燃えている。
ホドが、燃えている。
男が立っていた。その髪は、燃え盛るような真紅であった。第七音素の色をした緑が爛々とその双眸に光っていた。白銀を鎧うその姿は、この地表のあらゆる正義を体現しているかの如く、神聖だった。鷲のような獰猛で鋭利な瞳が細められる。眼前の存在を、睥睨する。
クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレの眼前で、ジグムント・バザン・ガルディオスが、ホドの中心部に座するガルディオス伯爵邸を背負うように立っていた。5年前、グランコクマ宮殿で目にした時よりも、その男は目に見えて年老いていた。わずかに若輩であるクリムゾンが活力に溢れ全盛を謳歌している風情なのに対して、その男の肢体は枯れゆく冬の木のようだった。蒼を鎧うその姿は、彼の肉のない醜い体を覆い隠しているかのように見えた。
ただ、その瞳だけは、摩耗されずに蒼く光を放っていた。真っ直ぐに、クリムゾンを見据えていた。その光は、ひたすらに涼やかだった。恐れも、畏れもせずに、ホドを踏み荒らした男への憎しみを映しもせず、ただ、涼やかに。
その光は、クリムゾンに疑念と、苛立ちを抱かせた。何故、そんな目をしていられるのだ。何故、そのような目をしてそこに立っていられるのか。彼は既に、敗残の将だ。クリムゾンこそが勝者であり、彼は敗者なのだ。誇るべきはこちらであり、彼は歯軋りをして泣き叫びながら地に伏すべきなのだ。なのに、どうして。
「よく、参られた。クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ公爵」
男がそう言った。その声は、5年前と変わらず、低く平坦な、地面から伝い来るような音だった。何を考えているのか皆目読めぬそれに、「道を開けよ。ガルディオス伯爵」と投げる言葉は、覚えず苛立ちが含まれた。
「ならぬ」、とジグムントは答えた。蒼がクリムゾンを射抜く。矢のようにその光は放たれて、クリムゾンを紙切れのように貫いていく。これが、この男なのか。これが、ホドなのか。そう、浮き上がる焦燥を、噛み潰す。違う。この男は敗者だ。この男は、死すべき敗残者なのだ。蒼を鎧うその男は、その衣をはぎ取られ、みじめな姿を晒すべきなのだ。王の座から引きずり降ろされ、敗残の将として首を差し出すべきなのだ。それだというのに。それなのに。
「ここは通さぬ。ファブレ公爵」
男が剣を抜く。途端、蒼い光が鞘から溢れる。眩いばかりのそれが、刀身から放たれる。クリムゾンは、その光から目を背けたくなった。彼の矜持が、それを阻んだ。鞘から完全に抜き放たれた剣が、戦場となったホドを照らさん限りに蒼く輝いた。うねるような炎を煙と、流される血を明らかにするように、それを受け止めるように、あたたかな蒼い光が。溢れてくる。
敗者のくせに。敗者になることを世界に命じられたくせに。預言がそう告げているのに。
どうしてこの男は、光り輝いて見えるのだろう。光を放ち、大きな光とともにあるように見えるのだろう。金色の光が彼の背後にあり、彼から放たれる。ホドを、ホドに住まう民を、クリムゾンでさえも包み込むような。
「我が名は、ジグムント・バザン・ガルディオス。ホドの王だ!」
敗者が世界に刃を向ける。光とともに、その刃はクリムゾンと対峙する。クリムゾンは剣を構えた。雄叫びを上げながら、クリムゾンはそれと剣を合わせた。
―――覚えているかい、
「…くっ、何故だ、何故、倒れない…」
―――君と初めて出会ったとき、私は君を拒絶してしまったね。それなのに、君は、私と共に歩んでくれたね。愛しいあの子たちを、私のところに連れて来てくれたね。
「お前は、敗者なのだよ。すべてを失い、早々と舞台から去るべき、敗残の将なんだ。そして、私が、私こそが勝者なんだ」
―――幸せな結婚なんて存在しないと、ベルに言ったけど、そんなのは嘘だ。預言に記されていようと、いなかろうと、私たちは幸せになれる。一緒に、幸せを作れる。ここで。私たちのホドで。
だから、私は、ホドに訪れるすべてを、受け止めよう。弱い私が抱えられるだけ、痛みを抱えよう。できるだけ多く。だからもう泣かなくていい。皆、泣かなくていい。皆に笑っていてほしい。皆で笑っていよう。皆で、幸せになろう。
「それなのに、何故お前なんだ。何故お前が、すべてを手に入れたような顔をしているんだ…!」
―――きみを、守るよ。
閣下!と背後の白光騎士団から声が上がる。クリムゾンの喉元に、ジグムントの剣が届いていた。それと同時に、白光騎士団の放った無数の矢が、ジグムントの身体に突き刺さっていた。つうと額から汗の滴が垂れた。クリムゾンは見開いた目でジグムントの刃が離れていくのを見た。カラン、と音がして、元は美しい白亜であったろう白畳の、ジグムントの流した血でできた水たまりに、剣が落ちる。蒼く輝く刀身から光が失せる。
「良い」
次の矢を番えた騎士たちをそう制す。クリムゾンは軽く剣を振って、血を払った。そして、ぱちん、と鞘の中に納める。
「もう、死んでいる」
ジグムント・バザン・ガルディオスは立ったまま絶命していた。両の腕が大きく左右に伸ばされたさまは、背後のガルディオス伯爵邸を守るようでもあったし、眼前に迫るクリムゾンらを受け止めるようでもあった。開いたままの瞳からは光が失われ、空虚なだけの蒼がそこにあった。クリムゾンが歩き出す。何に阻まれることなく男の隣を行き過ぎる。ずん、と音がして、ジグムントの死体が血だまりに倒れた。がちゃがちゃと金属が擦れる音を立てて駆け寄った騎士たちに、首を落とせ、と命じる。了解の声を背に、クリムゾンは眼前の屋敷を仰ぎ見た。
ガルディオス伯爵邸。
男が守ろうとしたもの。
男が守ろうとして、守れなかったもの。
クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレは、これよりそれを滅ぼしに行く。
白光を鎧う騎士たちを率い、彼は終わりの始まりの一歩を踏み出した。
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