「ヴェリオさま、わたし、とってもしあわせです」
セクエンツィア・アドニス・カンタビレ=ダアト改めセクエンツィア・アドニス・フェンデは微笑んだ。彼女の主であり、夫にもなったひとは傍らで照れたように彼女の手をきゅっと
握る。かわいいひとだなあとセクエンツィアは改めて思った。
ホドは花婿と花嫁を祝福して華やいだ。ガルディオス、ナイマッハに続き、ホドを代表する三家の最後のひとつの婚礼の日である。元より賑やかなことが大好きなホドの住民たちは、
飲めや歌えやの大騒ぎだ。領主ジグムントなどは、感極まったかぐすりと鼻をすすっていたりして…奥方が手ぬぐいを夫の顔に当ててやるさまである。
そんなざわめきから少し離れたところに、ひとりの男が立っていた。上から下まで白ずくめの男である。彼は花嫁の兄、レクエラートであった。セクエンツィアは彼の姿に気付くと、
「兄さま!」と、ブーケを持つ左手を振った。レクエラートは軽く手を上げて、それに応える。そのとき、兄が口を開いた。兄は、顔の右側についた大きな傷を歪めて、笑った。
「しあわせにおなりなさい」
兄の唇がそう、動いたのを、セクエンツィアは見た。
自分の幸せが、だれかの幸せを奪って手に入れたものだと知りました。
兄さまの手から離れて姉さまの手から離れてやってきたホドは、楽園のような場所でした。カンタビレのお屋敷から一度も出たことがなかったわたしにとって、生まれ故郷のフェレス
よりホドのほうがよっぽど身近なものになりました。兄さまや姉さまがいないのは寂しかったけど、その代わりホドにはヴェリオさまがいて、ジグさまがいて、ユーがいました。だから
わたしは孤独を感じたことなんてありませんでした。
ヴェリオさまがわたしを妻に選んでくれたとき、わたしは世界でいちばん幸せな女の子になったんだと思いました。姉さまがくれた母さまのドレスを着て、ヴェリオさまのお嫁さんに
なれるわたしは、なんて幸せなんだろうと思いました。
けれどわたしの代わりに、兄さまと姉さまは、幸せになれなくなってしまいました。
もしわたしがヴェリオさまに選ばれずにいたら、わたしが兄さまのお嫁さんになっていたのかもしれません。それでも構わないと思うのです。もしそうだったら、姉さまが死んでしまう
ことはなかったでしょう。
私のせいでした。
私のせいで、姉さまが死んでしまいました。
それだけではありません。私がひとりにしてしまった兄さまを助けるために、マトリカリアさまはホドを去ったのですから。私は、兄さまと姉さまの幸せを奪っただけでなく、アルス
さまの、エルドルラルトとメルトレムの幸せを、奪ってしまったのです。
すべてを知ったのは、兄さまとマトリカリアさまのこどもが、わたしのこどものレヴァーテインとしてホドにやってきてからでした。
わたしは自分を責めました。お腹のなかの、もうひとりのわたしのこどもを弱らせてしまうくらいに、自分を責めました。
ヴェリオさまは、わたしのせいじゃないと言いました。「おまえのあにきは、レイは、おれにおまえを頼むと言ったんだ。おれに頭をさげて、そう言ったんだ」とヴェリオさまは言い
ました。
兄さまは、最初からぜんぶ知っていたのでしょうか?兄さまと姉さまが、望まないように結ばれることを、知っていたのでしょうか?それでもわたしに、しあわせにおなりなさいと、
言ったのでしょうか?
わたしは、しあわせになってよかったのでしょうか?
「母上、しなないでください、」
ヴァンデスデルカの声がきこえます。わたしはもうよく目がみえません。腕も足もうまく動きません。騎士としてはもう使いものにならないでしょう。わたしのただひとつの存在価値
だと教えられてきたものが失われたのに、あまり哀しくありませんでした。
とにかくもうわたしは、疲れてきっていたのです。今のわたしには、ベッドの上のわたしにすがりついているでしょうヴァンデスデルカと、ヴァンデスデルカの腕のなかにいる生まれた
ばかりの娘、メシュティアリカとがすべてでした。
「ははうえ、いやです、死なないでください。ははうえ…!」
ヴァンデスデルカが泣いています。だめよヴァンデスデルカ、あなたは泣かないで。あなたは幸せになっていいのに。幸せにならなきゃいけないのに。
ねえおかあさんはあなたのおかあさんらしくできましたか?もう言葉もでません。口の中がからからで、喉の奥はひりひりして、胸がとても苦しいです。涙だけは出てきます。涙の流れ
て行ったところがぴりぴりしてちょっと痛いです。
もうきっと、多くを語ることはできないでしょう。いいえ、一言だって伝えられるかどうか。わたしはこどもたちに、伝えなければいけないことを探しました。何か言わなくちゃと考え
るのですが、頭の中がからっぽになって、白く染まっていくように、言葉が浮かびません。
「ははうえ、わたしと、ティアを、置いていかれるのですか」
ヴァンデスデルカが泣いていています。
わたしは、ぐっと、ヴァンが握ってくれている右手に、今までで一番力を込めました。動いたのは少しだけでした。それでもわたしの子はちゃんと気付いてくれて、握り返してくれま
した。
なかないで。
そう言ったつもりなのですが、音にはなりませんでした。唇が動いたのを、ヴァンデスデルカは見ていてくれたでしょうか。
しあわせにおなりなさいと言いました。わたしの兄さまと姉さまは、命をかけてわたしをカンタビレという檻から出してくれました。檻から出たわたしから生まれたあなたたち。わたしはほんとうは、檻から出られても、ずっと鎖に繋がれたままだったのだけれど。
あなたたちはいいの。過去なんて捨てていいの。忘れていいの。わたしの屍をふみこえて行って。わたしの届かないところに。
しあわせになれてよかった、と思うのです。
だから、あなたたちと出会えたのだから。
「いってらっしゃい」
そしてどうか、しあわせにおなりなさい。
セクエンツィア・アドニス・フェンデは息子の手の温度を感じながら目を閉じた。
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