| 「はぁ…っ…はぁっ…」   走る。走る。走る。走らないと殺される。僕らの背中をいくつもの拳銃が狙っている。胸がとても苦しい。足が痛い。こんなに走ったことなんてなかった。でも走らなきゃ殺されるから、走らなきゃならない。 
 
  マウリス・ファウナは何の干渉もすることができずに、隣室のチェシャー・キャットとその客人、そして突如乱入してきた得体の知れない男のやり取りを傍観していた。ドアを凍らせて蹴り破ったその男は、化け物と呼ぶ以外に何者でもなかった。また、ここまで登って来たということは、マウリスの部下たちをかいくぐって来たということだった。組織の末端ばかりが集まったまとまりのない集団ではあるが、教団から流れてきた銃器は十二分に行き渡っていたというのに!
   「あのビィッチが!糞、本当に糞なことばかりだ、あの女、自分の目的を果たした後はピエトロを始末してやるというからアジトを貸してやったのに!先代の右腕といえどもう容赦しねぇ、高慢ちきなあのツラを床に擦りつけて赦しを請わせてやるぞ、それから裸にひん剥いて、」
   「それで…どうするんです?」
    マウリスははっとして、痛覚からのシグナルを無視して机を打ち続けていた拳を止めた。振り返る。そこには非常階段へ繋がるドア。 そこに、ふたりの子どもが立っていた。ひとりは、カールのきいた金髪の、天使のような中性的な顔立ちをした少年。もうひとりは、黒髪を短く刈り上げた、少年のような女。
   「大層おもしろそうなプランじゃないですか、教えて下さいよ、それからどうするんですか?」
    少年のほうが、如何にも楽しくてしょうがないとでも言うようにころころと笑って言う。マウリスは目を見開いて、一歩、二歩後退した。マウリスは叫んだ。
   「てめえ…どうしてここにいる、ピエトロ・エレッ!?」
    ピエトロ・エレと呼ばれた少年は笑みを崩さない。それこそが望ましい反応であると満足するように、マウリスに愛おしげに微笑む。その表情は、ただの少年のものではなかった。女神のような笑みであった。
   「あの化け物のおかげで、随分楽に登ってこれましたよ。彼女…チェシャーは彼が追ってくると予想してたんじゃあないですか?彼女は母さんと同じで、ホテル・ウトフォスを解散したがっていましたしね。ついでにあなたたちマウリス派を一掃できたらいいと思っていたのではないですかね?」
    マウリスは少年に背を向けて机の内側に回り込み、引き出しの中の短銃を掴む。「シガレット」しかし、遅すぎた。ピエトロの命じるままに、傍に影のように佇んでいた少女がリボルバーを構え、短銃を握るマウリスの手を撃った。 
  マウリスの身体がぴくぴくと痙攣している。血が流れ出し、スーツを染める。ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ、痙攣した身体が、血だまりに触れて音を立てる。
   「大幹部スラー・シティーリャの傀儡であるハズの僕、ピエトロ・エレが自らアナタを始末しにやってきたのが何故か、分かりませんか?アナタがたに殺害されたとされたスラーが、真実はそうではないと、分からないんですか?」
    マウリスの目に光が戻る。それを見て、ピエトロは笑う。楽しそうに、楽しそうに。「そうか、わかったぞ、つまりお前は」、マウリスが言葉を吐くのと一緒に、血が吐き出される。
   「スラーを殺したのは、お前かッ…」  ついでにその罪をアナタたち、スラー派の少数の幹部による中央集権的支配に反対して分派した、アナタを中心とするマウリス派にひっ被ってもらえば、組織をまた一つにまとめることができますからね。
    マウリスの目に絶望が宿る。あのときのピエトロの同じように、スラーに確保される前のように。手に手を取って逃げ出したあのときのように。  その時だった。どこからか「キャアァッ!!」と悲鳴が聞こえた。ピエトロ、シガレットは反射的に声の主を探す。どうやら物陰に隠れていたらしい、それは…少年とも、少女ともつかない、長髪の子ども。マウリスの子飼いの子どもだろうか?透き通るような髪が美しく、そのアメジストのような瞳は恐怖に彩られている…
    その隙をマウリスは見逃さなかった。マウリスはピエトロが得意げに口上している間に、血まみれの身体の下で懐の中に忍ばせていた二振りのナイフを用意していたのだった。マウリスは右手の内側の三本の指に小ぶりなナイフを挟みこんで、撃たれていない方の足に全体重をかけて跳ね起きた。
   「死ねぇええええええええええッッッ!!!!」
    遅かった。遅すぎた。一度子どもに向けられた視線は、マウリスの刃を見切ることはできない。そしてピエトロは子どもすぎた。調子に乗って口上を垂れるただのガキだった! 「え!」
    目の前に黒い影が映った。ピエトロとマウリスの間に割って入ったそれは、マウリスの刃を受けながらも悲鳴ひとつ漏らさず、手の中のリボルバーの引き金を引く。「ぎゃっ」と声がして、もうマウリスは動かなかった。絨毯の上に影が倒れた。額から瞼の上を通り、頬までを赤い平行線が走っていた。ピエトロは呟いた。
   「シガレット…?」
   
