ある愛に恵まれなかった王様が、
 身寄りのない赤ん坊を数人集めて、
 食料や環境といった、成長すべく必要なものを全て恵んだ上で、
 一切の情愛を含む接触を与えない実験を行った。
 その結果、
 赤ん坊は、残らず死に絶えたという。






「とかいう話を、見たことがあったね」

 フランベルはぎしりと木製の椅子に重圧をかけつつ呟いた。
 「なんや、随分残酷な話やなぁ」イヅルはいつもの調子でやんわりと感想を述べる。「どこでそんな話、知った訳?」

「知ってるだろう、ブライアン爺さんの店さ。件の王様とやらは、音楽に嗜みのあるお人だったらしいね。あの爺さん、伝記物も随分と 溜め込んでいたけど、そういう人物のを特に集めてた傾向があったよ」

 へぇ、と納得顔のイヅルに、学の無い俺にゃ分からんネ、とうそぶくエド。同じ糞溜まり、もとい下町で育った同類ではあるものの、 その昔博学な老店主に見出されて教団員を目指したフランベルと独学で医者を志したイヅルに比べれば、彼の持ち前の皮肉も磨きがかかる というものだ。
 とはいっても彼、エド・ミシェルマスは只の学の無い老爺ではなく、ギャングという地獄への片道をこの歳まで歩んできた 男である。世間一般の学などというものは、世間一般というフィールド上でこそ学であるのであって、日常を非日常の中で生きる影どもに とっては腐った脳味噌に無駄に蓄積された認識でしかない。
 「つまりだね、」フランベルは机上にひっそりと置かれた小皿から、用意されたプレッツェルをつまみつつ続ける。「人間は愛とか情 とかいうものをなくして生きられない、ということさ」
 さく、さく、とフランベルの白い歯が、チョコレートでコーティングされた棒状の菓子を噛み進める。「綺麗な歯やね、お医者さんと して褒めたるわ」「こちとら金歯を入れるくらいなら別の用途に金を使いたくてね」フランベルが優雅に先端まで啄ばむと、「けっ、また 例のお嬢さんかよ」とエドが口を歪ませる。愛しちゃってるもんなァフラウちゃん、悪いか糞のお友達ども、糞の投げ合いのような応酬、 もとい、往年の幼馴染たちのコミュニケーション。呆れたような溜め息が後ろから降ってくる。

「いい加減にしろよな、爺共」

 イヅル宅の小さなダイニングから出てきたのは、我らが腐った幼馴染が一人、イヅルの同居人エリー。言葉遣いは乱暴だが、女性である。 御歳23、娘ざかりにも関わらず、胸の辺りは少しばかり寂しい。女性らしいふくよかな丸みもきゅっと締まったラインにも縁は無いのだが、 繰り返して言えば女性だ。爺共の失敬な視線に気付いたか否か、新しく淹れてきたティーポットを乗せたトレイを置く手つきはいささか 乱暴だった。

「エリー、おおきになぁ」

 イヅルが同席する幼馴染には絶対に、確実に、向けないと思われる幸せそうな笑顔を浮かべて彼女を抱き寄せると、化粧っ気のない頬に 朱が差す。席についたままのイヅルからの抱擁は、彼女の腰あたりに顔が埋まる。間も無く二方向からの視線、要するににやにやと 厭らしい笑みを浮かべる二人の爺に気付いた彼女は、同居人の後頭部に鋭い一打。「離せこの野郎!」と叫んだ彼女の勇ましさかつ初々 しい恥じらいは年老いた男どもにとって微笑ましい光景である。  当の本人、イヅルはそこそこダメージを受けたらしく、痛たぁと黒髪を何度も擦っている。そのまま禿げろそして振られろ、と既に希少 な髪の毛という財産を失ったエドが呪詛のように吐き出す。独り者はいつになっても寂しいものだ、特に仲睦まじい男女を見た時は。

「さっきの話やけど、さぁ」

 イヅルは痛みを紛らすべく空中分解した話題を再構築する。エリーは二つのカップに紅茶を注いでから、一つのカップにあらかじめ用意 しておいた別のポットを傾ける。薄い緑色の茶はパダミヤ大陸原産のリョクチャと呼ばれる飲み物で、紅茶と原材料を同じくするものの まったくの別物だ。家主の好みをさりげなくカバーする慎ましさに涙が出る、羨望の涙がね、と心中で呟く独身ふたり。

