ずうん、と
 ホドが、揺れる。



 帝立病院のベッドに横たわるセクエンツィアは、直下型の揺れを感じて目を覚ました。ふいに、鈍い痛みを感じて頭に手を当てる。不可解な痛みだ。…まるで、薬か何かで無理矢理寝かされていたような。
 記憶の糸を手繰れば、今日がガイラルディアの5歳の誕生日であることを思い出す。ヴェルフェディリオが見舞いに来て、随分長い間話をした。それから、誕生会に遅れる、と言って慌てて病室を駆け出していった。それから、少しばかり早めの昼食が出されて…その後から、ぷっつりと記憶が途絶えている。まさか、あの中に何か入れられていた?もしそうだとしても、何のために?



「ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデの―――」



 病室の外から、話し声が聞こえた。その言葉の中に、自分の息子の名が含まれているのを聞いて、セクエンツィアは即座にベッドから起き上がった。セクエンツィアが起きているとは思っていないのだろう、話し声は無防備に続けられる。

「被験体の超振動実験は成功したようだな。あとは、あの母親を餌にして帝都へ連れ帰り…」
「軍の研究施設で、引き続き実験を行う、ということですな」
「ええ。人体レプリカを用いた超振動実験の貴重な成功例ですから…」

 だん、と
 音を立てて、セクエンツィアが片足を病室の床に打ち落とす。

「どういう、ことです」

 帝立病院に勤める医師のふたりが、びくりとして、セクエンツィアを見やった。

「フェ、フェンデ夫人…!?もう睡眠薬が、切れ、」
「答えなさい。私の息子に、何をしたの?」
「お、落ち着いて下さい。落ち着いて、ベッドに戻って…」
「私の息子に何をしたと、聞いているんだ!!」

 だあん、と、音がするほどの激しい踏み込みが、頭でっかちの医師らを震わせる。
 騒ぎを聞きつけてか、職員たちがわらわらと集まって来た。セクエンツィアをベッドに戻そうと、息子、ヴァンデスデルカを動かす駒にしようと、セクエンツィアに迫ってくる。セクエンツィアは、ベッドの下に隠した剣を取った。半年ぶりに握ったそれは、馴染みすぎるほどにその手に馴染んだ。

「そこを、通しなさい!!」

 セクエンツィア・アドニス・フェンデはベッドから飛び降りて、行く手を阻むものたちに剣を振り翳した。





「…うっ…」

 ヴァンデスデルカは、超振動装置に横たわったまま目が覚めた。全身に渡る鈍い痛みを我慢して身を起こすと、プチプチと何かの管が外れていった。
 はっと思い出して、ヴァンデスデルカは傍らを見る。そこに居た筈の存在は、なかった。ヴァンデスデルカは、その事実に心が和らいだのを確かに感じる。目に浮かぶのは、ヴァンデスデルカの隣に横たえられていた少年だ。ヴァンデスデルカとまったく同じ顔をした、ヴァンデスデルカと同じ、
 「う、」げぇっ、と吐き気を催して、口を押さえた。げえげえとしても出てくるものは何もなく、ただ不快感を吐き出すようにして、そうした。ヴァンデスデルカは、一刻も早くこの場を離れたく思って、装置から降りた。痛みを伴うそれは、ひどく緩慢な動作で行われた。

「そうだ…アクゼルスト、さん、は…」

 研究所の中は、酷い惨状だった。そこにアクゼルストの姿はなかった。音機関機器が崩れ、書類の束が床に散乱している。辛うじて生きている音機関から、何かのデータが延々と記録されている。ピーッと音を立てながら記録用紙を吐き出すそれの画面を、ヴァンデスデルカは覗き見た。そこには、こう書かれていた。

「人体レプリカを用いた疑似超振動による、影響」

 読み上げた言葉が、何を意味するのか。考えようとしたとき、ヴァンデスデルカの頭が突き刺すように痛んだ。頭の中で、ぐわん、ぐわんと、耳障りな音が鳴っているようだった。まるで、知らない音がヴァンデスデルカという存在に干渉してくるような、頭の中を無理矢理掻き乱していくような、憎々しいまでの、それ。
 ヴァンデスデルカは、頭を押さえながらふらふらと研究所の出口へ向かった。何が、起きたのだろう。アクゼルストはどこへ行ったのか、それから、メルトレムは。いや、それよりも、誕生パーティーを途中で抜け出してきてしまっていたのだった。ガイラルディアを悲しませてしまっているだろうか、マリィベルに呆れられてしまっているだろうか。そうだ、それに、やけに来るのが遅かった父はパーティーに間に合っただろうか。それから。…それから。

 ヴァンデスデルカは、痛みの収まってきた頭から手を離して、研究所の外に出る。

 そこに、広がっていたのは、



「…何だ…これ…」



 ヴァンデスデルカの知るホドでは、なかった。



 ホド・マーブルの白い街並みは黒煙にまみれて、

 白畳はびきびきとひび割れ、

 かつて建物だった瓦礫が軒を連ね、

 キムラスカ軍の旗がホドの空に揺らめき、

 歌ではなく悲鳴と怒号と断末魔が遠く聞こえ、

 森は燃え、

 海は燃え、

 空は燃え、

 大地が揺らぐ。



「何なんだよ、これはぁああぁあああぁぁっ!?」



 ヴァンデスデルカは、両手で頭を抱えて蹲る。すると、また大きな揺れがヴァンデスデルカを襲った。ヴァンデスデルカは、突き動かされるようにゆらりと立ち上がって、わけのわからぬことを叫びながら駆け出す。ぐちゃぐちゃになった思考が、ヴァンデスデルカの中で溢れて、溢れて、止め処なく、溢れだす。



 何でこんなことに

 何で

 何で



「僕は…」



 …僕のせい?



