「その子」と出会ったのは、夜と朝のあいだにある静かな宵闇の中だった。わたしは昼間ちょっと横になっていたせいかよく眠れなくて、わたしの隣でやすらかな寝息を立てている
ひとを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
月明かりだけが照らす薄暗い寝室を出て、階段を下り、台所に向かう。いくら眠れないって言ったって、夜更かしはお腹の子によくないとは分かっていたので、ココアか何か、温かい
ものを飲んでもう一度床に入ろうと思っていた。鍋に注いだミルクを温めている間に、食器棚を開ける。お義父さん、お義母さん、義妹、夫の、それぞれのカップが並んでいる向こうに、
わたしのそれを見つけて、手に取った。粉末状のココアをスプーン二、三杯カップに移すころには、ミルクは十分温まっている。両手で鍋の取っ手を持って、コップに注ぐと、底に行き
着いたミルクがココアの粉末と出会って、一緒に跳ね返る。さっき使ったスプーンを使って、焦げ茶と白入り混じったカップの中身をかき混ぜると、ホットココアの出来上がり。
唇をカップの縁に寄せると、あちっと一人でリアクション。一口だけ口に含むと、しあわせの味が広がった。甘くてほんのちょっとほろ苦い味は、この家にやってくるずっと前から好き
な味。いや、少しだけ、変わった。少女の頃愛したとろけるような甘さを、好んで口にすることは少なくなった気がする。大人になるのってこういうことなのかもしれないわねと、自分
のお腹を軽く押さえた。
湯気が立ちのぼるカップを手に、台所を出る。残りは寝室で飲もうとふと、思い立ったからだった。あの人を起こさないようにしなくちゃと、静かにドアを開けると、ふわ、と夜風が私の頬
を撫でていく。やだわ、窓開けっ放しにしていたっけ…びっくりして閉じた瞼を開けると、確かに窓は開いていた。夜の色のカーテンが、ふわり、ふわり、と舞っている。その隙間から、
窓の外にある小さなバルコニーが見えた。
そこに、
そこに、その子は立っていた。
茶色の、短い髪が風の気まぐれのままに揺れている。少年のかたちをしたその子は、宝石のような緑をふたつ嵌めこんだような目をしていた。
今思うと、どうして自分の寝室のバルコニーに立つ見知らぬ子どもをそんなに冷静に観察できたかわからない。ただ、その時のわたしは、その子がまるで人形のようだと頭のどこかで
考えていた。顔立ちはつくりもののように整っていて、手足はすうと夜の中で白く伸びている。それこそ人形に相応しい、硬質なエメラルドの瞳は、逆光になった月明かりに翳されること
なく、緑色に光っている。
人形のような、手足。
人形のような、目。
そして、
その姿は、わたしが一番好きな人と、とてもよく似ていた。
「…フーガ…?」
じゃ、ない。
わたしが呟いたその言葉に、その子は笑みを作った。
「そう。君にとっての俺は、そう呼ばれているんだね」
わたしの夫、フーガに似ているその子は、前に見せてもらった昔の写真の中の彼と同じくらいの歳ごろに見えた。フーガが十二、三の頃、副官のトレス、わたしの同僚のポールやネリネ
さんと一緒に映っている、今とは違う師団で働いていたころの写真だ。フーガが執務室の引き出しの中に大事にしまっていたそれの中のフーガは、しかし今バルコニーに立つその子と違っ
ていた。
「あなたは、だれ?」
「俺?俺は、フーガだよ」
「…違う、あなたはフーガじゃない」
「君にとっては、フーガさ。他の誰かにとっては、そうじゃないかも知れないけどね」
子どもの口にした言葉に、私は戸惑う。
「他の、誰かにとっては?」
「そう。君にとっての俺は、フーガだ。だけど、他の誰かにとってはそうじゃない。ここじゃないどこかにいる俺は、フーガじゃなくて、違う俺なんだよ。で、その全部が俺であって、
俺じゃない」
だから、
好きな名前で呼べばいい、とその子は言った。
バルコニーに立つその子は、フーガであって、フーガでないという。わたしの知っているフーガはフーガだけど、わたしの知らないフーガだっているってことだろうか。わたし
の知らない、フーガ。それは、名前の違う誰か?それとも、名前は同じでも、わたしのフーガじゃない、フーガなのだろうか。
あなたがわたしのフーガでなくて、誰かのフーガでもないのなら。それなら、
「あなたは、星ね。」
唇から漏れたのは、そんな言葉だった。意識する間もなく流れていった言葉は、ある意味真実かもしれない。夜空に光る星ひとつとったって、わたしの見る星と、ほかの誰かが見る星
が同じことなんて有り得るだろうか。それを見る人によって、その光の強さだって、色だって、距離だって違うだろう。ひとつのちっぽけなそれを、ほかの仲間たちとどう繋ぎ合わせて
ひとつの形をつくるのかだって。
わたしが星だと呼んだその子は、最初に見せたのとは少し違うふうに笑った。
それは、わたしのフーガが満足げに笑みをみせる表情に似ていた。
「あなた、さみしくないの?」
「さみしくなんてないさ。君の俺には君がいるし、ほかの俺にだって、違う誰かがいてくれる」
だから俺は、さみしくないんだ。
子どもは両手を芝居がかった振舞いで大きく広げた。それでは、君の俺が愛する可愛いお嬢さん。そろそろ朝がやってくる。だから俺は行かなくちゃ、ともうすぐ夜が終わる空に向かっ
て謡った。
途端に、ばさばさ音を立てて、カーテンが踊る。鳥の羽ばたきのような強い風が吹いて、ワンピースがむちゃくちゃに広がるのを抑えながら、わたしは最後に言葉を投げた。
「さよなら!わたしのあなたでないあなたによろしく!」
子どもは、笑う。満足げに。耳を打つ風音の中で、子どもの声が聞こえた気がした。
「さよなら!君の俺によろしく!」
「…ヴェスタ?どうしたんだ、窓開けっ放しにして」
はっとして振り返ると、わたしの夫が少し身を起して寝ぼけ眼を擦っていた。わたしは何を見たのだろう、と何度か瞬きをしたところで、手の中のココアがすっかり冷えてしまったの
に気付く。わたしは、すっかり大人しくなったカーテンをよけて、開け放たれたままの窓をしめる。バルコニーには誰もいない。
「…ねぇ、フーガ。わたし、不思議なものを見たわ」
前あなたと見に行った劇に、ちょっと似ていたかしら。朝と夜の間で生まれて、時と世界とを旅する人形たちのお話と。…ええと、脚本者は、アロラン・ド・サン=ローランと言った
っけ。
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