「ああ、私のことは、チェシャー・キャットとでも呼んでくれ」先導する暗殺者の言にブリアンは首を傾げた。ふざけた名前だ。「偽名か」と問えば「そうかもね」と女は言った。チェシャ猫の言うことだから、信憑性など有りはしない。カン、カン、と音を立てて安っぽい階段を踏む。

 

「覚えているよ、君のことは。あの時は悪いことをしたね」

 

 チェシャーはこちらを振り返ることもなく、事も無げにそう言ってみせた。ぎょっとして「あの時?」と聞き返す。女はブリアンに答えずに、ただ自分の記憶の中に想いを馳せて、「お人形さんのようだった君が、美しく成長したものだよ」と独り言でしかない言葉を発する。
 矢張り、この女はブリアンを知っている。ブリアン自身でさえ知らないことを。背を向けた彼女と記憶の中の誰かと重なりかけたとき、ブリアンは軽く首を横に振ってその考えを追い払った。彼女は、彼ではない。彼であるはずがない。何故、はじめて対峙したとき彼女と彼を混同したのか分からなかった。
 だが、それもすぐに知れることだ。

 階段の先で、女がくるりと振り返る。

 

 

 

「さあ…おいで、お嬢さん。紅茶とスコーンでもご一緒しながら、ゆっくりと話をしようじゃないか」

 

 

 

 ブリアンは、躊躇なく頷く。
 今、扉が開かれようとしていた。

 

 


「…ここか」

 

 女暗殺者のポートレイトの裏に記された場所は、ダアトの住民でさえ好んで立ち入りたがらない界隈の一角にあった。みすぼらしい摩天楼。作動不良の音素灯がゆらゆらと揺れて、エンドリナを照らす。とうに短針が0を過ぎた時間帯であり、通りにはエンドリナ以外の人間は見当たらない。だが、ビルの前に立てば閉じたシャッターの向こうからざわざわと密やかな喧騒が聞こえた。そういえば、あの少年は何とかいう組織の反動派のアジトだとか言っていたか。
 エンドリナは右の手のひらを、ひたりとシャッターに当てる。
 夜気に晒されてひんやりと冷えたそれは、灰褐色の外壁をむき出しにしたビルに似合わず新しく、頑丈そうだった。音素灯や月明かりを反射してきらりと銀色に光るそれは、中側からしっかりと閉じられていて、何者をも通してくれそうにない。反動派の輩が集まっているというのだから、敵も多い筈だ。そんな突然の襲撃に備えるためだろう。
 例えば、今のような。

 

 ぐばしゃっ!

 

 一瞬にして凍結したシャッターを力任せに蹴りつける。枠ごとビル壁から分離したそれを踏み付けて、エンドリナはビルに入った。蹴り倒した拍子に細かい氷の礫と、シャッターだったものの破片が宙を舞う。建物の1階に当たる部分には、3人の男が待機していた。轟音に気付いて侵入者をはじめに視界に捉えたのは、シャッターのあった場所からまっすぐ前方、木箱に腰かけていたふたりのうち、金髪のほう。そちらにやや遅れて、もう片方のアッシュブロンドの男が腰の銃を抜く。構える。
 そのとき既に勝敗は決していた。ふたりの男の顔面をそのまま覆うように、エンドリナの両手の平が迫る。かすかに冷気を纏ったそれは訳も分からぬままただ、驚愕に歪んだ顔を容赦なく圧殺。意識を失ったふたつの体は仲良く何段か積まれた木箱に直撃し、ずりずりと地面にくずおれた。木箱は侵入者対策のためか、武器を入れてあったようだった。新品の銃弾がいくつも床に散らばった。
 「てめえっ、スラー派の刺客かっ!?」仲間を倒されて動転した最後のひとり、黒髪の刈り上げの男がそんな類のことを激昂して叫んだ。驚愕と恐怖で興奮しきった男の金切り声を正確に聞き取れていたのだとしたら、だが。エンドリナはサバイバルナイフを腰から抜いた男の脇を、通り過ぎる。腕、肩、髪の一筋まで例外なく、エンドリナの触れた場所から凍結ははじまる。男が信じられないとでも言うような表情をして振り返った時には、エンドリナの肘が男のこめかみを撃ち抜いていた。意識を手放す前男がこう言ったのが聞こえた。

 

 

 

「バケ、モノ」

 

 

 

