宵闇を切り裂いた銃声を聞いて、女は言った。少女盛りだというのに黒い髪を短く刈り込んで、糊のきいたカラーのワイシャツに真新しい黒いスーツ。そのまま闇に紛れてしまいそうな、上から下まで漆黒を纏う若い女だった。 「ああ。でも、既に手は打ってある」 少女の瞳に逡巡が覗く。彼はクスリと笑った。また、気付かれてしまったと少女は後悔する。彼はまだ幼かったが、少女の周りの大人よりはずっと聡かった。
「心配いらないよ。彼は必ず来る」
彼は忘れていない。 『女神』の息子である僕に。
「さぁ、喜劇を始めよう。 少年は高らかに宣言し、ダアトを包むかのように両手を広げた。野心を宿した瞳が全てを見下ろす。
「そして、僕は一人で高みに昇る」
闇を引き連れて、彼が動きだす。
3人は優に腰かけられる革張りのソファを一人で支配して、女は行儀悪く足を組んでいた。彼女こそはエンドリナの元・保護観察者、キアンティ・ニコル・イェルクシェック…いや、フォイエル姓に変わって間もない奥方であった。相変わらずの態度の尊大さである。その夫になった男といえば文句ひとつ言わずに壁に背を預けて立っている。恐ろしく美しい男だが、何とも気が知れない。 ノックが2つして、「トラディス医師をお連れしました」と初老の男の声が聞こえた。彫像のような男の口が「ご苦労」と動いて、ドアが開く。
「失礼するよ」
現れたのはニコルがまだフォイエル姓になる前に、よくイェルクシェック家に出入りするようになっていた男だった。目が痛くなるピンクに染めた髪と、アシンメトリーなそれからわずかに覗く顔面の右側のケロイドが印象に残っていた。彼もエンドリナやニコル、その夫シュヴァイツと同じ第六師団に所属していた筈だった。ニコルだけは結婚を機に退団を決めていたが。
「夜中に出張させてごめん、ティーナ。あたしかフェーリクスが治せたらよかったんだけど」 旧友に諭されて、ニコルは決まり悪くそっぽを向いた。ニコルは身重だった。彼女の治癒術は自分の体力を分け与える類のもので、デリケートな時期である彼女の体を酷使するよりは馴染みの医師に任せることが選ばれたのである。それもニコルの目利きでブリアンの負傷が一刻を争うものではないと確認されたからこそだ。
「大丈夫。額を掠っただけだよ。少し血を流したみたいだけど、一晩安静にしていれば問題はない」
そうか、とエンドリナは言って、認識票を握った右手からすっと力が抜けていくのを感じた。ずるずると体に沿って落ちていく手のひらはかすかに汗ばんでいた。 「彼女、ブリアンとは知り合い?」 言い淀むエストに、少しだけ表情が動いた。不審を浮かべたエンドリナに、話題を変えようとエストは「そうだ」とさりげなくニコルに視線を送る。
「私にも、その襲撃者というののことを教えてくれるかい?」 この女はまた命令口調で。足を組み替えたニコルに嘆息したくなるが、顎で「早くしろ」と急かされる。本当に、この女と古馴染みをやっているふたりの男どもの気が知れない。
「闇から現れたような奴だった。真っ黒い外套を纏っていて、恐ろしく腕の立つ狙撃手だった…髪も目も金色で」
エンドリナは、あの一瞬を思い出す。瞳と瞳が出会った、瞬き一つ分の時間。 「そう、あれは…女だった」
しん、と客室に沈黙が落ちた。押し黙った3人の古馴染みの中で最初に口を開いたのはシュヴァイツだった。 「金髪金瞳の、漆黒の外套を纏った凄腕の女スナイパー、か」
悪い冗談だ。そうシュヴァイツが言ったのは何を意図したことなのか、エンドリナには分からなかった。 「リコは、まだ来ていないの?」 エンドリナは話が見えない。「待て、リコというのは誰のことだ?」答えたのはシュヴァイツだった。彼は淡々とこう言った。
「カンパネッラ・リコ。
「来てくれると思っていましたよ」
少年が振り向いたところに、カンパネッラ・リコが立っていた。18年ぶりだった。18年ぶりに、彼は一度脱いだ黒衣をふたたび纏ったのだった。 「勿論だよ、女神さま。教えてよ、僕は何をすればいいの?」 クックッと少年はほくそ笑んだ。一度戦場から去った歩く死人は安らかな眠りについていたのではない。力尽きるそのときまで踊り続けるのだ、トリガー・ハッピーたちの死の舞踏を。
「『女神の眼球』。『復讐の女神』を継ぐものとして命じます。『踊り狂う引き金』を…裏切り者のチェシャー・キャットを暗殺しろ」 安息なんて与えられる筈がないのだ。
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Requiescaは訪れない