「すっごく、よかったわ」

 女の声が後ろから降ってくる。甘ったるい声、熱に熟れた声。君もとてもステキだったよ、と背を向けたまま返すと、ほうと息をつく 気配がする。彼女の名前は何だったかな、昨日声をかけた時に一番に聞いた筈だけど、昼過ぎまでたっぷり惰眠を貪った頭は上手く働かな かった。
 まあいいや、きっと相手も僕なんて覚えてやしないさ。
 何時ものことなので、気にしない。買って貰ったスーツをばさりと羽織って部屋を出る。またね、と女から出る音。手を上げて返す。 僕だって彼女だって、「また」がないことなんて知りきっている。だからこんなものは単なる社交辞令で、リップ・サービスだ。チップの おまけだ。
 アパートを出て通りを歩く。今日は快晴だ。もう昼時なのだから、折角だし、昼食も何か作ってもらえばよかった。まあいい天気だから 外で食べることにしよう。スーツは新品で、懐はまあまあ暖かい。本日も快晴だ。さて、何を食べようかな。

「ティオちゃん?」

 名前を呼ばれて、振り返る。誰も居ない。僕の見知っている人は。ただ僕の名前を呼んだらしい人物はいた。カールのきいた金髪と、 マゼンダの瞳。可笑しな既視感が湧いた。どこかで見たことがあるような。  そして思い至る。ああ、これは僕じゃないか。鏡の中の僕と、瓜二つじゃないか。

「ティオちゃんでしょう?」

 いやいやバンビーナ、僕はあんたと面識なんてひとつもないんだけどね。その女は僕の名前を知っていた。人違いでしょう、とか何とか 言って、誤魔化してやろうと思ったが、僕の口は自然と動いていた。「そうですけど」、自分で思うくらい怪訝そうな声だった。しかし その一言で、僕と瓜二つの女の表情がぱあっと明るくなった。「ティオちゃん、ティオちゃんなのね!」だからなんなんだあんたは。 苛立ち始めた僕を遮る弾んだ声、それはそれは嬉しそうな。

「私は、ベルエーゼ・ミグ。ティオちゃん、あなたのお姉ちゃんよ」

 …ハァ?





 彼女、ベルエーゼ・ミグとやらの話を聞いたのは、その女がカフェまで僕の手を引いて、私が出すわね、と席に座らせたからだ。帝都 出身だという彼女は、見るからに世間知らずのお嬢様だった。ああ吐き気がするね。
 いささか高値のボロネーゼをつついていると、女の声が耳に入ってくる。僕と彼女が双子の姉弟であること、ミグ家には双子が生まれた 場合直ぐ片方が捨てられるという風習があること、最近ミグ家が破産し家を引き払う準備をしていた時に僕の存在を知ったこと、捨てられ る直前に付けられたベルナティオという名前だけを頼りに探してきたこと。大体こんなことが判った。ベルエーゼはピッツァを丁寧に切り 分けつつ、浮かれた調子で話し続ける。

「会えないかもしれないって思っていたの。でも私、ティオちゃんに会いたいって思ったの。そうしたら出会えた。奇跡みたい、嬉しいわ」

 女はふわりと顔を緩ませる。どうぞ、と言われて示されたピッツァの一切れを口に放り込んだ。熱々の生地にふんだんに乗せられた モッツァレラ・チーズ。口の中でとろとろ蕩ける。女のだらだらとした話し声より、このピッツァのほうが断然心をくすぐられるね。

「本当に嬉しいわ、ティオちゃん。愛している、愛しているわ」

 うわごとのように女は囁いた。
 愛、愛ね。
 女が繰り返した言葉を反芻する。到底、呑みこめやしないね。





 宿を取っているの、と女は言った。まだ寝床を決めていなかった僕は、同じ宿に泊まることを同意した。夜まで女のふわふわと浮かれた 様子は治まらなかった。もしかしたら、これが何時もの様子なのかもしれない。能天気にも程があるね。
 夕食時には、今度はあちらから僕の様子を聞いてきた。いままでどうしていたの、どこに住んでいるの、お世話になった人はいるの、 何かお仕事はしているの。僕は曖昧に答えを濁し時折適当な答えを探しつつ、舌打ちを抑えるのに常時気を付けなくてはならなかった。 女は始めて対面したときから、やわらかな笑顔を絶やさない。ああ、吐き気がする。吐き気がする。
 この女に何が判るものか。ぬくぬくと。しゃあしゃあと。よく顔が見せられたものだ、よく弟とかいうものを探す気になったものだ。 口の中の苦さをワインで流し込む。ああ、なんて悪い酒だ。
 女の取った部屋に入り、おやすみなさいティオちゃん、女におやすみと返して暫くのちに、女が寝静まったのを確認する。寝つきがいい 女だ。すっと寝台から身を起こして、二つ並んだベッドのもう片方に近づく。
 女の荷物はベッド脇に行儀良く置かれていた。無用心にも程があるね。
 物音を立てないよう細心の注意を払いつつ、夕食時にも確認しておいたが、腰に付ける型のポーチから財布を拝借する。素早く中を確認 すると、成る程、矢張りお嬢様だ。ガルド札が20枚程。く、と低い笑いが込み上げる。

