辻馬車から、ひとりの女性が降りてくる。マロンペーストの髪を腰まで伸ばした、一際目を引く女性である。醸し出す雰囲気は、少女、と呼ばれる域を脱した落ち着いたそれだったが、深い海の色をした眼差しが映すのは冷徹さではなく理知深さ、そして小波のような穏やかさだった。
 十数人の乗客と共に辻馬車から降り立った彼女は、乗客らが各々の目的を胸に街に消えていく中でぽつんと立ち尽くしていた。そこは、彼女にとって初めて訪問する街であった。仲間からおおよその情報は得ていたが、こんなに活気のある街になっているとは。驚きつつも、彼女は一先ず、住民から情報を得ることにした。

「ちょっといいかしら。ガルディオス伯爵の邸宅を探しているのだけど…」
「伯爵さまかい?」

 ガルディオス伯爵の名を出した途端、通りすがりの男の表情が変わった。男の表情にぱあっと光が灯り、笑みを見せる。それは周りの住民とて例外ではなく、あっという間に彼女はぞろぞろと集まった住民たちに囲まれてしまった。

「ガイ様のお屋敷は、街の真ん中だよ。案内してあげよう」
「お嬢さん、セフィラにはどうして来たんだい?定住希望?観光目的?それとも商談かい?」
「セフィラはいい街だよ、きっとお嬢さんもすぐに気に入るさ」
「今なら、あっちのサクラ並木が見ごろだよ。サクラを見ながら、うちの地酒で一杯やっていくかい?」

 と、一斉に住民たちが話し始める。彼女は、こういった状況に慣れていないために、「ちょ、ちょっと待って。あ、ありがとう。まずは、ガルディオス伯爵邸に案内してくれるかしら」とどもりながら言う。すると、「勿論さ!」と揃って返された。彼女は、賑やかな住民たちに囲まれながら、港町セフィラの白畳を歩き始めた。





「やあ、ティアさん。お待ちしていましたよ」
「ペールギュント卿!私が訪問するのをお知りで?」
「ほっほ、大勢で賑やかにしていらっしゃるから、すぐに分かりましたよ」

 ペールギュント・サダン・ナイマッハの言葉に、彼女は―――ティア・グランツは赤面した。ペールはガルディオス伯爵邸の表門でティアを待っていた。「さあ、どうぞ。ガイラルディア様がお待ちです」と示されるままに、門をくぐる。すると、門番に立つ二人の騎士が、ティアに向かって笑いかけた。笑いかけて、「おかえりなさい」と言った。
 ティアの心に、あたたかな風が吹き抜けるようだった。彼女は、その風に乗せられるように、「ただいま」と言った。騎士たちは、光差すように笑う。ティアは、彼らの笑顔に見送られるようにしてガルディオス伯爵邸に入った。その足取りは、ステップを踏むように、軽やかだった。



 ガルディオス伯爵邸に入ったティアは、居間に通された。ペールに促されたように席につくと、すぐに老メイドが銀のトレイに乗せたティーセットを運んでくる。繊細なタッチの雛菊が描かれたカップに注がれるのは、宝石のような色合いをもつグランコクマ産の紅茶だ。ティアが「ありがとう」と礼を述べると、彼女は薄らと笑みを浮かべて小さく会釈した。目立とうとせず、ただ傍であたたかく見守ってくれるような、影のような女性だ。
 しばらくすると、扉が開いた。現れたのは、ぴかぴかと自ら光を放つ金色の髪に、空を映した蒼い瞳。その双眸の示すどおり、大空を舞う鳥のように溌剌とした美男子が、ティアを出迎える。



「やあ、ティア。よく来てくれたね」



 ガイラルディア・ガラン・ガルディオス。マルクト領の港町セフィラの領主を勤める伯爵位の青年であり、ティアの仲間の一人だ。

「ガイ。突然訪問してしまって、ごめんなさい」
「いいさ。俺がいつでも来てくれって行ったんだからね。それよりも、わざわざ取りに来てもらって悪かったな」
「いいえ、私もこの町を見たかったから」

