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 ダアトの夜の訪れは早い。
 預言の導きを突如として奪われて2年が経過しようとしているが、今だ多くの信者らにとって聖地であるダアトを訪れた巡礼客は足早に宿に引っ込み、神託の盾の巡回兵以外に徘徊する影を見つけることは困難だ。
 夜は影無きものの時間。
 聖地といえど、法無き世界で生きるものどもが気紛れに顔を覗かせる刻である。
 エンドリナは真昼と変わらぬ調子で通りを歩く。
 暗闇を恐れぬ足取りは、心許ない夜の帳であろうと素知らぬ顔である。彼に静寂を纏わせたのは、その人並ならぬ容姿からであろうか。
 色素という言葉をどこかに落としてきた白い容貌、その中に2滴落とした血の雫―――まさしく血液の色を映した双眸も、2mを超える背丈も、一際人目を引くものであるが、気にかけて隠す素振りもなく、また他に気にかける者もいない。
 足を向ける先は、ローレライ教団が神託の騎士団員に提供する寮である。
 彼は其処に居を構えたばかりだった。無論、一人所帯だ。お前に自己管理も何もできるか。いくらか下品な暴言を伴って怒鳴りつけたのは数週間前まで宿主だった女である。大分、否、大分など高飛びしたレベルで不躾で乱暴な女の口から、自己管理、などという高尚な言葉を聞くとは思わなかったが、思えば女は存外誠実な面もあった。7年という長きに渡ってエンドリナを居候として住まわせてきたことからもそれが伺える。
 しかし、いつまでも彼女の好意に甘んじている訳にもいかない。
 彼女が最近伸ばし始めた、身を焼くような赤髪と同じ色をした街灯を眺める。
 ダアトの夜は深く、冥い。
 第五音素の恩恵に頼る音素灯に群れる蛾と同じく、彼もまた闇夜を徘徊する。
 いつの間にやら止めた足をようやく慣れた家路へと動かし始めたその時、
 
 
 
 
 
 「見ぃつけた」
 
 
 
 
 
 
 影がにやりと笑って、引き金に手をかける。
 
 
 
 
 「…死ねばいいのに」
 
 ブリアン・クイン・バロンはビニール袋をぶら下げて悪態を付いた。
 彼女が夜間出歩くことは珍しいことではない。例えば月明かりに誘われて、あるいは美丈夫の待つ窓辺へ。だが、「買い物する」ためだけに出掛けるのはそう多いことではない。同僚かつパートナーである少女を伴うなら別であるが。視力を欠いたかの少女にとって、暗闇は脅威とならず、また夜の静穏では唯一の頼りとなる耳を最大限に働かせることができるのだ。しかし、今ブリアンの手を堅く握る彼女はいない。ブリアンは買い物を終えてひとり夜道を歩いていた。
 ブリアンが軽やかにステップを踏めば、後ろ手に握った白い袋が幽玄に揺れ、新しく買った香水の中身がたぷんたぷんと音を立てる。
 彼女は香水をつけることを楽しむ。前はレモネード。今度はプリムローズだった。
 レモネードはいけない、彼女は飽き飽きした様子で嘆息する。鼻につん、とくるのが気にさわる。ご執心の女にでもやるものなら、手のひら型の刻印を頬にもらって別れを告げられても可笑しくない。少なくともブリアンならそうする。
 という旨をそれを買って寄越した少年、ジェリィ・ネフィルに包み隠さず伝えてやったところ、涙目になってじゃあ自分で買って来い、などというものだから、憎らしいあの男、ディーノがじゃあついでに私のコーヒーも買ってきて下さい、ああアラミス産のを、と言い出したのだ。結果、この外出である。
 ジェリィがお目当ての女に振られようと、ディーノがカフェイン切れを紛らわすべくいたいけな幼女をひっかけてこようと、彼女にとってさして興味のないことだが、ジェリィの負け惜しみももっともである。珠には、悪くない。
 ブリアンは満足していた。
 革靴とコンクリートとの反射音のリズムにあわせてビニールを揺らす。値段はレモネードより1桁多いが、悪いのはブリアンに任せた男どものせいとしておく。
 可憐なプリムローズの絵と金色の縁取り文字のブランド名が描かれた小瓶が、使いかけのレモネードの隣に悠然と立ち並ぶ様を想像する。領収書を見たときの、生意気な小僧のあっけにとられた表情と一緒にそれを夢想して、うっとりとした甘美に浸った。
 悪い女。
 
