「あなたの名前はね、アンジェリカ。天使さまって意味なのよ」

 ママはよく私とお姉ちゃんをダアトの郊外に連れて行った。ごろんと体ごと全部転がれる芝生の上で、ママの作ったお弁当を食べた。 色とりどりの花がたくさん咲いていて、物知りなママは花の名前を一つずつ丁寧に教えてくれた。ママは私が物心ついたときからずっと 忙しくって、一緒に過ごした時間は多くはなかったけど、ママがよく笑う人だったのは覚えている。ママが私とお姉ちゃんに見せる顔は、 全部笑顔だった。愛してるわとことあるごとに囁いて、会えない時間の分だけ抱きしめてくれた。

「あなたが天使さまのような女の子になれますように」

 アンジェリカ、ママがくれた名前が私は大好きだ。今私は、どれだけママの教えてくれた花の名前を覚えているだろう。どれだけ 抱きしめてくれたママのにおいを覚えているだろう。今、私の近くにママはいない。






「アンジェリカちゃん、だね?ヴィクトリカの妹の」

 私を訪ねて来たその人は、ちょっとした顔なじみだった。エルドル、呟いた私は驚いておたまを落としそうになった。すんでのところで 助かって、私は灰汁取りを中断して、さっき味見をしたお皿を支えにしておたまを置いた。

「エルドル、あなた何で、特務師団は、そうだお姉ちゃんは!」
「落ち着いてアンジェリカ。今、余り多くを話すことは出来ない」

 しーっと、人差し指を立てた金髪碧眼の人―――エルドルは、お姉ちゃんの所属する特務師団の副官の地位にいる人だった。私は以前から、 オフの時に限ってではあるけど、調理班の人材が少ない特務師団に、姉のツテでお手伝いをしていた。そんな時決まってお礼を言いに来る のは代表者の特務師団長でなくその副官のエルドルだった。いつもありがとう、すまないね、と困ったように笑うその人は、面識は少ない もののそれなりに好印象があった。けれど、私が動揺したのはそんな彼が私を直接訪ねて来たことに重ねて、最近伝え聞いた特務師団の 状況だった。
 特務師団は活動停止命令が出され、特務師団長と師団長副官は行方不明だということ。
 その影響なのか、姉は暫く帰ってきていなかった。ただでさえ特務師団に入団してから留守にすることが多くなった姉だったが、今回の それは長すぎる。それに連絡がない。姉は母と同じでとても忙しい、けれど母と同じでいついつまでには帰る、ということはちゃんと 伝えてくれる人だ。けれど、姉は帰らない。ずっと帰らない。不意に恐ろしくなる。姉も母のようにいなくなるんじゃないか、どこかに いってしまったんじゃないか、自分を置いて―――嫌なことばかり考えてしまうから、最近では食堂が閉じるぎりぎりまで明日の仕込みを している。料理をしていれば気が紛れるし、明日これを食べてくれるであろう師団の皆のことを考えたらすっと胸が軽くなる。今日も そんな風にして、明朝のメニューにシチューを加えようと思って準備していた。そこに訪ねて来たのがエルドルだ。彼なら、特務師団の 現状を、姉の動向を知っているんじゃないか。行方不明、と聞いていたけれど、何故私の元に訪れたのかも気になる。問い詰めたい気持ち が湧いてきたけれど、エルドルの仕草に踏みとどまって、まず音素コンロの火を中火から弱火に弱めた。

「君の部屋にいないから、焦ったよ。てっきりもう休んでるものかと思ったのだけれど。もしかしたらと思ったんだけど、見つかって よかった」
「どういうこと?エルドルは私に会いに来たの?」
「そう。だけど会いたいのは僕じゃない」

 ちょっと待ってて、とエルドルはひょいと背中を向ける。私は慌てて「待ってよ!」と法衣の後を追おうしたが、エルドルは首だけ振り 返って私を制した。

「君に会いたいと言っている子がいるんだ」

 エルドルの言葉に、私はますます混乱する。私に、会いたい人?姉の顔が一番に浮かぶが、エルドルの態度から考えると違う気がする。 私はひとまず調理場から出て、カウンター席のひとつに座った。長くなるかもしれない、それなら火は止めておいた方がいいかな――― 一旦食堂から出て行ったエルドルはすぐに戻ってきた。こっちに歩いてくるエルドルの後ろに誰かがいる。
 赤。
 鮮烈な、赤色。
 見たこともないくらいの、見事な―――血の色をした髪の、長髪。
 私は一瞬、ずくんと胸の辺りがうずくのを感じた。
 嫌だ。
 この人は、嫌だ。
 本能的な何かがその人を拒否している、気がした。

「アンジェリカ、だったな」

 厳しい顔のその人は、堅く閉じてしまったような唇を開いた。低音。聞きたくない。ききたく、ない。

「俺は、アッシュ。お前の母親…メリルを殺した男だ」


(ききたくない!)


