「始まりましたね」

 

 

 

 宵闇を切り裂いた銃声を聞いて、女は言った。少女盛りだというのに黒い髪を短く刈り込んで、糊のきいたカラーのワイシャツに真新しい黒いスーツ。そのまま闇に紛れてしまいそうな、上から下まで漆黒を纏う若い女だった。
 彼女から数歩前に進んだところに、ひとりの少年が立っている。彼の方はというと、とりわけ目を引く金色の頭髪の持ち主であった。カールのきいたそれは、夜風に吹かれてふわりふわりと気紛れに揺れる。その顔立ちは少女より幼く、中性的だった。しかし少年の瞳には強い意志をもった光があった。大きく、楕円を描くビー玉のような青い瞳は、爛々と光って、ダアトの街並みを俯瞰していた。

 

「ああ。でも、既に手は打ってある」
「『彼』…ですか」
「そうだよ」

 

 少女の瞳に逡巡が覗く。彼はクスリと笑った。また、気付かれてしまったと少女は後悔する。彼はまだ幼かったが、少女の周りの大人よりはずっと聡かった。

「心配いらないよ。彼は必ず来る」

 

 彼は忘れていない。
 忘れてなどいない。
 だから、必ず僕に従う。

 

 『女神』の息子である僕に。

 

 

 

「さぁ、喜劇を始めよう。
 幕は銃声によって開かれた。
 獣どもは己がために世界の果てまでひた走り、死人と死人が喰らい合う」

 

 

 

 少年は高らかに宣言し、ダアトを包むかのように両手を広げた。野心を宿した瞳が全てを見下ろす。

 

 

 

「そして、僕は一人で高みに昇る」

 

 

 

 闇を引き連れて、彼が動きだす。

 

 

 

 


「でぇ、ウチまで連れて来たって?」

 

 3人は優に腰かけられる革張りのソファを一人で支配して、女は行儀悪く足を組んでいた。彼女こそはエンドリナの元・保護観察者、キアンティ・ニコル・イェルクシェック…いや、フォイエル姓に変わって間もない奥方であった。相変わらずの態度の尊大さである。その夫になった男といえば文句ひとつ言わずに壁に背を預けて立っている。恐ろしく美しい男だが、何とも気が知れない。
 襲撃者との一瞬の邂逅で、ブリアンが銃弾に倒れた。銃弾は額へ被弾し、動転したエンドリナは襲撃者に反撃する隙もなく彼女を連れて逃走したのである。スナイパーはエンドリナを追わなかった。相手の意図は不明だが、幸運だった。とにかくはやく治療をしなければ、と駆けこんだのが治癒師でもあるニコルのいるフォイエル邸だったのだ。
 ニコルに状況を説明するために十数分前の出来事を追想するにつれ、ふとエンドリナは自分が『動転していた』ことに気付いた。自分は彼女が、ブリアンが負傷したことに『動転して』、真夜中にも関わらずニコルを頼ってフォイエル邸の門戸を叩くほどに『焦っていた』のである。
 この俺が。
 表情筋が硬くなって動かなかった。言い知れぬ不安のような気持ちで、首から下げた認識票をギュッと握っていた。

 

 ノックが2つして、「トラディス医師をお連れしました」と初老の男の声が聞こえた。彫像のような男の口が「ご苦労」と動いて、ドアが開く。

 

 

 

「失礼するよ」

 

 

 

 現れたのはニコルがまだフォイエル姓になる前に、よくイェルクシェック家に出入りするようになっていた男だった。目が痛くなるピンクに染めた髪と、アシンメトリーなそれからわずかに覗く顔面の右側のケロイドが印象に残っていた。彼もエンドリナやニコル、その夫シュヴァイツと同じ第六師団に所属していた筈だった。ニコルだけは結婚を機に退団を決めていたが。

 

「夜中に出張させてごめん、ティーナ。あたしかフェーリクスが治せたらよかったんだけど」
「気にしないでいいよ、これが仕事だからね。フェリカは出張中だろう?それに、今の君の体は君だけのものじゃないものね。無理はさせられないよ」

 