 
  ルージュを引いた唇が曲線を描く。機嫌が良かった。けれど、1週間もすれば、僅かに残ったプリムローズを気怠げに揺らして、次のを買ってきておいてと口にしているのだろうな、とも考えていた。
      と、ぷん。     ふいに、前後運動をやめた小瓶の中の液体が一際音を立てる。およそ5m、いや、訂正すれば、6、7mは離れているだろう。暗闇の中で、目測を見誤る程度には目立っている男が立っている。
 ブリアンはその男に見覚えがあった。
 とはいっても、交友関係をもつということがまれである彼女の数少ない友人、というわけではない。
 色彩、背格好はいくらか同僚、ハティにいくらか似ていたが、彼女より頭一つ分背が高い。また、髪質はあの子のように柔らかでなく堅そうだ。肩までにざっくりと揃えており、項が露わになっている。
 大方、やたらと大所帯の師団の同僚だろうとブリアンは推測する。
 何を考えているかは知らないが、いや、何も考えていないに違いない間抜けな面をした彼がこちらに気付く素振りはない。
        しかし、もう一つ彼が気付いていないことがあった。彼の存外細い首に引っ掛かっている認識票、無機質なそれが、街灯に群がる蛾どもでない何かを反射する。そうでなければブリアンも勘付くことはなかっただろう。
 方向、角度から『何か』の位置を推測。間もなく彼女は発見する。
 ―――高台から覗く不自然な影。
  見えるはずもないのに、影がにやりと笑った気がした。ブリアンは直感で叫ぶ。
       「退けっ!!」         直後、発砲音。白い男が、突如力が抜けたように地面によろけるのが見えた。
 撃たれたか―――。さあっと頭から血の気が引いていく自分に気付いて内心驚いたが、瞬時に白い男に向き直る。
 そこに鮮血はない…ブリアンの、そしておそらくは襲撃者の予想は外れていた。
 男の頭蓋骨の中身の代わりに飛び散ったのはいくつもの氷の欠片だった。顔の半分、おそらく銃弾が通過したであろう其処を、まるで仮面かなにかのように氷結させた男が、わずかに上半身を起こす。
   「死んだか!」「…死体は返事をしない」
    小憎たらしい切り返し。この男とは寝れない、とブリアンは思う。周囲に目を配る…が、あいにく身を隠せるようなものはない。あのばかでかい白い男の身なりでは隠せるものも隠せないやもしれないが。
 襲撃者は誤算に気付いたに違いない。その上で彼、もしくは彼女は、次に何の行動をとるか…即ち、撃つか退くか。狩猟者にとっての被狩猟者である彼らはそれを見極める必要がある。
 しかし白い男は―――エンドリナは、体の芯からちりちりと燃え上がるような感覚をもって感じたようだった。アレは、標的を逃しはしない。エンドリナを中心にして、ヒュウウと冷えた風が吹いてくる。冷気を圧縮するがごとく、ボキ、とい第一関節を渾身の力で折り曲げたのを、
       「急くな、猿」         制したのは女、小枝のような細指がエンドリナの手首を押さえる。
     「さっ…」「五月蝿い猿、この早漏。判れ」
    ブリアンは行儀の悪い口を閉じないままで、黒布の手袋を取り払う。小さく獰猛な唇で噛み取った左手に魔女王の印。
 エンドリナを手放して掲げた右手に魔女狩りの王の印。
   「撃たれるだけの豚になりたいか。お前は銃弾を弾いた…それだけ。アレを相手にするのなら、」
      王と女王が接吻を交わすとき、空気が爆ぜる。耳を閉じていろ、という最低限度の心遣いにエンドリナは否応無く従った。
   「元を叩く」         ―――豪!        「ブリアン」     目くらましにはなるだろう…計算、算出された白煙と爆音ばかりが立派な爆弾の中心で女は言い放つ。
     「クイン・バロン。追うわよ」
    それが彼女の名であるのに気付いて、白い男はこの女嫌いだ、と心中で吐き捨てつつエンドリナ、と呟いた。次の瞬間には、ふたり同時に地面を蹴っていた。
           ブリアンの歩みは速く、音は皆無だ。
 「爆弾」を仕掛けたときに放り出した白い買い物袋を惜しむ様子は見られない。がしゃん、と音を立てて天国かどこかに旅立った商品たちを哀れみつつ、エンドリナはそれを追う。「爆弾」の仕組みも、ブリアンと同じく他団員との交流が少ないエンドリナは彼女の素性さえ知らなかったが、襲撃者を突き止めるという目的は彼女と共有されている。お互いに口を開くこともなく、夜道を駆けた。
 彼女は既に襲撃者の位置を掴んでいる。巡礼者向けに置かれた宿屋、ベーカリー、雑貨屋の前を通り抜けた先で左折。一度教えただけでも記憶力に優れた相棒が難無く店の並びを覚えてしまうものだから、彼女もまた目に頼らずともそれを記憶していた。大通りを見渡す高台に襲撃者が潜んでいる。
 ブリアンが石造りの階段に足をかけたとき、歩幅の大きいエンドリナの肩がそれに追いついた。
 一つ石段に手をついて一気にステップを駆け上がる。
 其れを始めにとらえたのはエンドリナだった。
    金の髪と金の瞳。闇に混じり入る黒い痩躯。
 月光が照らし出した青白い顔で暗殺者は笑う。
    その反応は速かった。おそらくエンドリナの認識票と同じようなものだろう、黒一色の外套と共に翻る銀色の煌きに目を奪われる暇も無く、銃口がこちらを向く。
 嘘のように細い指先は狂乱の宴に踊りだすのを待っていた。
   「ブリア ン、」     気をつけろ、か、避けろ、か、続きに何を言おうとしたかは判らない。ただ、エンドリナは本能的に感じていた。この存在を、相手にしてはいけない。絶対に。だが、ブリアンは動かない。
    指先は止まらない。            「―――シャンドル?」
              ブリアンの金色の眼球が見開かれ、世界を捉える。漏れ出すように、ほんとうに、ふいに零れたようにして音になった言葉が何を意味するのか、エンドリナは知らない。
   「ブリアン!!」     崩れ落ちるからだと鮮血が現実を教えた。   |