自分はこの世界にとって異物なのだと思っていた。





 初めて彼の気配を感じたのは、生まれて間もない頃だ。彼、と形容するのは正確ではないかもしれない。ともかく『彼』は、俺の目も 開かぬ内から俺に接触していた。母でもなく、父でもなく、それ以外の人間でもなく、温度のない接触。揺り篭かなにかの中の俺を彼は 抱いた。彼には不思議な懐かしさがあった。確かに彼は俺に存在を伝えていて、俺は彼を感じていた。
 三歳を迎えたばかりの頃だっただろうか。居間で読書を終えて、幼児には少しばかり重い図鑑を抱えて自室に戻る途中のことだった。 中庭に見覚えのない人影があった。目を見張るような緑髪だった。新しい使用人だろうか、そう思ったが、何故だか違うようにも思えた。 のちに気付いたことだが、俺は赤ん坊の頃感じた彼の気配を朧気に覚えていたのだろう。警戒心を持つことなく、中庭の花壇の前で立つ彼に近づ いた。彼との距離が近づくと、より鮮明に彼の姿を捉えられた。男とも女ともつかぬ容姿、明確に「そこにいる」と断言できないような 不確かさがあった。「おい、」声をかけて俺の存在に気付かせる。すると、彼は振り返り俺を捉えた。髪と同色の瞳。彼は少し動揺したよう に見えた。「私が、見えるのかい」彼の声は揺れず、淡々とした旋律のように鼓膜を揺らした。途端、彼の姿は掻き消えた。バチカルで 迎えた春のことだった。





「君はまた一人で痛みを抱え込むのだね」

 ぱち、と火の粉が踊る。眼前の火の向こうに彼が佇んでいる。ひとりの夜営も随分と慣れた、防寒のマントに包まって一人息をつく。 いつ狙われても構わぬよう剣は抱えたまま、体勢は整えたまま。緑の髪と緑の瞳、彼は気まぐれに現れた。本体が囚われている今、目の前 の彼からは碌な話も聞き出せない。口を閉ざしたままでいると、彼はそのまま言葉を続けた。

「君は強がりだ。本当は手を差し伸べて欲しいくせにね」
「五月蝿ぇ。音素風情は黙っていろ」
「それは君も同じことだよ。だから私は君に語りかける。私たちは同じものだからね」

 目を伏せたまま舌打ちする。「人間は嫌いだ」彼は機嫌を損ねる風もなく、淡々と、綽々と言葉を紡ぐ。俺を哀れむくせにいつも小波一つ 立てない。彼の音色は昔から変わることなく、一つの旋律のようだ。彼の音に乗せるように口を開く。

「お前の願いは叶えてやる」

 彼の表情は動かない。彼は救いを求めていた。誰でもない俺と、そして俺と同じ存在にだ。帰りたいのだと彼は言った。 だから俺たちに助力を願った。彼は人間を嫌っているから。同じ存在の俺たちに語りかけたのだ。
 彼は昔から変わらなかった。俺の目も開かぬ頃から、彼の気配は同じだった。変化がないのだ。それは哀れなことに思えた。人間ではない 彼が、この世で最も哀れな生き物に思えた。
 そして、彼と俺は同じ生き物だと気付く。彼は火の向こうで変わらず佇んでいた。





 気配。彼の気配がする。どこかで彼を感じている。常緑の光。不思議な憧憬を感じていた。いつも彼の気配とともに感じる感情だった。 すべて、失ったのに、彼に抱かれていると感じた。

 ああ、ローレライ。俺は満足だ。未来なんてもういらないから、お前も帰りたい場所へ帰れ。

 彼は俺を抱いていた。生き物でない彼に、何故か温度が感じられた。俺はおそらく変わることができたから、彼も少し変わることができ たのかもしれない。徐々に感覚が戻ってくる。俺は、目を開けた。温度。頭上で見覚えのある顔がある。レプリカ。間抜けな顔を、しているな。


エ バ ー グ リ ー ン

09/07/21