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 「アリが死んだわ」
    暗闇に女の声が響く。ちっぽけなランプだけが唯一の光源であった。ゆらゆらと、不確かで、今にも消えてしまいそうに揺れるランプにぬっと枯れ枝のような指が伸びた。慣れた手つきでマッチを滑らせて、ランプに新しく火をくべた。浮き上がる人影が二つ。
 
 ひとつは、七十も過ぎたと見える老人。
 ひとつは、声の主たる妙齢の女。
 
 男はわずかな光をぼんやりと反射する女の金髪、久しい容貌を確認すると、がたん、と音を立てて机上の木箱を引き寄せる。老人を含めて古ぼけたガラクタばかりの空間で、その木箱だけは、世界の果てにも辿りつける箱舟のように頑丈で、堅固であった。わずかな埃ひとつ見当たらぬ様子に、この男は確かにかつて地獄を行きぬいたマイスターであるのだ、と女は思う。
 「聞いている」  『楽園』―――utopia、と呼ばれた地獄。女もまた、其処を生き抜いたものの一人。
 返答とともに、男は箱舟の屋根を取り除いた。
 木箱の中身は譜業技術を搭載したライフル。素人が簡単に手に入れられるような代物ではない。自分自身もスナイパーであった老マイスター手ずからカスタマイズした譜業銃だ。その精度、威力は、そこらに転がるガラクタの比ではない。
 かつて『運命を引く人差し指』と呼ばれた男の手は今だ、暗殺者の手をしていた。
 予想以上の出来だ。
 女は黒光りする砲身をつ、と撫でて、それから目にも止まらぬ速さで構えをとる。
   「流石ね」
      銃口は男の脳天に触れていた。衰えぬマイスターとしての腕と、ひやりとした金属と死の冷たさに瞬き一つもしない神経の両方に賞賛を述べる。
   「撃たねェのかい、」
      しゃがれ声の老爺の手は、今も抜けぬことはありえぬのだろう、アンティークといってもいいレベルの古ぼけたリボルバーに伸びることはなく、またその時でないことを知っていた。
     「死人を殺すことはできないわ」
      男の眼前まで突きつけたために、暗闇に紛れることなく臨んだ女の顔は、青白く笑った。速やかに降ろされたライフルが起こした風が、ランプの中身をゆらりと揺らす。そのゆらめきが、空間を歪める。世界を歪める。錯覚する。
 老爺は口を開いた。
     「クレイジー・トリガー、お前は何を殺しに行く?」
        我々はすでに死んでいると彼女は言った。それなら、なぜ今もなお現世に立ち続けているのだろうか?
 それは、18年前にあの楽園を生き残ったものたち全てが、己に突きつけた問いであった。
 今や男は年老いて、背中を折り曲げ、脳漿をぶちまけられることがないように首を低くしていることしかできない。
 女神は死んだ。
 また、女神に愛された少女も死んだ。
 女は何を望む?
 女は何を殺す?
 く、ふ、と女の口から吐息が漏れた。
   「何を、ですって?」
      それはやがて断続して、低い笑い声に変わる。
     「全てを」
      彼女はクレイジィに笑う。
           「私は死人。私は存在のなきもの。だから私は殺しに行く。私の生きた過去全てを」
              女の手から、一枚の写真が滑り落ちた。足元に滑り込んだそれを、老爺が手に取る。そこに映っていたのは―――
 Endrina
 世界の果てを凍り尽くした、白い獣だった。
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