「お父さま、お帰りなさい!」
「ただいま、ユリアナ。いい子にしていたかい?」
「うん!見てくださいお父さま、私お父さまがいない間も、ちゃんと先生の言うことを聞いて、勉強していたのよ。ちゃんとお父さま言いつけを守ったの」
「そうかい、そうかい。ユリアナは偉い子だね。父さまの自慢の娘だ」
1週間ぶりにホドに帰った父に、姉は見開き一杯に古代イスパニア語を書き溜めたノートを差し出した。あらかじめ引かれたラインに沿って、姉の字は線上に規則正しく整列して、簡潔
な文を作っている。それを見て父は、自分と同じ色をした姉の髪を、愛おしげに撫でてやった。姉は心から晴れやかな表情でそれを受ける。
私は、ふたりから少し離れた場所から、それを眺めている。手の中には、インクで所々汚れてくしゃくしゃになった紙束がある。父が留守の間、夜中まで机に向かって書きつめた紙束
だった。父の名前と、母の名前とを、繰り返し繰り返し練習した紙切れだった。
「ちちうえ、わたしは、」
父は、私が両手を使って抱えるそれにちらと眼をやって、目を細めた。アイスブルーの色が、私をとらえる。背中のあたりがちりちりと、焦げ付くような気がした。
「…ジグムント。君も、よくやったね」
父はそれだけ口にして、視線を姉に戻した。姉は父が留守の間のことを伝えようと忙しなく口を動かす。ペールギュントが稽古をつけてくれたこと、今朝マティ姉さんが妹からの手紙
を受け取って喜んでいたこと、昨日の夕食が姉の好きなミートパイだったこと。父が笑うと、姉も笑う。でも私は、笑えなかった。
「ジグ!」
誰かが呼んでいるのに気付いて、ぱちりと目を開ける。誰か、何て言っても、声の主は分かっていた。私は身体を起こして、声のした方に目をやる。がさがさと、背の短い林を掻き分け
てやってきたのは、やっぱり予想した通りの人だった。
「ベル、どうしてここが分かったの?」
「ベルって言うな、女の子みたいだろ。お前のいるところくらい、分かるよ」
ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデは、あたりまえのことだとでも言うように呆れた様子で肩をすくめて、私の隣に腰を下ろした。両足を前に投げ出して、ヴェルフェディリオは
さわさわと鳴るくさはらに手をついて自分の身体を支えた。
「しっかしお前、大した奴だよな。お前が屋敷から抜け出すたび、思うけどさ。よくもまあ、毎回毎回、こんな見晴らしのいい場所を見つけるよな」
「見つけたわけじゃない、ただ、ここに着いただけで」
「そうなのか?じゃあ、一種の才能だよ、それ。ホドのいいところを見つけられる、さあ」
お前は本当に、ホドがすきだよな。
膝を抱えて、言葉少なな私に、ヴェルフェディリオは言った。「また、ジークさまと何かあったのか?」私は口を噤む。ヴェルフェディリオは、重ねて聞こうとはせず、私の視線の
向かう先と同じものを見ていた。
ここからは、ホドの海に沈む太陽がよく見える。赤い赤い太陽が、水平線の向こうに去って行きながら、ホドに黄昏をもたらす。私も、ヴェルフェディリオも、ホドも、海面から反射
した光を受けて、やわらかなオレンジに染まる。私とヴェルフェディリオは、目を細めて海の向こうを眺めていた。もうすぐ別れを告げる太陽から、きらきらと、眩しい光が、ホドの海
に輝いていた。
「マティ、私おばあさまみたいになりたいの。私のおばあさまは、女性だったけど、ガルディオスの名の元にホドを守ったわ。私もそうなりたい、私の手でホドを守りたいの」
「でも、マルクトで家名を継げるのは男性だけなのよ、ユリアナ?」
「分かってる、分かってるわ。私は女だから、いつか結婚して、ホドを出なきゃならないって。でも、私、ホドが好きなの。ホドを出たくないの、離れたくないの!」
「ユリアナ…」
「私、男の子だったら良かったのに
そうじゃなかったら、」
「わたしは、いないほうがいいのかもしれない」
ヴェルフェディリオは、眉間のあたりを歪めて、私の方に顔を向けた。それは、と言い淀んで、何を言うべきか分からずにか、唇を引き結ぶ。ヴェルフェディリオが言えなくても、
私にとって、自分の口から出たその言葉は、尤もなことかもしれないとぼんやり思った。もし私がいなければ、姉はホドを去ることなく、ガルディオスを捨てないままに、好きな人と
一緒になることができるだろう。もし、私がいなければ。もし、私がいなければ。「ちちうえも、ははうえも、だい嫌いなわたしじゃなくて、あねうえだけをちゃんと、可愛がることが
できた、のに」。唇から、ひとつずつひとつずつ吐き出すような言葉の羅列が零れるのを、ヴェルフェディリオの青い瞳がじっと見ている。
「俺には、父さんも母さんもいないから、よく分かんないけどさ」ヴェルフェディリオの言葉に、私ははっといつの間にか膝の間に埋めていた顔を上げて、隣に座るヴェルフェディリオ
を見る。また間違った、と思った。私には、恋しく思って泣いてしまう父上と母上がいても、ヴェルフェディリオには、いないのだ。
私は「ベル、ごめん、」と震える声で謝罪する。ヴェルフェディリオは、大層驚いた様子で、「謝らなくたって、いいって!」と両手を顔の前にやって、大したことではないとでも言う
ようにぱたぱたとはためかせた。それでも、肩が縮こまって、元から小柄な体を一層小さくしてしまう。ヴェルフェディリオは、呆れた様子で、いいんだよ、と私の頭に手をやった。同い
年だというのに、と何だか可笑しくなって、口元がすこしだけ、笑みの形を作った。
そうだ、とヴェルフェディリオ。「これ、やるよ」とポケットから取り出したのは、小ぶりなリンゴだった。夕日を受けて、光をよく反射するそれは、一層きれいに見えた。
「…これ、は」
「農家のアンさんが、お前にってさ」
「わたしに?」
「そ。お前さあ、泣きべそかいてばっかだから、周りがちゃんと見えてないんじゃないか?島のみんな、お前のこと、心配してるんだぞ。ジグさまが元気ないって、はやく元気出してくれ
たらいいなって。
…あのな、ジグ。いないほうがいいって思うような奴に、そんなこと思うか?」
ヴェルフェディリオは、ぐしゃっと、私の黒髪を掻き撫でる。父上よりも小さな、やさしい、手だった。
「お前って、お前が自分で思ってるよりもずっと、愛されてるんだぜ?」
ほら、だからさっさとそれ食べて、元気出せよ。ヴェルフェディリオは笑う。私は、手の中の赤い果実に、齧りついた。ぼろりと、涙が零れる。お前、また泣きべそかいてるじゃんか
と、ヴェルフェディリオは笑い声を上げた。私も釣られて、一緒に笑っていた。…ああ、ありがとうと言うのを忘れていたな。
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