「ナナさん、お出かけしましょう」

 ジョカが俺に弾んだ声で提案するのは大体煩わしいことだ。今回も他例に漏れず、ジョカの手には夕日色のバスケット。反射的に相槌を 打った俺の手を引き引き、ダアトの町並みを抜けると、見た顔が辻馬車の前に三つ並んでいた。俺とジョカを見受けるが否や、ぶんぶんと 白い両手を振るのは、ジョカがともだちだとか何とか言って以前俺に示した少女だ。
 名前は何だったか、といまいち状況が掴めないまま考えていると、振り返すジョカがティアラと呼んだ。そうだ、スティアーラ・サリア だ。背後に立っているのはその両親だった。三人そろって間抜けな緩んだ笑顔、ふわふわとした髪に、綿菓子のようだなあとどこかで思っ た。
 適当に相槌を打ちつつ話を聞いていると、お出かけというのは彼ら三人に誘われたものだったらしい。仕事熱心な父親殿の貴重な家族 サービス、娘と交流のあるジョカはともかく俺が参加してもいいのかと疑問を抱いたが、乗り込んだ辻馬車の中では不思議と俺を話題に含めた 会話が成立している。ジョカにしても、この家族にしても、ダアトの人間はどうしてこう暢気なのか。
 こんな家族ごっこのような生暖かい交流も何も、最近までは存在しなかったものだ。それをもたらしたのが、俺をはっ倒してダアトに 連れてきた、そして今現在隣でへらへら笑う男だと思うと偶に無性に殴りたくなるが、どちらにしろ俺に変化を与えたことは確かなのだと 思う。俺にとって有益にしろ、無益にしろ。

 辻馬車が止まるまでそれ程時間はかからなかった。窓側の父親が客車の扉を開けると、ふわりと圧縮された空気のようなものが中に入り 込んでくる。鼻腔をくすぐる甘ったるい芳香。ティアラと俺の隣のジョカが一番に席を立って、跳ねるように辻馬車を出る。
 窓に近かったティアラが先に地面にふわと着いて、さながら羽のように軽く着地する。続いてジョカが傍目にも明らかに期待を隠し切れ ない様子で飛ぶ。同時に上げる驚嘆の声。大人ふたりに続いて辻馬車を降りると、目の前には一面の花畑があった。大人たちも一望して 父親はひゅうと口笛を吹き、母親は口の辺りを押さえて目を輝かせた。ジョカやティアラのように声を上げずとも、俺も一瞬息を呑む。
 花だなんて興味もなかったので、足元の花の名前すら皆目検討がつかなかったが、圧倒された気分だった。ダアトの近辺にこんな 場所があったとは。切り立った崖になった眼下に、ダアトの全景が見えた。崖の先には古ぼけて苔生した石碑が立っていて、ここは巡礼の 順路なのだろうと推測する。俺の視線に気付いたのか、満足げにクリーム色の髪をかりかり掻いて男が「第二十五石碑だよ」と言った。

「初めて訪れた巡礼者には判りにくい場所だから、観光にはいささかマイナーだし、最近は巡礼者自体少ないんだけどね。ま、一年中ダアト を走り回ってたらこんな穴場も見つけられるって事だね」

 ガキ二人が爛々と青と赤の瞳を瞬かせて男に向き直る。おそらく父親の言葉はあまり聞こえていない。俺は知っている、あいつらの瞳は 魔獣使いの指示を待つライガの瞳だ。男は呆れた様子で、しかし微笑ましげに笑いつつ、ひらひらと手を振って行っておいでと口にした。
 途端に歓声を上げて駆け出すふたり。花畑の中心まで脇目も振らずに走りきる。舞うようなステップ。きゃあきゃあ声を上げて、ふたつ の影が花畑にばふと埋まる。あいつら何歳だよ。
 やれやれと見送った父親は、乗り手に懐から取り出した硬貨を支払いつつ辻馬車に戻って、置いたままだったバスケットをふたつ持って 来る。ひとつはジョカが持っていたもので、もう一つは家族が持参したものだ。前者はジョカによると彼の義理の母親、確かアンジェリカ とかいう女が用意したものらしく、アンジェさんの料理はサイコーっスよ、と胸を張りえっへんと主張していた。ジョカに誘われて何度か その女の料理を口にしたことがある為、その点にはまあ同意する。ジョカ同様鬱陶しい女ではあるのだが。あの親子はよく似ている。
 いそいそと自分が持参した方のバスケットから出した小さなシートを引いて、一段落と息をついて腰を下ろす男。「ナナくんだっけ、 君も座ったら?」促されるままにシートの上に座り込む。プティきみも、妻に目を向ける夫をよそに、女は辻馬車を降り立った時と同じ ように立ち尽くしている。白いふわふわした髪が甘い香りを伴う風に靡いて、ほうと息をつく。
 今度こそ男は呆れ顔を浮かべた。諦めたように呟く。「プティ、行きたかったら行っておいで」夫の言葉に彼女はぶん、と音が付く位 俊敏に向き直った。表情にはあからさまな期待の色。

