小さいわたしのお気に入り。
 メルヘンチックな白いドレッサー、
 窓際に整列したぬいぐるみの右から5番目の子猫、
 乳白色のふわふわ毛布、
 
 あなたから染み出る甘ンまい甘露。
 
 血まみれのあなたが立っていた。ご自慢の何時だってカッチリキめたスーツは赤く染まっていた。わたしは頭の先から彼の血を浴びた。
 わたしがあなたが大嫌いだった。憎んで憎んで、憎らしくて、殺してやりたかった。殺す。殺す。あなたを殺す。ずっと、そう思っていた。思っていた。思っていた。
 扉を塞ぐようにして彼は立っていた。彼はもう動かなかった。
 扉はまだ開かない。

 

 

 

 

 


 ブリアンは弾かれたようにして目覚めた。息が苦しい。「ハァッ、ハァッ」と何度か激しく息を吐き、吸う。ようやく胸が落ち着いたころ、彼女はあたりを見回した。部屋は暗かった。見覚えのないそれを、随分上等な部屋だ、と考えたとき、ブリアンは自分がエンドリナとかいう男を狙ったスナイパーに撃たれて意識を失ったことを思い出した。反射的に額に手をやれば、きっちり包帯が巻かれていて、何ものかから治療が成されていることがわかった。あの男が自分をここへ連れてきたという所だろうか。
 知らず硬直していた肩がすとんと落ちて、これも上等なシーツに指を滑らせる。物音ひとつしない室内で、自然に思考は先程の襲撃者へ行った。あの男、エンドリナを狙った狙撃手。只者とは思えなかった。どちらかといえば、自分と同じような側の世界で生きてきた人間に思えた。他人が古ぼけた看板でしかない世界。どこにでもあって、目障りで、撃ち抜くくらいしか価値のない世界。対峙した、あの一瞬で事足りた。あの目を見たその瞬間に。
 その瞬間に、

 

「…え?」

 

 手のひらを、ガーゼの当てられた傷口の上にやる。その瞬間、わたしは何を考えた?何を思った?誰を思い出した?
 傷口がズキズキと痛んだ。何も考えられなくなる。思いだせない。誰の名を呼んだのかさえ。包帯の上に爪を立てる。突き刺されるような痛みがシグナルを発する。
 あのときブリアンは、銃弾の向こうに見えた人間を通して誰かを見た。何故だろう。何故、思い出したのだろう。誰を?誰を?

 

 

 

「…知りたいかい?」

 

 


 闇から声がした。はっとして声の主を探す。いつの間にか窓が開いていて、ヴェールのようなカーテンがさああと靡いていた。その向こうに彼女は立っていた。それは、あの暗殺者だった。
 女だった。金髪金瞳の、張り付いたような笑みをたたえた女。曲線を描く真っ赤なルージュ。ブリアンより一回り年上に見える。その手にライフルはなかった。だが、ブリアンの警戒が解かれることはない。咄嗟に上掛けをバサリと放って、ベッドの上で構えをとる。フーッと静かに、低く唸り声を上げる。

 

「おやおや、その物騒な両手を下ろしておくれよ」

 

 女は焦る様子もなく、それどころか敵意はないとでも言うように両手を軽く上げた。ブリアンに向かって掲げられた手のひらには何の他意も乗せられてはいない。カーテンが二、三度はためくだけの空白の時間があって、ブリアンは向かい合わせに掲げた右と左の手を少しだけ下ろした。彼女は焦っていた。何故自分が攻撃の意志を緩めたのかわからない。ただ、「知りたいかい」と暗殺者の女が口にした言葉が頭の中でがんがん反響していた。女はほうっと息をついてまた口を開いた。

 

「分かってくれたようだね。私は君に危害を加えようとしてここに来たのではない。ちょっとしたお詫びをしようと思ったのさ、君の美しい貌に傷をつけた、ね」

 

 女はわざとらしく顎に手をやって、こう言った。「そう、君はあのとき」女は続ける。

 

 

 

「君は…そう、シャンドルとかいう名前を呼んだっけ?」

 

 

 

 どくん。
 心臓が一際強く鼓動を打つ。どくんどくん。うるさいくらいに動いている。この女は何と言った?今口にした名前を、『シャンドル』を、この女は知っている?この女は、何者だ?

 

「…お前は、何を知っている?」
「何を?」

 

 ケラケラと女は笑った。「全てを!」女は明快に言った。女は言った。全てを知っていると。ブリアンの全てを?彼女自身でさえ知らない全てを?

 

「君が知りたいと思うなら教えてあげよう。謝罪のかわりにそれくらいのことはするべきだ…ただ此処では少々、無粋な人間がいるようだねぇ…」

 

 女は扉の向こうに目をやった。それまで気付かなかったが、バタバタと足音が聞こえていた。この館の主が侵入者に気付いたのだろう。足音はもうこの部屋の近くまで迫っていた。
 「おいで、マドモアゼル」闇から手が差しのべられた。ブリアンは、その手を取った。真っ直ぐ伸びた人差し指が美しいと思っていた。

 

 

 

 


 ブリアンが居なくなった、とシュヴァイツから直接報告を受けたのは、フォイエル宅から騎士団寮の自室に戻ってらのことだった。夜半フォイエル宅に侵入者があり、使用人が駆けつけたときにはその姿は既になく、ベッドはもぬけの空だったという。シュヴァイツの口からそれを聞いたとき、エンドリナは雷に撃たれたような感覚に陥って目を見開いた。ふ、と我を取り戻したときには、玄関先に立ったシュヴァイツを押しのけて、外にでようとしていた。「何をするつもりだ?」シュヴァイツの言葉に脊髄反射的に「探しに行く」と答えていた。シュヴァイツはエンドリナの腕を掴んで行かせなかった。加減を知らない力だった。

