「覚えているよ、君のことは。あの時は悪いことをしたね」
チェシャーはこちらを振り返ることもなく、事も無げにそう言ってみせた。ぎょっとして「あの時?」と聞き返す。女はブリアンに答えずに、ただ自分の記憶の中に想いを馳せて、「お人形さんのようだった君が、美しく成長したものだよ」と独り言でしかない言葉を発する。 階段の先で、女がくるりと振り返る。
「さあ…おいで、お嬢さん。紅茶とスコーンでもご一緒しながら、ゆっくりと話をしようじゃないか」
ブリアンは、躊躇なく頷く。
女暗殺者のポートレイトの裏に記された場所は、ダアトの住民でさえ好んで立ち入りたがらない界隈の一角にあった。みすぼらしい摩天楼。作動不良の音素灯がゆらゆらと揺れて、エンドリナを照らす。とうに短針が0を過ぎた時間帯であり、通りにはエンドリナ以外の人間は見当たらない。だが、ビルの前に立てば閉じたシャッターの向こうからざわざわと密やかな喧騒が聞こえた。そういえば、あの少年は何とかいう組織の反動派のアジトだとか言っていたか。 ぐばしゃっ!
一瞬にして凍結したシャッターを力任せに蹴りつける。枠ごとビル壁から分離したそれを踏み付けて、エンドリナはビルに入った。蹴り倒した拍子に細かい氷の礫と、シャッターだったものの破片が宙を舞う。建物の1階に当たる部分には、3人の男が待機していた。轟音に気付いて侵入者をはじめに視界に捉えたのは、シャッターのあった場所からまっすぐ前方、木箱に腰かけていたふたりのうち、金髪のほう。そちらにやや遅れて、もう片方のアッシュブロンドの男が腰の銃を抜く。構える。 「バケ、モノ」
背後で男が崩れ落ちた。振り向かずにひとつ手を付いて階段を駆け上がった。
「さて、何から話そうかな」 チェシャーはフフッと笑って足を組み上げた。黒いスラックスの下の細くて長い足。「君の質問に答えよう」と女は尊大に言った。
「知っているよ…『シャンドル』を。君はあのとき、彼の自宅に軟禁されていた少女だろう?」
どくん。
心臓が跳ねる。
「…あのとき?」 「え」とブリアンは唇から音を漏らした。 「わたし…じゃないの?」
今度はチェシャーがきゅっと目を丸くした。「…?記憶が混乱しているのかい?」ぐらりと視界が揺らいだ。額に手を当てれば、そこを狙撃されたばかりだったと思いだした、目の前の女に。 「落ち着いたかい、マドモワゼル」 ブリアン、と 「ブリアン…バロン?」
「そうそう、そのチェシャー・キャットですがね。戸籍としては20年以上前に死亡扱いになっているんですが」 まさか、とエンドリナは呟いた。「その、『まさか』ですよ」少年は平坦な声で言っていた。
「ええ。ブリアン・バロンの実姉なんです」
「…ククッ…」 俯いた女の唇の隙間から笑みが漏れる。ばっと女は顔を上げた。驚愕、歓喜、悲哀、狂気、望郷、そのすべてがないまぜになった顔。歪んだ顔で女は歯をむき出しにして嗤う。
「アーハッハッハッハ、は、はひひっ、くひっ、くひゃっ、ひゃーっはっはっはッ!?そうか、お前が、お前かッ!何て喜劇だ、何て悲劇だろう、アハハハハッ!!!!」
身体が凍りつく。動かない。女は好きなように笑った。摩天楼を揺らすように笑った。豹変したチェシャー・キャット。女はすぅっと闇のような衣の中から手を伸ばして、ブリアンの頭に乗せた。「そう、アナタ、『シャンドル』のことが知りたいんだっけ?」さっき背中に触れたのと何一つ変わらない筈の手のひらが怖かった。恐ろしかった。ゆるく開いた手のひらは、緩慢なしぐさで親指と人差し指を立てて、他の指を折り曲げた。拳銃を模した指先がブリアンの脳天を指し示した。
「教えてあげるわ、『ブリアン』。5歳のアナタを誘拐して軟禁したフレデリーク・スタンウェイ…『シャンドル』は、組織と組織を行き来して甘い蜜を吸うコウモリ野郎だった!だから、私とファイゼルンが奴を裁いた、こうやって、こうやって奴の脳天に銃を突きつけて、ブチ殺してやったのさァっ!!天罰だ!天罰だ!『復讐の女神』の下した審判だ!!全ては女神の思し召しなのさ、この『踊り狂う引き金』を引いて、女神があの男を撃ち殺した!逃げようとしたアイツを背中から撃ち抜いて、そうオマエの頭の上に、血の雨を降らせてやったのさッ!!!!!」 女は空想上のリボルバーの引き金を引く。本当に撃たれたような気がした。でも現実はそうではなくて、ブリアンの脳天に穴が開いていたりはしなかった。チェシャーは反動を受けたふりをして跳ね上がった右腕を、そのまま、ゆるゆると、自分の頭に持っていく。両腕を持ち上げる。頭皮にきつく爪を立てる。
「でも、女神はもういない。私を裁いてくれる女神はもう、」
めちゃくちゃに叫び声を上げていたのが嘘のように、女の声は力なく、か弱かった。
「だから私は組織を裏切った、女神を失ったあそこはどの道長くは保たない。私は私の過去を凍らせたあの氷の獣を暗殺しようとした。でも、私の目的は復讐なんかじゃない、どの道あの狂った村に未練なんてない。私は私の過去を殺すために組織を裏切った。本当に、ねぇ、私はアナタを殺す気なんてなかった、アナタが私の愛していた男のお気に入りだったのは偶然だったし、アナタが『ブリアン』だったのも偶然だった。でもそれを知った以上はアナタを見逃すことはできない。 それなら、
「…世界の果てへ、ワールド・エンドへおいで。私たちが生まれた村だ。そこで全てを終わらせよう、私たちの呪われた血の、呪われた運命の」
待っているわ。
女はエンドリナを通り過ぎる。「待てッ…」と口にしたものの、傍らのブリアンが絨毯の上に倒れ伏したのを見て慌てて助け起こす。緊張が切れたのか、意識を失っていた。外傷がないのを確認して振り向いたときには暗殺者の姿はなく、ただ開け放たれた扉だけがあった。部屋の外は今だ、闇に包まれている。
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人差し指はNaughtyで