「アンジェさん」

 

  誰かがあたしを呼んでいる。けど瞼はどうしても開かなかった。今何時だと思ってんの。こんな時間に女の子の寝室に忍び込むってのはどういう神経だ。まあ女の子って歳でもないけど、それはどうでもいい、とにかく脳みそはまだ完全に寝てるんだから何も考えたくない、誰だか知らないがもう寝かせて欲しい。明日に響くし。

 

「アーンジェさん!」

 

  うーんと唸ってずれた毛布を引き寄せると、もう一回。さっきより抑揚と強弱をつけた、歌のような響きで呼ばれた名前を聞いて、はたと気付く。これは聞き覚えのある声じゃなかったっけ、それもとてもとても身近な、とてもとても懐かしい。
 がばっと効果音がつきそうなくらいな勢いで飛び起きる。肌寒いと思ったら、窓が開いていた。ひゅるりとカーテンが外向きにたなびいていて、そこの窓枠に声の主が腰かけていた。

 

 

 

「こんばんは、アンジェさん!」  

 

 

 

どう見ても、ジョカだった。

  しかも、ご丁寧に背中に4枚羽をつけて。

 

 「い…いやいやいやいやいや、何であんたがここに居んの?しかもこんな夜中に、それに背中に羽生えてるし?第一あんた1年前に死んだじゃない!?」  

 

まどろむ頭が一気に冴えて、動揺のままにあれこれわめく。隣でハルやおとーさんも寝てるって言うのに何してるんだあたし。今が何時だと思ってんだ、そりゃあたしだってそうじゃないか!でもそこまで気が回らなかった、何たって死んだ息子が目の前にいたんだ。
  「それはですねー、」  あたしが喚いた言葉に、ジョカはたった一言で答えた。 「おれが天使だからっスよ!」  なんだそりゃ。天使だからって生き返って戻ってきたのか。羽まで生やして。あんたは音素になるとかなんとか言って結局天使になったのか。そりゃ最高だ。さすがあたしの息子だ、このバカ息子。泣けるくらいに笑える。
 
 変に納得したあたしを見て、ジョカはレプリカだったころとおんなじに、とびきり顔をくしゃっと歪めて笑った。 「ふふ、アンジェさん。おれに会えてウレシイっスか?」 当たり前じゃないか、親不孝者。あたしより先に死にやがって。泣きゃあいいのか笑えばいいのか分かりゃしない。
 目の前で笑ってるジョカはあたしの知ってるジョカだ。20年、あたしが14のときから育てた息子だ。星明かりに透ける銀色の髪も、蒼より淡い色の目も、なんにも変わらない。はじめて出会ったときからなんにも変わらないそれが、死んでからもそうだなんて、夢みたいだ。いや、夢なのかもしれないな。いっこだけ違うのは背中に生えた4対の羽、あたしの息子にしてはちょいと豪華すぎるんじゃあないか。窓の外まで伸びたそれの先っぽで、きらきら光った粒子が零れている。星屑みたいだ。

 「さて、アンジェさん!今日は天使のおれがアンジェさんを夜空のランデヴーにお連れしますよ!」はあ、ランデヴー?そんなどっかの不孝者が言いそうな台詞を。ジョカの意図するところが分からず、首を傾げたあたしの手をジョカがすっと手に取る。「さあ、早く行かなきゃ。夜は短し、飛べよ乙女!」アアあんたって子は、誘う言葉ひとつとったって芝居がかってるんだから。ジョカが導くのに従って、腰のあたりに手を回す。ジョカの身体はまるごと羽根であるみたいな感触がした。天使ってこんな感じなんだな。  そんなことを考えている間に、あたしの身体は宙に浮いていた。窓枠をこえて、重力とさよならする。

 

 

 

 「しっかり掴まってて下さい、じゃないと振り落としちゃいますよっ!」

 

 

 

