「君は、戻りたいと思ったことはあるかい?」
いつだったかロランがそう聞いてきた。ありゃ任務明け、いつもの面子でダアトの場末の酒場で一杯やっていたときだったか。酔いつぶれたハトリの柔らかい髪をくるくるとロランの指先がなぞっていたこと、野太い声の女歌手が一昔前に流行った歌を謡っていたことが妙に記憶に残っている。
「…ああん?」
「例えば、君の人生がひとりの脚本家の筋書き通りの喜劇を演じているとしたら。終幕のとき、君はそのまま幕を下ろすか、それともふりだしに戻って喜劇を演じなおすか、ということさ」
「いちいち訳のわからん例えを持ち出すな、てめーの悪い癖だ。話せば話す程迷宮入りじゃねえか」
「君の答えは?」
コツ、コツ、とテーブルを叩くロランの指が気に障る。仕方なく思考の海に沈めば、すぐに浮上する。「戻らん」と俺は答えていた。奴の言うとおり、この生が誰かさんの筋書きの通りの一幕なのだとしたら、繰り返すまでもない。女歌手の歌声がボタンひとつで停止して、巻き戻されて気に入りの一節を何度も何度も繰り返すことができないように、すべては流動し、止め処なく流れていくのだから。だから俺にはふりだしへの道が示されようと、もう一度この生を歩むことはあるまい。どれだけそこに甘美な果実が実っていたとしても。それに、こんな生をはじめから繰り返すのはめんどくせーにも程がある。
ロランは、それを聞いてくすくすと笑った。その小娘みたいな気持ちわりー笑い方をどうにかしろと再三言っているのだが。俺の返答に満足したのかしてないのかは分からなかったが、ロランはまた場末の歌手の歌声に耳を傾けた。先ほどの俺と同じように。もう次の曲が始まっていた。音割れの酷い音盤が、録音されたベルの前奏を奏でる。このナンバーは、
「…もうすぐ、冬だな」
カツコツカツコツ、石畳を鳴らす靴音のオーケストラ。生憎デュオではあるけれど、相手がかわいい坊っちゃんとなるなら話は別。口寂しさを慰めてくれる一服も、今日ばっかりは御用だ。何たってこんなに金木犀がいい香りをしているから。それに、坊やは煙草が嫌いだ。不健康だなんだと言って。ニコチンの虜となって久しい指がそれでも遠のいてしまうのは、俺にとっちゃそんなモンよりずっと坊っちゃんのほうがあンまい甘露なのさ。はてさて、俺サマはいつのまにやら、こんな歯の浮きそーな台詞を思い浮かべるようになったのかね。
「オイコラ、きーてんのかおっさん」
はいはい、きーてますよきーてます、ルリ坊っちゃん。で、何の話だっけ?
「やっぱり聞いてねーじゃん、おっさんはいつもそーだ!」
あれま坊っちゃん、ぷいっとそっぽを向いてつかつか歩き始めてしまった。せっかくのご機嫌を損ねちまったな。仕方ない、この通りを抜けたら売店にでも寄って甘いもんでも買ってやろう。子どもは甘いもん好きと相場が決まってる、坊っちゃんだって例外じゃない。ルリの坊やはホットチョコレートが好きだ。それもクリームをたぷたぷに乗せた、甘ったるいの…
おおっと危ねぇ危ねぇ。坊っちゃんの靴を踏んじまうとこだった。幸い気付かなかったようで、坊っちゃんは前を向いたまま歩みを止めない。ルリと歩くのは少しコツがいるのだ、この子の歩幅は俺よりずっと狭いから。坊主が一歩と半歩歩いてから、俺はようやく次の一歩を踏み出す。それが一番いい。ゆっくり歩くくらいがちょうどいいのだ、金木犀が揺れる並木と、同じように揺れるルリの背中を眺めるくらいが。そんなことをしていたら、たまーにこっちに振り返ったりするから油断できねぇ。その顔がまた小憎たらしいんだ、これが。不意をついてやったことに満足げな、頬をへっこませたえくぼをおまけにして。
だから俺さまだって反撃してやる。足を広げて、坊っちゃんの一歩の間にタタンと地面を踏めばすぐにふたりの足並みは揃う。ルリのお坊ちゃん、お手手がお冷えではありませんか。私めのポケット風情でよろしければお招きいたしましょう。ロランの奴みたいに芝居がかった台詞で、軽く会釈しながら。そして上目遣いで名前通りのラピスラズリの瞳を見つめれば、宙を泳ぐ視線はやがて俺のくすんだ朱色の中に着地して、それからまたぷいと逃げてしまうのだ。
それから唇から漏れる、短い了承の声。俺は口の中でくっくっと笑った。たまんねーよ、坊っちゃん。そんな風にかわいい顔ばかり見せるものだから、おいちゃんはほんとーに困る。そこんとこきっと分かってねんだろな。なあ?