 残念だね、バンビーナ。勉強になったろう、僕を信じた君が馬鹿だったんだ。これに懲りて、大人しく帝都にでも帰るといい。

 寝台から降りて、木製のドアに手をかける。十分音を立てないように注意した筈だが、ううん、とうめきが聞こえた。慌てることなく、 女の動向を監察。シーツの下で身を捩じらせて、向こう側に背を丸めていた女はドアに、僕のいる方向に寝返りした。「…ティオちゃん?」 女がうっすらと目を開けて、呟く。財布は既に僕の懐の中。僕は極めて冷静沈着だ。

「ごめん、起こしちゃったね。外の空気を吸いに行こうかと思って」
「あら、そうなの?…私も、付いて行きましょうか?」
「いや、いいよ。すぐに帰ってくるから」

 女はぱちぱちと瞬きする。夢魔はまだ去ってはいない。徐々に下がる女の目蓋。

「…本当?」
「ああ、本当だよ」

 とびっきりの笑顔を作る。すると女は安心した様子で、判ったわ、おやすみなさい、と呟いた。間も無く完全に姿を消すマゼンダ。 何事も無かったかのように僕は扉に手をかける。

「おやすみ、『姉さん』」





 今日の寝床はイマイチだったな、とティオはひとりごちる。香水は金持ちの高尚な趣味だが、過ぎるそれは異臭も同然だ。あの女は失敗 だった。香水は僕だって好きだけど。何十種類もの芳香が混ざり合ったあの部屋の空気に昼まで漬かるのは躊躇われて、朝早くから出てきて しまった。
 お腹空いたな、と思うと、不意に数日前食べたピッツァが浮かぶ。あれは美味しかったな。シンプルなマルガリータは、この町で食べた ものの中ではピカイチだった。そろそろ次の町へ行くつもりだったので、最後にあのピッツァをもう一度味わうのも悪くない。
 マルガリータは変わらず美味しかった。ひとりの食事は楽だ、相手に気を使わなくていいし、食べたいものを食べられる分だけ頼めば いい。そんなことを考えていると、以前これを食べたときには、二人でテーブルについていたことを思い出す。ピッツァを丁寧に切り分けて いたあの女。あの女のおかげで、朝っぱらから高いピッツァを食えるのだけど。
 食事を終えて席を立つ。気紛れに足を進める先は町の出口で、あの女の取った宿までの道だった。

 朝の静かな町並みを歩く。雑多な繁華街と言えど、早朝はこんなものだ。所詮根無し草だ、数週間だけ留まった町に愛着などは感じないが、 整備が怠られて割れたタイルにかつかつとブーツが鳴る静寂は好ましかった。早朝ゆえに、少し肌寒いが、天気もいい。発つにはいい日だ。
 町の出口まで後僅かという通りに、例の宿が見えていた。意図的に立ち寄る訳ではなくて、単に通り道だ。何を思うことも無く通り過ぎ ようとしたとき、僕は息を呑んだ。

「…ベルエーゼ、ミグ…?」

 宿の前に、見覚えのある女が立っている。カールのきいた金髪、マゼンダの瞳。鏡写しの僕だ。僕の喉がからからになる。彼女は短い箒 を両手で握って、足元の埃を片付けている。見るからにホテルの従業員だ。僕は立ち尽くしていた。理由も判らずに。
 暫くそうしていると、ベルエーゼがこちらに気付く。「ティオちゃん!」顔を合わせていたとき、始終浮かべていたのと同じ表情が 現れる。輝くような笑顔。春のような笑顔。

「おかえりなさい!」

 ベルエーゼはマゼンダの瞳を細める。僕は動けない。乾ききった唇が動く。「あ、んた、何で、何でここに」。この女はおそらく、宿で 働いているのだろう。僕が彼女のお金を全部取っていったから。お金を返そうと、従業員紛いのことをしているのだろう。僕の呟きを 彼女は上手に拾い上げた。

「だってティオちゃんは、すぐ帰ってくる、って言ったじゃない」

 ベルエーゼは笑う。当然のことのように笑う。
 胸の奥から湧き上がるものがあった。なにものかわからない、気持ち悪い、吐きそうだ。僕は僕の胸の奥に手を突っ込む。溢れ出る異物 を、今まで触れてこなかったものを引きずり出す。ああ、この女は。このひとは。

「…ただいま、姉さん」




 僕の、姉さんだ。


春の女王のアリア

09/07/17