 「よくお聞きください、ピエトロ様。ボスはずっと前から自ら命を絶つことをお決めになっておられました。ボスはホテル・ウトフォスを解散させるおつもりだったのです。ダアトからギャング組織を無くそうと」  そう言って、ユリシスは言葉を詰まらせた。「それは、貴方様をギャングの世界に巻き込みたくないとの考えでもありました」と彼は続けた。
   「さあ、おいで下さい。後は我々の仕事です。ボスの遺言に従い組織の解体の準備に入ります。今は亡きボスのためにも、貴方様の身柄は我々が守りま」
    ぱぁん。
    ユリシスの言葉は途中で遮られた。ユリシスの小太りの身体が傾く。脳漿をぶちまけて、横倒しに倒れる。「やった、ユリシスを殺したぞ!」「組織を無くしてどうしようっていうんだ、このクソジジイ!」開いたドアの向こうから、柄の悪い若者たちがやってくる。そのうちのひとりは、構えたリボルバーの先から青い煙を立ち昇らせて。
   「そうだ、ついでにボスの息子も殺しとけ」  いくつもの銃口がこちらに向けられるのと、シガレットが執務室に転がり込んできたのは同時だった。「ピエトロ!」シガレットに手を取られて、ピエトロは駆け出す。さっきまでピエトロが立っていたところに銃弾の雨が降った。ピエトロはもう振り返らなかった。全部が夢のように崩れた。泣きながら暗闇を駆け抜けた。
   
 「リヒャルト!シガーは、シガーはどうなった!?」  リヒャルトは、母の死以前からピエトロに付き従う主治医のようば存在だった。「行ってやれ」と短く言うと、医務室の前から立ち去って行く。言われずともピエトロは医務室に駆けこんだ。
   「シガレット!」
    仕切りの向こうに彼女がいた。ベッドの上に腰かけている。無事だった。それが嬉しくて、今すぐシガレットに駆け寄りたかった。だが、できなかった。眉の上あたりから頬までガーゼを当てて、目のあたりを中心に包帯を幾重も巻いた彼女。その傷痕は見えなかったけど、シガレットのような少女が負うにはきっと酷すぎる傷だった。それをシガレットに負わせたのはピエトロなのだ。その自分が、ただ無事を喜ぶなんてことができるだろうか。
   「…ピエトロ?」
    シガレットはちゃんとピエトロの声を聞き分けて、名前を呼んだ。見えない目で、ゆるゆると手を伸ばし、ピエトロを探す。ピエトロは慌てて包み込むようにしてその手を取った。ピエトロは胸の中に沈殿した言葉を口から一気に吐き出した。
   「シガー、シガレット、ごめんなさい。全部僕のせいだ。僕が君を傷つけた。ごめんなさい、謝ったって許されっこないのは分かってる、でも、ごめんなさい、本当にごめんなさい、君を傷つけて…」
    繋いだ手と手の上に、ぽたりぽたりとピエトロの涙が落ちる。シガレットが倒れた時、本当にピエトロはシガレットが死ぬことを考えたのだ。シガレットが死んでしまったら。考えるだけでぞっとする。シガレットが死んでしまったら、今度こそすべてが幻と化す。ボスになる意味さえもなくなる。今までどんな時もシガレットが傍にいた。だから、これから先シガレットが傍にいないなんて考えられなかった。考えたくもなかった。 「泣かないでください、ピエトロ。あなたのせいじゃあありません。あなたを守れなかった自分に非がありました」  ピエトロは顔を上げて、シガレットの目のあたりに視線を合わせた。「何でも言って」。 「自分を、捨てていって下さい」
   
 「目はスナイパーの命です。自分の不手際でそれを損なった以上、自分はあなたから離れるべきです」  シガレットの手がピエトロの手から離れていく。引き止めたかった。どうして僕から離れていくんだと。離したくなかった、のに、はなれていくシガレットの手は鮮やかすぎた。 「どうしてだ、許さないぞ!!どうして僕から離れるんだ!!お前も母さんみたいに僕を置いていくのか!ふざけるなっ!!!」
    激情のままにはなれゆくシガレットの手首を掴み取る。シガレットは、瞳を逸らすような仕草をして、「それが、自分の仕事です」と漏らした。 
 「こういう風にお前を使うなら、お前はずっと、僕の傍にいるのか!?」
    シガレットは、シガレットは、ピエトロの下で、呟くように言う。言う。  シガレットが初めて身体を開かれたのは、7歳の時だった。  だから、わたしは自分でわたしを助けた。   男の枕の下に堅いものがあった。それは、護身用の拳銃だった。男は気付かなかった。ただ腰を振っていた。 
  サイドテーブルのリボルバーを取る手を止めたのは、ピエトロの声だった。ピエトロの、声が聞こえた。でも、シガレットには見えなかった。あなたを見るための目が見えなかった。
   「ごめんね」
    シガレットの上に、やさしい雨が降ってきた。ピエトロが、泣いている。泣いている。泣いている。
    泣かないで。  見えない目が憎かった。泣いているピエトロを慰められない自分が憎らしかった。サイドテーブルに向けた手を上に伸ばした。すぐに、その手は受け止められた。   「ごめんね。」
    ピエトロ。
   
 
 「女神様」
    この光の元に、われらは集った。
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