「ここは、私が引き受けます。貴女たちはお嬢様とお坊っちゃまを連れて、先にお行きなさい」
メイド長フライヤが立ち止まり、メイドたちに告げる。顔面蒼白となったメイドたちの中から、「メイド長!私もっ、私もメイド長とご一緒に!」と悲鳴じみた声を上げたのはカヤだった。私も、私も、と声を上げる少女たちを、フライヤは頑として制す。
「貴女たちは、まだ若い。こんな所で、命を散らしてはいけないの」
フライヤは、娘にも等しい少女たちに訴えた。メグミカが声を上げて泣く。マーグメルがその肩を抱く。遠くから、がちゃがちゃと、鎧が鳴る音が聞こえた。「ベラ、後は頼みましたよ」と最も年嵩のベラに言うと、ベラはルージュを引いた唇を震わせながらも気丈に頷いた。
ガイラルディアとマリィベルを守るメイドたちが再び駆け出す中で、一人の少女がそこに残っていた。シルフィと言う名の、ガルディオス家に仕えるようになって間もない少女だった。ミモザ色のみつあみを垂らした、気弱げな少女は、突如彼女らを襲った出来事を理解できないでいるようだった。僅かに開いた唇をうまく閉じられないまま、彼女はそこで立ち止っていた。
「…シルフィ」
フライヤは、その両肩に手を置く。びくりと震えた少女。そばかすの散る、強張った顔を、その不安を溶かすように、優しく、語りかける。近づいてくる金属音が聞こえないように、柔らかな音で包み込む。
「お嬢様とお坊っちゃまをお守りするの。それが、私たちの務めだから」
さあ、お行きなさい。少女の肩から手を離す。青い瞳が透き通って、フライヤを見ていた。少女、シルフィは頷いて、身を翻して先輩たちの後を追った。
フライヤもまた、彼女から背を向ける。がちゃがちゃと、金属音が聞こえてくる。老メイドは、静かに目を閉じた。彼女はこの屋敷で過ごした40年近くを思い返した。この手で抱いた子供たちを、この手で育てた子供たちを思った。どうか生き延びてくれと、ただ、祈った。
「女子供とて容赦をするな!譜術が使えるなら十分脅威だ!」
扉の外から怒号が聞こえてくる。バタバタという足音、がちゃがちゃという騎士の鎧が立てる音、怒鳴り声、悲鳴、叫び声、それから、それから。
色んな音が聞こえてくる。それらは、ひとつになるのではなく、ばらばらのまま合わさって、無数の音になる。ガイラルディアは、姉と、メイドたちと一緒に『暖炉の部屋』にいた。途中で別れたフライヤがどこに行ったのかわからない。カヤがメイド長、と言いながら泣いていた。どうして泣いているんだろう、と思ったけれど、尋ねる気にはなれなかった。
キムラスカ軍が、襲ってきた。
そう、声が聞こえてきた。
何が起きているか、分からない。だけど、何か怖いものが自分たちを襲っているのは分かった。それから隠れなければいけないということも。堪らなくなって、ガイラルディアは、姉と繋いだ手をギュッと握る。だが、姉は、マリィベルは、握り返してはくれなかった。姉の手は氷のように冷え切っていて、力がなかった。
皆が不安げに身を縮こまらせていた。仲良しのメグミカとマーグメルが肩を寄せ合い、エーリテが両手で顔を覆っていた。ベラは壁にもたれかかり、祈るように合わせた手を口元へやって、何ごとかをぶつぶつと唱えていた。皆が、皆、顔を青白くして、鼠のように縮こまって、いつもの瑞々しい生花のような絶えない笑顔が掻き消えていた。それらは、ガイラルディアを堪らなく、不安にさせた。ふえ、と、泣きだしそうになったとき、それを感じた姉が身を固くしたとき。その時、だった。
「シルフィ…?」
がしゃん、と音がした。『暖炉の部屋』には、装飾品として剣が飾られている。それを、ひとりのメイドが手に取ったのだった。彼女は、シルフィ、と言う名の見習いメイドだった。父が、つい最近、新しいメイドだと言って姉とガイラルディアに紹介した子だった。13、4歳程の華奢な少女メイドは、6本の剣のうち一番下に飾られたそれを、覚束ない背伸びをして手に取った。家具でなく、武器となったそれは、少女の手の中で鈍く光った。ず、と引き摺るようにして手の中に収めたそれを、彼女は渾身の力で、持ち上げる。
「…守ります」
ミモザ色の少女が、凛とした声で言う。彼女の手の中の剣が、覚束なく、しかし光を放つ決意のもとに、しっかりと構えられる。
「私も、ガルディオス家をお守りします。それが、私の役目、だから」
マリィベルが、ギュッと、ガイラルディアの手を握り返す。
シルフィがしたように、メイドたちが、次々に剣を取る。いつもお手製のお菓子と一緒にお茶を入れてくれるカヤ、姉と同級生のメグミカにマーグメル、母付きのメイドのベラ、洗う前の洗濯物で遊ばせてくれるエーリテが、ぎらりと光る剣を、握る。ダメだよ。危ないよ。父上に怒られちゃうよ。触っちゃだめだ。
そんなものを、触っちゃいけない。
「ガイラルディア」
マリィベルが、ガイラルディアの名前を呼んだ。びくりと、ガイラルディアは震える。いやだ、と反射的に言ったガイラルディアは、姉がメイドたちと、同じことをするのを知っていた。姉は、メイドたちと同じ目をしていたのだ。悲愴なまでに、まっすぐな光を放つ目を。