 エルドルの促しで私とアッシュ、は、食堂のテーブルの一つについた。私と向き合うアッシュ、その隣にエルドル。話は聞いていたけど、 彼に話しかけられたことはもちろん、対面したことも初めてのことだった。鮮血のアッシュ。オラクル騎士団、特務師団長。元々他の師団 と違った任務を任されている師団だから、普段姉を含めた師団員と顔を合わせることは稀だし、その師団長となると尚更で、印象なんて 無いに等しい。血の色の長髪はカウンター越しの調理室の灯りだけで賄われる食堂の薄暗い中でよく目立っていた。私は彼を上手く 見つめることもできずに、状況を把握し切れずにいた。今、彼は、アッシュはなんと言った。メリルを―――ママを殺したと。彼が殺した と。目の前の、彼が。
 母は、メリルは6年前失踪していた。それは突然のことで、8歳だった私にはうまく理解できなかった。一番近くに居てほしかった姉はその 頃から神託の盾で働きだしていた。それは私を養うためだったのだけれど、寂しさはひとりでどんどん膨らんでいった。ママはどこ にいったの。ママはなんで帰ってこないの。なんで―――。今、第六師団に拾ってもらい、毎日毎日食堂に立ちながら、姉を待ちながら、 優しいともだちを待ちながら、それでも私が本当に待っていたのは母だった。いい子にしていれば帰ってくると思っていた。天使さまの ような女の子になれば、帰ってきてくれると思っていた。信じていたのだ。

6年前、メリルは俺の世話役だった。当時、極端に制限された空間にいた俺にとって、メリルは安らげる存在だった。お前の話もして いた。お前の姉、ヴィクトリカの話も」

 アッシュ、は自分の一言一言を噛み締めるように呟いた。真摯な緑色の瞳を私は直視できない。

「メリルを殺したのは俺、だ。剣を握ったのはあいつからだったが、…否、そんなことは言い訳にしかならないか。あいつは利用された んだ、ヴァンにも、ヴァンに敵対していた勢力からも…だが、殺したのは、俺だ。今は俺もこいつ、エルドルも…追われる身だ、ダアトに 長居はできない。しかし、言っておかなくてはならないと思った。言わなくてはならないと」

 エルドルがアッシュ、と制すような声で呼ぶ。アッシュはすっと腰を上げて、テーブルに両手をついた。血の色の髪が苦しげな少年の顔を 隠す。「…すまない」頭を下げたままアッシュは言った。謝って済むことでないのは判っている。何度でも殺したいくらいに憎いだろう、 だが俺は今死ねない。死ぬ訳にはいかない、だから―――俺の成すべきことが終わった時には、この命をくれてやる。アッシュはそう、 口にする。アッシュの表情は見えない。血の色をした、髪。頭から血を流しているみたいに、テーブルの上にばらばらと長髪が垂れ 下がる。血の色。ママを殺したひとの、血の色。

「…帰ってください」

 私はそう呟いていた。血の色をした彼から視線を背けたまま。エルドルが表情を歪める。アッシュは顔を上げない。

「帰ってください、もう二度と来ないで」

 私はエプロンの裾をぎゅっと握っていた。痛いくらいに握っていた。視線を上げられない。アッシュは、判った、とだけ返した。アッシュ が顔を上げた、気配がした。行くぞ、エルドル。エルドルが席を立つ音。踵を返す軍靴の音がふたつ。かつかつ、かつかつと、食堂から ふたりが去って行く。私はひとり、残される。
 ママ。
 完全に軍靴の音が消えても、私は暫く顔を上げられなかった。ママ。ああ、罪人だってなんだってよかった。生きてさえいてほしかった の。ただ、生きて帰ってきてくれさえすればよかったのに。
 テーブルに突っ伏して、私は結局シチューの仕込みを駄目にしてしまった。



 エルドルと、帰ってきた姉から詳細を聞いたのは1年後だった。
 母はある人の計画を阻止する為にアッシュを殺そうとしたこと、でも殺せなかったこと、身を守ろうとしたアッシュが母を殺したこと。 アッシュが家族も、友達も、何もかも失くしたこと、アッシュが心を許しながらも殺してしまった母を悼み続けていたこと。
 私は、なんてことを、ああ、ママ。私は寂しかったあの人に、なんて酷い言葉をぶつけてしまったのでしょうか。ママのいないあの人が 死んだと聞いて、私は、泣き出してしまった。






 それから数週間も経たない頃、買い物の途中で私は立ち止まった。なにかが聞こえた気がした。それは人の声というより獣かなにかの ような響きに聞こえた。う、ああ、と、不定期なリズムは下手くそな歌のようで、私は惹かれるような気持ちでふらふらとダアトの路地に 入っていった。
 そこに、人が転がっていた。歳の頃は成人男性のようなのに、何故だか赤ちゃんを見ているような気分だった。ぐしゃぐしゃになった銀髪、 光の差さない空色の瞳。レプリカだ―――私は直感でそう思った。最近ダアトにそういった人たちが増えていた。造られた存在、 ひとではない、ひとにそっくりな、それ。発見されたレプリカはすぐに教団の人がどこかに連れて行くから、じっくり見たことはなかった けど、きっとそうだと思った。うあ、と意味の成さない声を上げて、かろうじて壁にもたれ掛かっていたかれはぐしゃりと崩れ落ちた。 私は自分で驚くくらいの反応の速さで、それを支えた。大丈夫、しっかりして。かれは私の言った言葉が判らないようだった。私を 見上げた瞳の片方は、ひどい傷で塞がれていた。滲んだ血の色。血の色。孤独なかれの血の色。
 衝動的に、私はかれを抱きしめた。うあー、かれは声を上げたけど、反抗する様子はなかった。わたしが、私は自然と口が動くのを 感じた。

「私があなたのママになってあげる」

 ぎゅ、と私は一層強くかれを抱き寄せる。きっとかれはこれまでたくさん傷ついてきたのだろうと思う。これからは、わたしがかれを 守ってあげよう。世界の中でかれを傷つける全部から、彼を守ろう。この子の為の天使さまになろう。彼が幸せに生きられるように。 幸せに、なれるように。


ア ン ジ ェ リ カ

09/06/07