 背後で男が崩れ落ちた。振り向かずにひとつ手を付いて階段を駆け上がった。

 

 

 

 


 扉の向こうはそれまで見てきた内装とは一線を画す、赤絨毯の敷かれた一等上等な部屋だった。「ただいまマウリス」その中央に、これも上等な執務机が置いてあった。チェシャーが声をかけたのはそこに座っていた男。肩までに整えた金髪の、若く身なりのいい男だ。マウリスと呼ばれたその男は、「ああ、その女か。私は席を外すとしよう」と丁重に答えて立ち上がり、奥に続いているらしいドアの向こうに引っ込んだ。パタン、とドアの閉じた音が止むと、チェシャーはスタスタと絨毯の上を歩いて、先程までマウリスとかいう男が使っていた執務机の上に腰かけた。行儀の悪い女だ。人のことは言えないが。

 

「さて、何から話そうかな」
「…『シャンドル』のことを知っている?」
「性急だね」

 

 チェシャーはフフッと笑って足を組み上げた。黒いスラックスの下の細くて長い足。「君の質問に答えよう」と女は尊大に言った。

 

 

 

「知っているよ…『シャンドル』を。君はあのとき、彼の自宅に軟禁されていた少女だろう?」

 

 

 

 どくん。

 心臓が跳ねる。

 

 

 

「…あのとき?」
「そう、あのとき。…幼い君を閉じ込めて、ペットにしていたクソ野郎を私たちがブチ殺したときさ」

 

 

 

 「え」とブリアンは唇から音を漏らした。
 クソ野郎。ブリアンをどこかから攫ってきて自分の部屋に閉じ込めた誘拐犯。『シャンドル』。
 嘘だ。
 だって、『シャンドル』を殺したのは、

 

 

 

「わたし…じゃないの?」

 

 

 

 今度はチェシャーがきゅっと目を丸くした。「…?記憶が混乱しているのかい?」ぐらりと視界が揺らいだ。額に手を当てれば、そこを狙撃されたばかりだったと思いだした、目の前の女に。
 ブリアンの足元がふらついたのを見て、女はトンと絨毯の上に着地してブリアンを支えた。「大丈夫かい」済んでの所で床に伏せりそうになったのを女が防ぐ。頭からがんがんと鐘のように痛みが鳴って、堅く目を閉じる。
 背中に感じた、温度。しゃがみ込んだブリアンの背中を、女の手が擦っていた。ゆっくりと。労わるように。少しだけ開けた瞼の向こうには、今までに無く近い距離に女がいた。その表情は、不思議なくらいに普通の女だった。死神のような黒服を纏ったその女はただの女だった。
 引っ切り無しに吸って吐くのを繰り返していた胸がようやく収まってくると、背中に感じる温度の移動もゆっくりとなっていき、やがては停止した。チェシャーはそれでも暫くそのままブリアンの背中に手を置いていた。ブリアンがやわやわとその手を追い払うまでずっと。苦笑いを浮かべて、女はまた気遣うように言った。

 

「落ち着いたかい、マドモワゼル」
「…私は小さい子どもじゃない、私の名前は」

 

 ブリアン、と
 そう口にしたとき、チェシャーの表情が凍りついた。

 

 

 

「ブリアン…バロン?」

 

 

 

 


 エンドリナは階段を2段飛ばしで駆け上りながら、ピエトロと名乗った少年が姿を消す前に、付け足すように言ったことを思い出していた。

「そうそう、そのチェシャー・キャットですがね。戸籍としては20年以上前に死亡扱いになっているんですが」
「…それがどうした」
「本名がね、ファルメリア・バロンと言うんですよ」

 まさか、とエンドリナは呟いた。「その、『まさか』ですよ」少年は平坦な声で言っていた。

 

 

 

 

 

「ええ。ブリアン・バロンの実姉なんです」

 

 

 

 


 チェシャーの表情に、先程まで顔を覗かせていた気遣いはなかった。一切の感情がきれいに抜け落ちて、恐ろしいくらいの静謐さがそこにあった。女はゆらりと立ち上がる蝋燭の炎のように女の身体が不確かに揺れている。

 

「…ククッ…」

 

 俯いた女の唇の隙間から笑みが漏れる。ばっと女は顔を上げた。驚愕、歓喜、悲哀、狂気、望郷、そのすべてがないまぜになった顔。歪んだ顔で女は歯をむき出しにして嗤う。

 