 

「寮から出るな、ここにいろ。そのために私自ら来た」
「…何故?」
「お前はお前が思っている以上に厄介なことに巻き込まれている」

 

 シュヴァイツは多くを語らなかった。「イェルクシェックも彼女を探すことに尽力する。報告を待て」。『彼女』がどちらなのかシュヴァイツは言わなかった。エンドリナが抵抗しないと分かると、彼はその手を離した。うすら赤く内出血の痕が見えていた。シュヴァイツは「いいな、余計なことはするなよ」と念を押して去って行った。


 寝床に入っても、なかなか寝付けなかった。何度瞼を閉じようと、諦めて目を開けてしまう。はーっと息を吐いて堅いベッドを抜け出した。せめて外の空気を吸おうと思い、ドアノブを握る。そのとき、シュヴァイツの言葉が思い出された…「お前はお前の思っている以上に厄介なことに巻き込まれている」。その言葉の真意がエンドリナには読めなかった。
 エンドリナを狙った女。あの女は、何故エンドリナを狙ったのか。軍属である以上、覚えはいくらでもある。そして、エンドリナには過去がある。拭いがたき過去が…罪がある。彼女は、エンドリナの過去を知っているのだろうか。そのために、自分を狙ったのだろうか。
 ふと彼は思う。何故か、ではない。彼女が誰なのか。それが、シュヴァイツが自分を制した理由なのかもしれないと。襲撃者のことを話したとき、あの場の三人は一様に口を噤んだ。彼らは襲撃者のことを知っていたとは考えられないだろうか。もしくは、推測できた。フォイエル家当主シュヴァイツが下手に動けない相手であり、イェルクシェック家が捜索に乗り出すような人物。それは、どんな人物なのか。

 

 

 

「…ッ!」

 

 


 エンドリナは緩く手をかけたドアノブをぐっと力を込めて握った。
 誰かがいる。
 迂闊に開けることはできなかった。扉の向こうの何ものかはエンドリナが勘付いたことに気付いたらしい。「やぁ、こんばんわ」と平坦な挨拶言葉を口にした。驚くほどに若い、少年の声だった。

 

「誰だ。正直に答えろ、容赦はしない」
「不躾ですね。嘘なんて言いませんよ、ドアごと氷漬けにはなりたくありませんからね」

 

 エンドリナの能力を知っている。少年は何ごとか確実な意図を持ってエンドリナを訪問しているのだ。「話せ」と手短に告げた。いつでも少年の言うようにできるよう、ドアノブから手を離さないまま。

 

「まずは名乗りましょう。僕はピエトロ・エレ。エンドリナ、でしたっけ?あなたは先程暗殺者に命を狙われたのでは?」
「…何故、知っている?」
「少々耳がいいんですよ。あなたはこう思っている筈です。あの暗殺者は何者だ?何故自分を狙った?目的は?…とね」
「…」

 

 勿体ぶった言い方をする。その言っていることがエンドリナの思っていることをそのまま示しているのだから、腹立たしい。「僕を信用してくれるなら、少しだけドアを開けてくれますか?」従わない訳には、いかなかった。わずかな隙間からひらりと紙片が舞い込んだ。
 一枚の写真だった。そこに映っていたのは、先程対峙した暗殺者に他ならない。証明写真か何かなのか、身支度を整えた女の顔立ちは記憶より若々しく溌剌としている。

 

「彼女の名前はチェシャー・キャット。凄腕のスナイパーで、『踊り狂う引き金』という二つ名で呼ばれていました。出身は、マルクト帝国領のワールド・エンドという農村です。ここまで言えば、彼女があなたを狙う理由はおわかりでしょう?」

「…」

「彼女はある組織の構成員でしたが、数日前部下数人を撃ち殺して組織を離反しました」
「…お前は、その『ある組織』の関係者ということか?」

 

 少年は答えなかった。肯定だろう。「写真を裏返してみてください」少年の言うようにすれば、何ごとか走り書きで書きこまれていた。住所、だろうか。ダアトの下町のあたりだろう、と当たりをつける。

 

「チェシャー・キャットの現在の潜伏先です。組織の追手を恐れてか、組織内の過激派のアジトに身を寄せているようなんですよ。あなたが知りたい情報ではないかと思いまして」
「それを、素直に俺が受け取ると?真実かどうかも分からないのに?」
「さあ?情報は提供しました。信じるも信じないも、あなた次第ですよ」

 

 扉の向こうの気配が、動く。「ただ、」扉に接していたであろう少年は、もう用件は終わったとでも言うように扉から離れた。

 

 

 

「あなたが心配している彼女は、其処にいるでしょうね」

 

 

 

 少年が去っていき、手の中に彼女の居場所だけが残った。少年が去った後、沈黙だけが室内を支配する。シュヴァイツの言葉が反響する。得体の知れない少年の告げたことが真実だと、どこに証拠があるだろう。そう考えたとき、エンドリナは扉を開け放ち、床を蹴っていた。紙面に記された場所。そこに『彼女』がいる。迷いはなかった。エンドリナは獣のように駆けだした。

 

Optimistの行進