びゅんっ!と音を立てて、あたしとジョカは飛び立った。4対の羽がばさばさ動いている。信じられない。あたしは飛んでいた。飛んでいた!空気のカベみたいなものを、ないものみたいに次々に突き破る。ほっぺたを打つ圧力さえも心地よい。ジョカのやつの表情は見えなかった。でもきっと笑ってるんだろうと思った。だって、ひとが鳥になるこの感覚のわくわくったら、たまらない!
 光の粒子を撒き散らして、ジョカが羽ばたく。夜空に星をばら撒くみたいに。ふっと湧いた考えだったけど、それが本当ならすてきだと思った。オールドラントの夜空に輝くすべての星が、天使の羽がばら撒いた光だったら。それだったらバチカルみたいな都会じゃ星が満足に見えないのだって説明がいく、だって天使だって都会の工場の煙で羽を汚したくないだろうし。反対に工場なんてないロレーヌみたいな田舎町じゃあ天使も喜んで飛びまわって、星を落としていくんだ。そんなばかばかしいことが本当に思えるくらいに、すてきな心地だった。
 「見てください、下!ダアトが見えますよ!」ジョカの言うとおり、下を見ると、遠くにダアトの町の明かりが見えた。おとーさんの教会はどこだろう?ラグがエンドリナさんと一緒に住んでる寮の部屋は?お姉ちゃんの新居は?夜遅いせいもあって、明かりは少なかったけど、そのひとつひとつに物語がある。数でなんか表しきれない、ただの数にしちゃいけない、それこそ星の数くらいの生。それがあの輝きなんだ、あのひとつひとつが、ジョカの愛し続けたものなんだ。

ジョカとあたしは、大聖堂の先っぽのところに止まって、ふわりと腰を下ろした。きっとここが、ダアトで一番高いところだ。  へへっとジョカは笑って鼻をこすった。昔から、ジョカは褒めてほしいときそうしていた。「どうですか、アンジェさん。どんな気持ちですか」。

 

「すてきだった…とても。信じられないくらい」
「そっスか。よかったっスよ」

 

小さく羽ばたく翼の先から、星屑が零れていく。隣にいるのはジョカ、生きてたころとおんなじジョカ。息をするように愛しているとささやくジョカ。あたしの息子。
  きっとこれが、ジョカの望んだ姿なんだと思った。ジョカの望みは世界の中の音で溶けることだった。そして、うたい続けることだった。生きるために、死に至るために、愛するために、そして生きろとこの子に願った子たちのために。今のジョカは、しあわせそうだった。横顔がそう言っていた。ジョカは20になって死んで、それから天使になってずっと空で羽ばたいてる。星をばらばらばら撒いて。

そんで、あんたは笑ってるんだ。

幸せそうに。

 

 

 

 「アンジェさん、  おれのこと、好きでした?」

 

 

 

 あたしはもう、ジョカの顔を見れなかった。だって、ママが泣き虫なところなんて見せたくなかった。

 

「…当ッたり前でしょうが、この、バカ息子ぉ…」

 

ああダメだダメだ、涙なんてあの時流し尽くしたと思ってたのに、あんたが死んだあのときに。あんたのせいなんだからね、ジョカ。わすれてください、なんて言って、忘れられるハズがないじゃないの。だって、だって、こんなに、好きだった。

 

隣のジョカが羽ばたいて、ダアトのてっぺんの先っぽを蹴る。あたしの前までやってきて宙に浮かぶ。「アンジェさん」。あたしは顔を上げる。

天使のようなジョカ。天使になったジョカ。

目一杯幸せに生きたジョカフェリテ。

 

 

 

 

 

「おれも、大好きでしたよ。  おれのお母さん。おれのえいえんの、恋人」

 

 

 

 

 

ジョカはすっと、音も立てずにあたしから離れていった。4対の翼を羽ばたかせる。ジョカ。あたしは呼ぶ。ジョカ!ジョカは笑う。くしゃっと顔を歪めて笑う。幸せそうに、笑う。祝福のように、天使の羽が世界に降ってくる。天使の振りまく光が世界を照らす。

そして世界が祝福の光に満ちる。  

 

 

 

 

 

 

窓の向こうでチュンチュンが鳴いている。だいぶ寝過ごしてしまったようで、もう日が昇りかけていた。今日休みでよかった。毛布を肩のところまで寄せ上げて、あわよくば二度寝しちゃおうかとうとうとし始めたころ、ドアが開いた。

 

「おい、いい加減起きろよ。さっきからおまえに会わせろって客がうるせぇんだよ。あいつ、ナナとか言ったっけ?夢がなんだの、天使がなんだのと言ってたが」

 

ふわ、と、瞼に触れたものがあった。目を開く。それが何か分かって、飛び起きる。指先に掴んだそれ。

真っ白い羽根だ。

 

 

 

 「おいっ、せめて着替えろよアンジェ!」と咎めるハルの声を聞こえないふりをして、部屋を飛び出す。舌打ちをひとつして追いかけてくるハル。そして、教会堂にいるんだろうその人に、伝えなきゃいけないことがあるんだ。

 

 

 

「ハルっ!ナナくんっ!あのね!!」

 

 

 

それは何かって?天使のお告げってやつ!

 

 

 

 

 

 

「そうそう、アンジェさん!今、アンジェさんのお腹の中にきゃわいい双子ちゃんがスタンバイしてるんで、お体大切に、っス!」

 

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10/12/15