 

 

「アーハッハッハッハ、は、はひひっ、くひっ、くひゃっ、ひゃーっはっはっはッ!?そうか、お前が、お前かッ!何て喜劇だ、何て悲劇だろう、アハハハハッ!!!!」

 

 

 

 身体が凍りつく。動かない。女は好きなように笑った。摩天楼を揺らすように笑った。豹変したチェシャー・キャット。女はすぅっと闇のような衣の中から手を伸ばして、ブリアンの頭に乗せた。「そう、アナタ、『シャンドル』のことが知りたいんだっけ?」さっき背中に触れたのと何一つ変わらない筈の手のひらが怖かった。恐ろしかった。ゆるく開いた手のひらは、緩慢なしぐさで親指と人差し指を立てて、他の指を折り曲げた。拳銃を模した指先がブリアンの脳天を指し示した。

 

 

 

「教えてあげるわ、『ブリアン』。5歳のアナタを誘拐して軟禁したフレデリーク・スタンウェイ…『シャンドル』は、組織と組織を行き来して甘い蜜を吸うコウモリ野郎だった!だから、私とファイゼルンが奴を裁いた、こうやって、こうやって奴の脳天に銃を突きつけて、ブチ殺してやったのさァっ!!天罰だ!天罰だ!『復讐の女神(ネメシス)』の下した審判だ!!全ては女神の思し召しなのさ、この『踊り狂う引き金』を引いて、女神があの男を撃ち殺した!逃げようとしたアイツを背中から撃ち抜いて、そうオマエの頭の上に、血の雨を降らせてやったのさッ!!!!!」

 

 

 

 女は空想上のリボルバーの引き金を引く。本当に撃たれたような気がした。でも現実はそうではなくて、ブリアンの脳天に穴が開いていたりはしなかった。チェシャーは反動を受けたふりをして跳ね上がった右腕を、そのまま、ゆるゆると、自分の頭に持っていく。両腕を持ち上げる。頭皮にきつく爪を立てる。

 

「でも、女神はもういない。私を裁いてくれる女神はもう、」

 

 めちゃくちゃに叫び声を上げていたのが嘘のように、女の声は力なく、か弱かった。

 

 

 

「だから私は組織を裏切った、女神を失ったあそこはどの道長くは保たない。私は私の過去を凍らせたあの氷の獣を暗殺しようとした。でも、私の目的は復讐なんかじゃない、どの道あの狂った村に未練なんてない。私は私の過去を殺すために組織を裏切った。本当に、ねぇ、私はアナタを殺す気なんてなかった、アナタが私の愛していた男のお気に入りだったのは偶然だったし、アナタが『ブリアン』だったのも偶然だった。でもそれを知った以上はアナタを見逃すことはできない。
 ねえ『ブリアン』、私アナタを殺すわ。私の銃で撃ち殺してあげるわ。でもアナタは死にたくないって泣くかしら。フレッドが死んでから手に入れたその能力で、抵抗するかしら。私を殺そうとするかしら。あの子も、そう。私たちの故郷を氷漬けにしたあの子もきっとそう、死にたくなんてないわ。殺されるくらいなら、殺す方を選ぶでしょう。そうしてちょうだい、きっと、そうして、それなら、」

 

それなら、
 私は、裁かれることができるから。

 

 


 ガラスが割れるような音がして、凍結した扉が蹴り割られた。「ブリアンッ!!」エンドリナだった。チェシャーが殺したい、殺されたい、もう一人。
 ブリアンをかばうようにして前に立ちはだかったエンドリナに、チェシャーは眉を歪めていびつな笑みを浮かべた。エンドリナが血の色の目で彼女を睨みつける。ブリアンはまだ、動けない。
 チェシャーは言った。

 

 

 

 

 

「…世界の果てへ、ワールド・エンドへおいで。私たちが生まれた村だ。そこで全てを終わらせよう、私たちの呪われた血の、呪われた運命の」

 

 待っているわ。

 

 

 

 

 

 女はエンドリナを通り過ぎる。「待てッ…」と口にしたものの、傍らのブリアンが絨毯の上に倒れ伏したのを見て慌てて助け起こす。緊張が切れたのか、意識を失っていた。外傷がないのを確認して振り向いたときには暗殺者の姿はなく、ただ開け放たれた扉だけがあった。部屋の外は今だ、闇に包まれている。

 

人差し指はNaughty