼かせ、
「未来が、我らを縛る」
ヴェルフェディリオがハッとなって顔を上げる。
「戦うことは、恐ろしい。
どんな理由があっても暴力を正当化できないし、自らの、相手の死を肯定することがあってはならない」
しかし、とジグムントは言って、立ち止まる。
「我々は、選ばなければならない」
ジグムントは、妻の、子の元で歩みを止めた。くるり、と身を翻し、列席者を見つめる。その背を、妻が子が見つめている。
「我々の未来を決めるのは、血ではない。柵でもない。
我々は、我々の未来を選択する。その選択の前には、未来の提示は必要がない」
それは、
栄光そのもののような言葉だった。
「選ぶのだ、自らの未来を!
そして、私と同じ未来を選んだものは、剣を取れ!私とともに、戦ってくれ!」
ジグムントの音が、音を、音を、束ねる。ひとつの音に、ひとつの歌に。ジグムントと、共に歌うために、ひとり、またひとり、歩み出る。ヴェルフェディリオが、ペールギュントが、蒼き光の騎士団が。そこに居並ぶすべての銃士たちが。
ジグムントが、歩き出す。その背に向かって、「ジグムント様、」と、ユージェニーが呼んだ。ジグムントは振り返る。ユージェニーは目を見開いた。
ジグムントは、笑った。
愛するものへ、笑った。
「ユージェニー。君を、信じている」
―――ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデは知っている。ジグムントが、ただの少年であることを。妻を愛し、子を愛し、ホドを愛し、そこに生きる民を愛し、傲慢なまでに愛し、それを守りたくて、子供じみた理論を振りかざすことしかできない、ただの少年だと。
皆が、こどもなのだ。臆病で、小賢しくて、愛したくって、愛してほしくって、ただ守りたいだけの、鼠のような子供たちなのだ。それを、彼は率いていくのだ。彼のすべてをもって。どんなに怖くても。どんなに恐ろしくても。彼自身が、証しとなって。
「我らはひとつ!栄光の銃士よ!」
『鼠の王』、ジグムント・バザン・ガルディオスの手の中で、宝刀ガルディオスが蒼く眩いばかりの光を放った。掲げられた蒼のもとで、銃士たちが鬨の声を上げた。
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