ポケットの中で握った手はすっかり冷えていた。おいおい、冷えすぎだろーよ。こんな冷え症だって知ってたら、手袋の一つでも買ってやるんだったな。決めた、今日は奮発して手袋も買ってやろう。ぼーずにはどんなデザインが似合うだろう、あんまりカラフルなものはガラじゃないって言って敬遠するし、地味すぎてもオバンくせーかな。この季節あの可愛いオトモダチと冬モノ目当てにウィンドウショッピングもするだろうし(彼女はいつも風みたいに坊っちゃんを連れて駆けていく)、ちっとくらいおめかしもいいだろう。そーだ、白はどうだろう。うん、色は白だ。ファーがもこもこついてんのがいい。俺の黒いのとセットに見えるし。おいおい、結局自己中かよ俺さま。
はたと俺は気付いた。坊っちゃんは手先が良く冷える、それにしたって冷えすぎだ。だって今の季節は秋だ、金木犀がぷんぷん匂う秋まっさかりだ。ほら今だって、鼻孔をふわりとくすぐる香りが、
しない。
金木犀が、匂わない。
「なあ」
ルリが口を開いた。さらりと流れる亜麻色の髪。こんなに長かっただろうか。頭には黒いカチューシャ。なんで。なんでだ。ポケットの中の手は嘘みたいに冷たくて、地面を踏みしめるたびに靴はキュッキュと非硬質な音を鳴らす。
これは雪だ。
俺は雪を踏んでいるのだ。
何がなんだかわからなかった。さっきまでルリと俺は雪なんてない金木犀並木の下を歩いていた。だけどもうその鼻につくような甘い香りはなくて、ただつめたい風が吹いている。冬の訪れを感じるような。
なあ、坊っちゃん。俺は何がなんだかわからねえ。だから教えてくれ、どうか教えてくれ。なんで、なんでお前は、
そんな、哀しそうな顔をするんだ?
「なあ、シナモン。戻りたいと、思うか?」
ぶわあっと風が吹く。雪のある道の向こうの向こうに何かが見えた。何だ、あれは何だ。
子どもがいる。それから、その母親らしき女がいる。子どもはの髪の色はすすけた赤で、母親のほうは甘い亜麻色。女は子どもの手を引いて、白い石碑の前でかがみこんだ。あれは、墓だ。ふたりは墓を参っているのだ。なら、あれは誰の墓だ。誰の墓だ。
誰が死んだのだ。
誰が死ぬのだ。
そして、誰が残されて生きてゆくのだ。
女は俺に問う。俺は。俺は、俺は、口を動かす。答える。彼女に答える。
「戻り
たく、ない」
風が吹いた。
びゅうんと大きな風が吹いて、それと一緒にぷうんと、金木犀のきつい匂いが鼻をつく。思わずげほっと大きく咽たのを、隣のルリはくすっと笑った。
「おいおい、おっさん年かよ」
「…これ、金木犀か」
「当たり前だろ、冬はこれから来るんだぜ」
「そっか」
これから、来るんだな。
怪訝そうな顔をしたルリの、ポケットの中の手をぎゅっと握る。そしたら顔がぽっと赤くなっちまって、そのまま足元に視線を落としてしまった。ふたりの足音が鳴る、石畳の上で鳴る。カツコツカツコツ、絶え間なく、これまでも、これからも、この歩みを止めるまでは。冬をしのび、春を歓び、夏を浴び、秋を迎える日々を。戻ることのない時の流れを、足を揃えて。たとえ片方の歩みが止まろうとも。
過去に記されたよろこびだけの記憶を繰り返すことよりも、かなしみや嘆きを伴うであろうとも、新たな未来を俺は望む。
―――だから、手始めにこの冬を耐え忍ぶキュートな手袋でも買ってやりますか。
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