「ユージェニー、知っているか」

 ユージェニーはきょとんとした顔で私を見上げている。素朴なロッキングチェアに腰掛けた少女は酷く無垢で無知だ。

「王都の向こうには海というものがあって、そう、海というものは、果てなく青が広がっているのだ」

 私は手近な本棚から一つ適当なものを手に取る。ぱらぱらと人差し指が捲るページから目的の色を見つけて、少女に指し示した。
 ユージェニーの住まいは海原どころか、王都の町並みさえ見えぬ孤塔である。少女は窓に片手を当てて、一目と見たことのない一面の青に 思いを馳せているようであった。素敵、とユージェニーは呟いた。

「素敵ですね」

 ユージェニーの薄い桃色の唇が驚嘆を紡ぐ。いつか連れて行って下さいね。少女は柔らかに笑った。私は黙って窓の外に目を逸らした。  彼女が見ようと試みた青を、私もまた求めた。

「ユージェニー、私を愛しているか」
「ええ、お慕いしております」

 少年の私はユージェニーに問う。分かりきった答えをユージェニーは囁いた。幼い影が重なり、一つになる。えも知れぬ思いで私と彼女は 窓の外を眺めた。いつか共に、果て無き青へ。同じ方角へふたりは視線を向かわせる。いつか、いつか共に。

 ああ、美しいユージェニー。そんな日が訪れる筈もないことを、私も君も知っていたのだ。






 白磁の階段を昇る。幾度も繰り返したその行為を足はよくよく覚えていて、淀みなく我が身を階上に運ぶ。長い階段の途中にいくつか設け られた石窓は日光を程好く迎え入れ、塔内に柔らかな光の恩恵を与えている。
 彼女の元へ赴くのに、手土産は欠かせない。それは彼女を訪れること自体と同様に、既に習慣化した行為であった。私の手には控えめな 装飾が施されたブーケが握られている。瑞々しく青い花弁は、きっと孤塔の彼女の心を慰めるだろう。
 最上階に彼女の住まいがある。壁と同色の白い扉を開いて、すぐに彼女を見つける。背を向けた彼女。白に囲まれた孤塔の中で、彼女だけ が色を持っていた。

「ユージェニー」

 私の声にユージェニー・セシルは振り向いて、花のように笑う。

「クリムゾンさま」

 彼女の声。変わらぬ彼女の声。ユージェニーは今やここを訪問する唯一の旧知と言ってもよい私の名を朗らかに呼ぶと、すぐに私に背を 向けてしまった。私が入室した際と同じ格好である。私は気を損ねることもなく彼女の元に足を進めた。彼女は振り返らない。
 ユージェニーはずっと机に向かっている。必死に、と形容するには懸命さにかける。しかし所在無さげに、と言えば誤りであり、目的を 持って彼女の指先は動いている。確固たる目的を持って、ユージェニーは机上の箱の中の白い砂を弄くっている。
 ユージェニーの手元の白い砂は、ユージェニーに望まれて私が取り寄せたものだ。
 パダミヤ大陸の浜辺で採取されたそれは、僅かに火山灰を含んでおり、彼女の孤塔の白にぴったりと合った。彼女も気に入っている ようだ。来る日も来る日も彼女は砂を掻き集め、撒き、引き寄せて、散らしている。彼女は私には分からないなにものかを形作り、私には 分からないままに崩してまた形作る。それがなにものかの形を成しているのかさえ私は分からない。

「ユージェニー」

 彼女は私の声に反応して、顔を上げる。「はい、クリムゾンさま」その表情は安楽そのもので、変わりない彼女の笑顔に、私はやっと彼女 を取り戻したのだと繰り返し実感する。
 私が青い花弁のブーケを彼女に差し出すと、ユージェニーは「まあ、素敵ですね」と少女時代と変わらぬ様子で花を愛でる。

「花瓶に生けておこう。悪くなってはいけないから」

 ええ、とユージェニーは容易くそれを手放した。彼女の手からブーケを受け取って、私はあらかじめ備え付けの花瓶に花を生ける。庭師に 特別に探させた青い花弁を眺めて、バチカルの海の青さを想起すると同時に、一人の男に思い当たる。

「そういえば、」

 ユージェニーはぴくり、と手を止める。直後、何事もなかったかのように手を進める。花瓶に花を挿してしまってから、私はユージェニー に歩み寄った。美しいユージェニー。私の元へ帰ってきた、美しいユージェニー。

「ガルディオス伯爵は、このような色の瞳をしていたな」

 ユージェニーは作業を止めない。私は再び実感する。これは私のユージェニーだった。孤塔に閉じ込められた愛すべき少女だった。

 ジグムント・バザン・ガルディオスを葬ったのち、私はユージェニーと再会した。大儀を任され敵国に嫁ぎながらも、祖国を裏切った彼女 の処分は私に任されていた。しかし私は彼女を目前にして、刃を振るえなかった。後続の我が騎士団たちに捕らえられ、本国に連行された 彼女は、王の御前で夫であった男の首と対面した。祖国を裏切りながらも、それまでの敵国におけるキムラスカ貴族たる夫人としての働き は認められるとして、処刑を免れ、幼少時代を過ごしたこの孤塔へ戻された。
 敵国で刃を向けられてから、本国の孤塔に戻されるまで、か弱い筈の彼女は一度たりとも涙を流さなかった。

 ガラス張りの箱の中で、ユージェニーは白い砂を撫でている。
 砂の中に他の色彩は無く、ユージェニーの肌色の指先が箱庭の中の世界を白で彩ってみせる。
 彼女の箱庭の中には、彼女がかつて渇望した青はない。
 ユージェニーは静穏を保ったまま、白い砂を手繰る。彼女は私の知る少女である。儚げな少女である。彼女は私を慕っている。私と違う 男と海の青を、それ以外の色をしった彼女はいまだ、私を愛し続けている。
 ユージェニー、覚えているか。私と君はここで出会ったね。私と君はここで、いつか共に海へ行こうと誓い合ったね。

「ユージェニー、私を愛しているか」
「ええ、お慕いしております」

 ユージェニーは笑う。少女のようなユージェニー。美しいユージェニー。






「本当の君は、ここにはいないよ…」





ブルーフィールド

09/06/22