 「そう言ってくれると嬉しいよ」と、ガイもティアと向かい合う位置に腰を下ろす。老メイドが静々とその傍らに向かい、ティアにしたのと同じようにティーを注いだ。「ありがとう、コルティア」と笑いかけるガイの表情は、自分の民を愛する領主のそれだ。
 住民たちの様子を見ると、ガイがこの町の住民から愛されていることが良く分かった。元はといえば、ここセフィラはマルクト帝国の辺境に位置するさびれた港町だったという。それを、ガイラルディアがキムラスカとマルクト、ダアトを繋ぐ第二の交易都市として発展させたのだ。そして、今もその発展は続いている。近頃は、ローレライ教団と連携してレプリカの社会進出の手助けをするプログラムにも参入していると聞く。
 だが、ガイが住民から慕われるのはそれだけの故ではない。住民たちが自ら語り出したところによると、ガイは伯爵位をもつ人間にも関わらず、頻繁に屋敷を抜け出して住民たちと交流しているらしい。サクラの下の酒盛りに参加してみたり、漁師たちの船の整備に乗り出してみたり。自ら、住民たちと同じ目線に立ち、同じ経験をしているからこそ、ガイは住民たちから深く慕われているのだろう。ガイらしい、とティアは思わずくすりと笑ってしまった。



「…それで、これが約束の品だ」



 と、ガイはテーブルの上にコトリと、『それ』を置いた。ティアは、壊れものを触るように慎重に、それを受け取る。ティアの手の中で箱状の『それ』は、はじめて手にしたときと同じあたたかみを放った。綺麗に磨かれた『それ』を、ティアは、ゆっくりと、開く。




「あ…」




 その箱を開いた途端、懐かしい音楽が流れ出す。




 憐れみの賛歌(キリエ)

 怒りの日(ディエス・イレ)

 奇しきラッパの響き(トゥバ・ミルム)

 恐るべき御陵威の王(レックス・トレメンデ)

 思い出したまえ(レコルダーレ)

 罵倒するものたちへ(コンフターティス)

 涙の日(ラクリモーサ)

 そして、




「え?これは…」




 ティアの知らない、8曲目。




 それを奏でて、オルゴールは終わる。




 しん、となった居間で、ティアは、その余韻を惜しむように目を閉じていた。目を閉じて、ティアは、オルゴールの中に秘められた歌が映しだす風景を見ていた。走馬灯のように目の前を通り過ぎていくそれを見送りながら、ティアは目を開く。そこには、穏やかな眼差しのガイがいた。

 それは、兄の私室の引き出しから見つかった小さなオルゴールだった。ティアはそのオルゴールに見覚えがあった。兄が、都合があってティアと離れる時、ティアを寂しがらせまいと手ずから作り上げた音機関だった。幼いティアは、兄の代わりに歌を歌ってくれる小さな小箱をとても気に入った。兄がいないときは、繰り返しそれを聞いた。入祭曲(イントロイトゥス)に始まり、7曲で構成されるそれを、ティアは容易く諳んじられるくらいに聞いていた。ティアは長い間その存在を忘れていたが、兄の手元にあったとは。兄の死後、ティアはやっとそれを見つけたのだが、その時にはオルゴールは動かなくなっていた。だから、音機関に詳しいガイに預けて修理してもらっていたのだ。



「ガイ。この、8曲目は?」
「音盤に空きがあったからな。新しく、俺が刻んだんだ。勝手なことをしてしまったね」
「いいえ」



 ティアは、首を横に振る。肩の上でドレープを作っていたマロンペーストの髪が、振り落ちる。



「何だか、懐かしかったわ」



 それは、新しく刻まれた歌。それなのに、どこか懐かしい。涙が出るほどに、懐かしくて。愛おしくて。




 ぽろり、と零れた涙を、ガイの手が掬った。




 テーブルに身を乗り出して、ティアの涙を掬ったガイに、ティアはくすり、と笑う。「行儀が悪いわよ、ガイ」。ガイも、釣られて笑ってしまう。「君の涙を掬う為なら、構うものか」。ガイは言う。その言葉が、あまりにカッコイイものだから、ティアはまた、笑ってしまった。





 新しい歌が紡がれる。既に紡がれたそれと共に、歌は大気に解ける。いくつもの歌が束ねられ、ひとつの歌になる。そうして、世界が歌いだす。道しるべなき未来に寄り添うように。祈るように。



 祈りの込められたオルゴールが歌う。
 そして、いつまでも歌い続ける。






 オルゴールが鳴っている。
 我が身をその手に乗せる男に寄り添うように、それは歌う。
 その歌は、いつまでもそこにある。振り返れば、何時でも其処に帰られるかのように。
 かつて少年だった男は、ふ、と笑って、その箱を閉じた。



Offertrium