「マリィベル。ガイラルディアを連れて、『暖炉の部屋』へお行きなさい」
ジグムントが出ていった後、ユージェニーがマリィベルにそう告げると、マリィベルは目を見開いた。ジグムントと同じ色をした瞳は、哀しげに揺らめきながら、どうして、と言っていた。ガイラルディアはユージェニーのドレスの裾に縋りついて、母と姉の顔を不安げに見比べている。
通称『暖炉の部屋』は子供用の居間のことだ。マリィベルとガイラルディアが昼間寛いだり、友人を通すときなどに使う。あの場所なら、大広間から少し離れているし、奥まった場所だからすぐには見つからないだろう。傍らのメイドたちに目をやる。メイド長のフライヤに、「子供たちのことを、頼みます」と告げると、フライヤは、背後のメイドたちは、深く、首肯した。ありがとう、とユージェニーは礼を述べた。
「嫌です、お母様。お母様を置いて行くなんて、できない…!」
しかし、マリィベルはいやいやと首を横に振った。マリィベルは聡い子だ。だから、分かっている。今、何が起こっているのか。これから、何が起こるのか。
だからこそ、ユージェニーは彼女を送り出さなければならなかった。ユージェニーを捨てさせなければならなかった。それがどんなに、彼女にとって痛みを伴うことであっても。ユージェニーにとって、身を裂かれるような痛みを伴うことであっても。
「かくれんぼ、するの?」
はっとして、ユージェニーとマリィベルは視線を下げる。声を上げたのは、小さなガイラルディアだった。そう、『暖炉の部屋』の暖炉はガルディオス伯爵邸でかくれんぼをするときのガイラルディアの定位置だった。ヴァンデスデルカも、マリィベルも、それを知っているから、鬼になったときはわざと『暖炉の部屋』は最初には探さないようにするのだ。
ユージェニーは、しゃがんで、ガイラルディアと視線を合わせる。蒼い双眸がユージェニーを映す。無邪気にユージェニーを見返すその瞳が、何よりも愛おしいと思う。
「そうよ。かくれんぼをするの。姉様と一緒に、ね」
「母上は?母上は、一緒に行かないの?」
「ええ。でも、大丈夫。私も、すぐに行くから」
だから、とガイラルディアをスカートから優しく引き離し、マリィベルの手を握らせる。ユージェニーはふたりをふたりごと、抱きしめた。抱き寄せたぬくもりとともに、胸の奥からしあわせが湧きあがる。ガイラルディア、マリィベル。私と、ジグムント様の愛しい子供たち。私たちのところへやって来てくれて、ありがとう。私を母親にしてくれて、ありがとう。
「母様を、信じて。」
あなたたちの母親になることができて、よかった。
ガルディオス伯爵邸内部に足を踏み入れると、開けた大広間に出た。聞いたところでは、ガルディオス伯爵家の長男の5歳の誕生日を祝う式典があったらしく、広間には純白のクロスとそれを彩る祝餐が乗せられたテーブルが並んでいた。列席者が集い、ワイングラスを取り、和気藹藹と語らったであろうその空間には、今やその気配は一筋もない。
いや、
居た。
女だった。二階に続く大階段の上に、真紅のドレスを纏う女が経っていた。それを目に映した瞬間、クリムゾンという男の根底から何かが溢れるのを感じた。その女を、クリムゾンは知っていた。知りすぎるほどに、知っていた。
「ユージェニー」
久し振りだねと、そう口にした言葉が、思いがけず少年の日の自分のようだった。
「ようこそ、クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ様」
16年前に別れたユージェニー・セシルが目の前にいた。クリムゾンは、彼女が余りにも別れたあの日と変わりないことに驚いた。白ぶどう色の髪、藍色の目、雪のように透き通る白い肌。その姿は、歳を経てさらに美しく、もぎ取るべき時を今か今かと待つ熟した果実のようだった。目の前に実るそれに、ごくりと音を立てて喉仏が上下する。目の前にいるのは、ユージェニー。私の、永遠の少女。
はっとして、クリムゾンは我に返る。そして、己が任務を思い出す。きっと目つきを改めて、彼女を見やる。
「長きに渡るガルディオス伯爵夫人としての働き、御苦労だった。さあユージェニー、キムラスカへ帰ろう」
「…御冗談を。生かして帰すつもりなど、ないのでしょう?」
ぐ、と息を呑む。
彼女の言う通りだった。ユージェニーは、キムラスカから密偵を命じる書簡を受け取りながら、何の行動も起こさなかった。止むを得ず、キムラスカ軍はホドに精通したユージェニーの手引きなしでホド進軍を為さねばならなかった。結果として作戦は成功したが、キムラスカとしてはユージェニーの働きに期待していたし、それを裏切ったユージェニーを許しはしない。それが、キムラスカの意志であり、そして。
預言だ。
「…確かにそうだ。ユージェニー。私は、君を殺さなければならない」
「殺さなければ『ならない』?」
「そう、それが、君と私の預言だ。最初から、決まっていたことなんだ」
それが、導師エベノスからキムラスカにもたらされた預言。ユージェニーが敵国に嫁ぎ、そこで子を生み、クリムゾンの手で殺される。
クリムゾンは、自分の意志でここに立っているような気がしなかった。すべて、何か大きな、偉大なる意志に動かされているような気がした。余りにも、自分がちっぽけで。息をすることさえ、ままならないような。全てが動かされている。全てが、義務付けられている。そう、義務なのだ。責務なのだ。これから成すことはすべて。クリムゾンが、やらなくてはならないことなのだ。
その時、
「…ふ、」
苦悶の表情に顔を歪めたクリムゾンを、彼女は笑った。
「違うわ、クリムゾン」
「…ユージェニー?」
「私を殺すのはあなた。あなたが殺すの。あなたが私を殺すことを選ぶの。決められたことですって?私は許さない、あなたがすることから逃げるのを、許さない」
彼女が、階段を下りてくる。一段、一段、軽やかに、爪先を遊ばせるように。その表情は、浮かべた笑みは、クリムゾンの知らない表情だった。彼女は歌うように言う。歌うように音を紡ぐ。クリムゾンが知らない、理解し難いメロディを奏でる。知らない。こんなユージェニーは知らない。クリムゾンの知るユージェニーは、目の前にいる女性とは違った。ユージェニー・セシルとは、世界から切り離され、世界へと繋がることを恐れ、白い塔の上で座り込んでいるだけの、クリムゾンの腕の中だけに存在する愛らしい少女だった。
ユージェニーが歩みを止める。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、彼女との途方も無い距離を感じた。藍の瞳が、どうにかすると赤に見えた。それは、クリムゾンの色を反射していたのかもしれないし。彼女の血がそうさせたのかもしれない。
「私はユージェニー・セシル・ガルディオス。私はホドの人間です。忘れないで、クリムゾン。私は受け入れます。あなたのすることを、全て受け入れます」
クリムゾンの手が、操られるように腰の剣を抜いた。震える。手が、彼女に刃を向ける。彼女は笑んでいた。クリムゾンの知らない風に笑んでいた。愛おしい身体に、剣を突き立てる。彼女のばらの花びらのような唇から、血が溢れでた。
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