「ゆーても俺ら、愛とかなんとかいう感情には程遠い青春送ってた気がすんのやけど。親なんて知らんしなぁ。あ、エドはちぃと違うか」

 話を振られたエドは露骨に嫌そうな顔をする。「親ねェ、」苦虫を噛み潰したどころか生きたまま胃の中で飛び回りつつ溶けていく のを内臓の表面から感じ取ったかような不快を示す表情でエドは二杯目の紅茶を手に取る。かちゃかちゃと二つのポットを片付けてトレイ を持ち上げるエリーに、「エリーも座るぅ?」と、ぽんぽん膝を叩くイヅル。僕の膝は空いてますよぅ、君の為にね!と主張するミント色 のチェックのパンツに今度こそ本気のビンタをくれてやってから、エリーは細い肩を怒らせてダイニングに戻った。薄い生地の下の肌は 大層赤くなっただろう、ざまあみろ。これは全オールドラントの独り身男による鉄槌である。一頻り爆笑してやったところで、エドはまた 複雑な表情を浮かべる。

「確かに俺にゃ親とかいうのは居たが、親らしい振る舞いをされたこたなかったネ。死んだ人間を悪く言うのも何だが」

やりきれない思いで懐のシガレットを取り出そうとしたエドは、友人の前だと気が付いて大人しく机上に手を戻す。こんな言い様でも、 随分と丸くなったものだと二人はしみじみと思った。「エドやん、昔はもっと悪い言い方しとったもんねぇ」テーブルに肘をついたイヅル の言葉に、ばつが悪そうにエドが「しょうがねぇじゃんよ、歳食ったらこうもなるさ」と呟く。無益で愉快な遣り取り、年月を超えた末に いくらか穏やかな時を過ごす友人たちを前にして、フランベルはふーっと息をついた。

「親、もしくはそれに代わる人間からの愛情とかいうものは、かつて少年だった俺たちには不足してたものさ。空しい事にオールドラント のどこにでも居る子供たちだよ。そう、思ってた」
「思ってた、つーのは?」

エドの疑問の声を挟んで続ける。

「子供って、可愛いだろう?子供って生き物はさ、知ってるんだと、可愛くなけりゃ生きていけないんだ。子供は丸裸で生まれてくる。 庇護なくは生きられない弱い存在だ。そう考えたら、一つの疑問が生まれる」

年老いた独りの男は呟く。



「この世に一人たりとも、情愛を受けずに生きるものがいるだろうか?」



 フランベルは想起する。恵まれた帝都、恵まれた家庭に生まれながら、悪習に従って捨てられた自分。存在の抹消を義務付けられた 自分が、何故今に至るまで呼吸を続けているのか。何故心臓を動かし続けているのか。生まれながらにして庇護を失った自分を、それでも 庇護した存在がいたのではないか。記憶には残らずとも、誰かの胸に抱かれた幼い自分がいたのではないだろうか。そうでなくては、今 存在する自分が成り立つ筈がないのだから。

「…その条件は、必ずしも成り立たねェ」

 しかしてぽつりと降ったエドの呟きは正しい。モルモットのように、かの王の実験のように、生を受けても情愛を与えられず、そして 生き残ってしまった哀しい子供たちがいないとは断言できない。また、情愛を受けながらも、正確に受け取れない子供たちもいるだろう。 そういった事例はいくらでも見出せる。この哀しい世界に。
 フランベルの掲げた言葉は、優しい仮定だ。
 覆される可能性を孕む、不安定な仮定条件だ。
 しかし老人たちは自覚する。それぞれに想起する。哀しい子供時代。血と泥水と、糞に塗れた青春。そこに辿り付くまでに、自意識の 目覚めを迎える前に、この身を抱いた誰か。そして、この時この場所に至るまでに、通り過ぎた情愛。

「要するにさ、」

 以外とこの世界、愛に溢れちゃってるかもねってハナシ。
 フランベルは歌の一節のように呟いて、またプレッツェルを口に運んだ。






 情愛を受けずに育った哀しい王様よ、
 貴方には聞こえるだろうか。
 過去から未来まで全ての人間に降り注ぐ、
 祝福の笛の音が。



(尊き御人よ、貴方もまたきっと、情愛を受けておられたのでしょう。)


笛の音がきこえる

09/07/05