 旧友に諭されて、ニコルは決まり悪くそっぽを向いた。ニコルは身重だった。彼女の治癒術は自分の体力を分け与える類のもので、デリケートな時期である彼女の体を酷使するよりは馴染みの医師に任せることが選ばれたのである。それもニコルの目利きでブリアンの負傷が一刻を争うものではないと確認されたからこそだ。
 医師トラディス、いや師団で呼ばれている名前に従えば医師エストは客室のベッドに横になったブリアンの負傷を診始めた。検診はすぐに終わった。エストは持参した医療パックからガーゼと包帯を取り出して、消毒した傷口に当てた。拍子抜けするくらいに治療は速やかに終了した。

 

「大丈夫。額を掠っただけだよ。少し血を流したみたいだけど、一晩安静にしていれば問題はない」

 

 そうか、とエンドリナは言って、認識票を握った右手からすっと力が抜けていくのを感じた。ずるずると体に沿って落ちていく手のひらはかすかに汗ばんでいた。
 エストはブリアンから視線を外して、エンドリナを見た。「彼は?」「その女を連れてきた」「そう、ブリアンを」エストは彼女を知っているようだった。エンドリナに視線を映して、エストは聞いた。

 

「彼女、ブリアンとは知り合い?」
「いや。居合わせただけだ」
「そう…か。彼女も、ジェリィやディーノ技師以外とは交流が少ないみたいだからね…」

 

 言い淀むエストに、少しだけ表情が動いた。不審を浮かべたエンドリナに、話題を変えようとエストは「そうだ」とさりげなくニコルに視線を送る。

 

「私にも、その襲撃者というののことを教えてくれるかい?」
「ああ…エンド、話せ」

 

 この女はまた命令口調で。足を組み替えたニコルに嘆息したくなるが、顎で「早くしろ」と急かされる。本当に、この女と古馴染みをやっているふたりの男どもの気が知れない。

 

「闇から現れたような奴だった。真っ黒い外套を纏っていて、恐ろしく腕の立つ狙撃手だった…髪も目も金色で」

 

 

 

 エンドリナは、あの一瞬を思い出す。瞳と瞳が出会った、瞬き一つ分の時間。
 引き金を踊り狂わせるのを待っている襲撃者の、唇を彩る真っ赤なルージュ。

 

「そう、あれは…女だった」

 

 

 

 しん、と客室に沈黙が落ちた。押し黙った3人の古馴染みの中で最初に口を開いたのはシュヴァイツだった。

 

「金髪金瞳の、漆黒の外套を纏った凄腕の女スナイパー、か」

 

 悪い冗談だ。そうシュヴァイツが言ったのは何を意図したことなのか、エンドリナには分からなかった。
 そして、ふとエストが「あっ」と声を上げた。「そういえば、」今思い出したという風に男は部屋を見回した。

 

「リコは、まだ来ていないの?」
「リコ?どうしてリコが来る?」
「えっ、兵舎を出たときに歩いているのを見たんだけど…てっきりあの子も異変を感じてここに来ているのかと思っていたんだよ」

 

 エンドリナは話が見えない。「待て、リコというのは誰のことだ?」答えたのはシュヴァイツだった。彼は淡々とこう言った。

 

 

 

「カンパネッラ・リコ。
 私たちの…『幼馴染』だ」

 

 

 

 


 ヒュウウと冷たい風が吹いている。バタバタと外套がはためいた。黒、その一色のみで構成されたそれは、月を遮って見えなくする。世界には闇しかなくなる。

 

「来てくれると思っていましたよ」

 

 少年が振り向いたところに、カンパネッラ・リコが立っていた。18年ぶりだった。18年ぶりに、彼は一度脱いだ黒衣をふたたび纏ったのだった。
 カンパネッラは変わらない。昼明かりの下と同じぼんやりとした寝惚け眼の笑顔を浮かべて、口を開いた。

 

「勿論だよ、女神さま。教えてよ、僕は何をすればいいの?」
「そうこなくてはね、『女神の眼球(ルヴィ・アイ)』」

 

 クックッと少年はほくそ笑んだ。一度戦場から去った歩く死人は安らかな眠りについていたのではない。力尽きるそのときまで踊り続けるのだ、トリガー・ハッピーたちの死の舞踏を。

 

 

 

 

 

「『女神の眼球(ルヴィ・アイ)』。『復讐の女神(ネメシス)』を継ぐものとして命じます。『踊り狂う引き金(クレイジー・トリガー)』を…裏切り者のチェシャー・キャットを暗殺しろ」

 

 

 

 

 

 安息なんて与えられる筈がないのだ。

 

Requiescaは訪れない