マリィベルが手を引くのを、ガイラルディアは成す術も無く連れて行かれる。示されたのは、暖炉だった。かくれんぼをするとき、いつもガイラルディアが隠れる、ガイラルディアを守ってくれる、暖炉だった。
「ここで隠れていなさい。何があっても、声を出しては駄目よ」
「姉上、私も」
「ガイラルディア」
マリィベルがガイラルディアを抱き上げて、暖炉の中に入れる。私も、たたかいます、という声を遮って、マリィベルは言った。
「いいですか、ガイラルディア。お前はガルディオス家の跡取りとして、生き残らなければなりません」
「姉上…」
「ここに隠れて。物音ひとつ立てては駄目ですよ」
母のように優しく、それでいて凛として、姉が言い聞かせる。
「…ガイラルディア、優しい子。貴方は人が殺せるような男ではない。でも、私はそれを誇りに思うわ」
姉が、しゅるりと、リボンタイを抜いた。それを通していた、メダルを、ガイの手に握らせる。
それは、父がしていたのと同じメダル。
ガルディオス家で成人を迎えた者が付けることを許される、ガルディオス家の人間である証し。
「姉上!」
「しっ!キムラスカ軍が来たようです。静かになさい。いいですね」
姉が立ち上がる。その背を、ガイラルディアはただ、見送るしかない。姉上、と呼びたかった。何度でも、何度でも、姉がその歩みを止めるまで。姉が振り返ってくれるまで、いつものように笑いかけてくれるまで。だが、姉は声を上げるなと言った。だから、口を噤んでいなければならなかった。どれだけ呼びたくても。どれだけ止めたくても。
姉が、その手に剣を握るのを、ガイラルディアはただ、見ていた。
ばあん、と耳が痛くなるほど大きな音が鳴る。がちゃがちゃと、金属音が聞こえる。「そこをどけ!」と、聞いたことのない人の怖い声が聞こえる。姉が剣を構えた。「そなたこそ下がれ!下郎!」姉の声が聞こえる。金属音。怖い。恐ろしい。金属音。音が鳴る。怖い音が鳴る。悲鳴。怒号。断末魔。口を押さえている。声を出してはならない。血。倒れる少女。死。
姉が、マリィベルが、白光を鎧う騎士の攻撃で剣を取り落とした。「ええい、邪魔だっ!」騎士の苛立つ声。姉が、悲鳴を上げた。姉の身体が切り裂かれた。その瞬間、ガイラルディアは暖炉を飛び出さずにはおれなかった。姉上、とマリィベルを呼んだ。これまで黙っていた分だけ、悲鳴じみた叫びは大きく響いた。鎧がこちらを見る。こちらに気付く。振り上げられる刃。死。死が向かい来る。死が、ガイラルディアを迎えにやってくる。
「ガイ!危ない!」
その時、姉がガイラルディアと、刃の間に飛び出した。姉が、メイドたちが、ガイラルディアを守る為に、その身を投げ出した。ガイラルディアから遠ざけられたその刃は、代わりに姉を、メイドたちを引き裂いた。死は、彼女らへと降りかかった。ガイラルディアは見えない。何も、見えない。姉が覆いかぶさる。だから何も見えない。血まみれの、姉だけが、ガイラルディアの視界を覆う。血の色が、その匂いが、急速に冷たくなるその感触が、ガイラルディアのすべてを、それらが、浸食していく。
だからもう何も見えないし、何も感じられない。
繋がれる。
幾重にも。
幾層にも。
幾縛にも。
繋がれて、
身動きが 取れなく なる。
「フォンスロット開放。音素振動数同調完了。目標、セフィロトツリー・セクト・ホドに設定。各種音機関機器に異常なし」
装置の上に寝かされている。いつもの、超振動実験だろうか。アクゼルストの声がする。アクゼルストの声が、淡々と何かを読み上げている。
マザー・コンピュータを操作する場所にアクゼルストがいた。顔面蒼白とした男が、左の騎士としての正装ではなく研究所の所長としての白衣を纏って、淀みなくキーを打ち続けていた。その傍らに、メルトレムが見える。背後にいるのは、その身につけた服は。何度か見たことがある。
マルクト軍、だ。
「安全装置解除完了。これにて、全ての準備を、完了する」
ヴァンデスデルカは、気配を感じて、仰向けの姿勢のまま横を向く。うまく動かない身体で、目線だけをそちらに向ける。
そこには、ヴァンデスデルカと同じように、ひとりの少年が寝かされていた。目を閉じて、まるで、人形のようにそこにいる少年。
その顔は、
その、顔、は。
「それでは、これより被験体ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデと、そのレプリカの間で、疑似超振動を発生させる」
ヴァンデスデルカと、まったくの同じ、だった。
足音が、去っていく。がちゃがちゃと、音を立てて、怖いものが去っていく。
ガイラルディアの上に姉が圧し掛かっていた。姉だけじゃない、メイドたちがガイラルディアの上に折り重なっていた。あねうえ、とガイラルディアは呼んだ。あねうえ。取り縋るように、呼んだ。あねうえ!
マリィベルは、応えた。
血濡れた顔で、笑ってみせた。
「ガルディオス家の跡取りを守れるなら、本望よ」
そう、
笑って、目を閉じた。
ガイラルディアは叫んだ。
音もなく、叫んだ。
世界から音になることを否定された叫びを、ガイラルディアは上げた。
いつまでも、上げ続けた。
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