「…悪くない…」



 ヴァンデスデルカは、息を切らして、その場にしゃがみ込む。めちゃくちゃに走って来た結果、丘陵地帯を下り、ホドの街中まで戻って来ていた。キムラスカに蹂躙され、そして、その存在すらも消されようとしているホド。その石畳の上で、ひび割れた石畳の上で、ヴァンデスデルカは頭を抱える。
 そうだ。僕は悪くない。悪いのは研究所だ。アクゼルストだ。キムラスカだ。マルクトだ。ダアトだ。…やって来てくれなかった父だ。
 僕と、
 ホド以外の、
 すべてだ。



「…違う」



 僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ僕のせいだ僕のせいだッ!!!僕の中から引き出されたあの力が、僕と瓜二つのあの存在と共鳴して生み出されたあの力が、ホドを滅ぼした。僕が、ホドを滅ぼした。そして、僕が、ホドの皆を殺した。父さんも、母さんも、母さんの中の僕の妹か弟も、ガイラルディア様も、マリィベル様も、ジグムント様も、ユージェニー様も、ペールギュントさんも、アクゼルストさんも、メルトレムも、エルドルラルトも、皆。…皆。




「僕の、せいだ…」




 ヴァンデスデルカは、ひとりだった。



 苛立ちを露わにする人間も、

 不甲斐なさを嘆く人間も、

 罵る人間も、

 幻滅する人間も、

 呆れる人間も、

 …傍に立ち続けてくれる人間も、

 彼には、いなかった。





「ヴァン!どこ、ヴァンッ!!」

 セクエンツィアは、帝立病院から脱出してホドの街中にやってきた。そこに広がっていたのは、惨状、としか言えない光景だった。見慣れたホドの姿はそこにはなく、黒煙と、爆炎がそこら中から上がっていた。ホドの空にはためくキムラスカの軍旗で、ホドがキムラスカの攻撃を受けていることを知った。ぐらぐらと断続的なに起こる揺れは、立っていられない程に大きくなっていった。それでも、セクエンツィアは歩き続けた。ただ一つの名前を呼び、歩き続けた。彼女が腹に負った子と、探し続けるもうひとりの彼女の子が、今の彼女が守るべきすべてだった。

「…ヴァンッ!!」

 そして、彼女は見つけた。ユリア大通りの隅で、蹲る影が自分の息子であることを、彼女は気付いた。セクエンツィアは、息子の元に駆け寄り、その肩を抱く。「ヴァン。ヴァン、しっかりして!ヴァン!」。石畳に頭を擦りつけるようにして俯いていた息子は、ゆっくりと、顔を上げた。「かあ、さ、ん?」
 その表情を見て、セクエンツィアは息を呑んだ。無、を象る仮面。それにセクエンツィアは見覚えがあった。親友ユージェニーが、ホドに来たばかりの頃、男児が産めないばかりに排斥されていた頃の、その、名付けようも無い感情の奔流を、押し留めていた頃の顔。不安、慟哭、悲嘆、憤怒、そして、絶望は、次の瞬間彼の表情に如実に現れた。泣いているような、怒りを露わにするような、笑ってしまいたくなるような、その、感情は、ヴァンデスデルカの顔を歪に歪めた。そして、それだけでは到底吐き出せない感情の渦は、ヴァンデスデルカの両目から涙として現れた。滂沱という涙が、青い双眸から流れてきた。



「母さん」



 そして、枯れ果てた感情の海は虚無を生む。



「僕のせいだ。僕、ホドを滅ぼした。みんなを、殺した」



 その瞬間、セクエンツィアは全身全霊をもって、息子を抱きしめた。



「ヴァンデスデルカっ」



 セクエンツィアには分からなかった。ヴァンデスデルカが、何をしてしまったのか。どうして、泣いているのかも分からない。どうして、ヴァンデスデルカがこんなに泣かなければならないのか。だが、それでも、…それでも。




「大丈夫。もう、大丈夫。お母さんが、あなたを守ってあげるから。もう、泣かなくていいの。あなたは悪くない。あなたは悪くない。あなたは悪くないっ!」




 セクエンツィア・アドニス・フェンデは、ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデの母親だったのだ。





 その時だった。
 母子の前に迫る、影があった。
 キムラスカの紋章を身につけた兵士が、母子に向かって剣を振り上げていた。ふたりが気付いた時には、既に遅い。剣は振り下ろされる。死は振り下ろされる。ふたりは、死を直視しながら、死を振りかざす刃をその身に受ける。



「…たすけて」



 ヴァンデスデルカは、母の腕の中のヴァンデスデルカは、呟く。
 いつだって、ヴァンデスデルカを救いあげてくれるひとの名前を呼ぶ。




「たすけて、父さん…っ!」




 …その瞬間、兵士の身体が砕け散る。



Lacrimosa \