「え、でも、わたし、お母さんだし」
「だけど、花畑好きでしょ?花畑に埋まりたいんでしょ?」
「………」

 行ってきます、と、言うが早いか今まで押さえ込んでいたものを放出するように地を蹴る女。きゃーっと声高く駆けていく。先着のふたり に加わって色彩豊かな自然の絨毯に倒れこんだ。無邪気な喧騒が一層重なって、男はそれを聞きつつ後ろに寝転ぶ。ああどいつもこいつも、 間抜け顔だ。
 溜め息をひとつ。それが、自分でも判る位に倦怠感を含んだもので、驚く。ふいに冷めた自分に気が付いた。
 甘ったるい香りの中で戯れるやつら、傍らで幸せそうに寝転ぶ男。自分だけが異質のような気がした。目に痛いくらい色素に溢れた世界 で、俺だけが別物のようだった。訳のわからない、苛立ちと、居心地悪さ。
 来なければよかった、という言葉が自然と頭に浮かんだ。すると、同じシートに身を預けていた男がすっと身を起こす。

「退屈かい?」

 ああ、どうやら先程浮かんだ言葉を口に出していたらしい。面倒臭いな、と思いつつ、別に、と素っ気無く返す。俺の態度に腹を立てる こともなく、男は口角を上げた。

「若い頃は、そんなもんだよ。僕にも君みたいな時期があったな」

 男は相変わらず間抜けな顔で笑みを浮かべる。垣間見えたのは大人の余裕とかいうものだ。反感のような苛立たしさが湧いてくる。殴り つけるために握り締めた拳は辛うじてそれを為さず、シートごと下の地面をぐっと引き寄せるに終わる。搾り出すような自分の声。

「俺はあんたみたいにご立派な人間じゃない、ナノ」

 ナノの表情がぴしり、と止まった。ナノ、野原で転がっているふたりの夫で父親。詳しくは知らないが、彼が教団の要人だということを 俺は知っていた。妻と子供を持ち、教団に貢献する、恵まれた男。
 そりゃ立派だね、あんたはなんでも出来る、その両腕でなんでも出来る。
 俺は漸く、不快感が自分と正反対なこの情景に、恵まれたこの男に向けた反感であると理解した。俺は皮肉った笑いを浮かべた。静止 した男の横顔が、影をもつそれに変わる。「ナナくん」先程までと調子の違う、冷めて落ち着いた声色に少し驚いた。

「僕は褒められるような人間じゃないよ」

 そう呟くナノ。その表情は、歳若く見える容姿も相俟って、少年のようだった。ふ、と息を吐いて、男はまっすぐ両腕を伸ばした。 「僕にできるのは、」視線を前に向けたナノに倣って、花畑に向き直る。気が付くと、くるくると、不安定なステップを踏みつつ、彼の妻 が戻ってきていた。わ、と、倒れる前に引き寄せる。彼にできるのは、その両腕で出来るのは。

「彼女を受け止めるくらい、かな」

 彼の表情は既に夫で、父親のそれに戻っていた。勿論、ティアラもね、と歌の一節のように付け足して、腕の中の妻を抱き寄せる。きゃっ と声を上げて、それでも彼女は花のような笑みを浮かべて身を預けた。
 俺はまた、花畑に視線を向ける。花畑の中心で、ワルツを踊るように、ステップを踏むふたり。両腕を目一杯伸ばして、くるくると、 くるくると、回る。
 俺は惹かれるように立ち上がる。直ぐに、気付いたジョカが、俺を呼んだ。気紛れにその手を取って、酔狂なワルツに加わる。揺れる 視界、不安定な爪先。うまく回れない。ふらつく俺を支えるジョカの両腕は、魔法のようだ。
 ふたり、倒れこむように花畑に転がる。巻き添えになるまいと、きゃーっと声を上げて、両親の元へ逃げていくティアラ。仰向けに なった俺と、うつ伏せのジョカ。両腕を広げたまま、手は繋がれたままで。
 ふいにジョカが、なにかとても偉大なものに見えた。ジョカは地面に両手を広げている。その両腕で、地面を抱えている。ああ、お前が 抱いているのは、この星だ。らしくもなく思い付いたまま口にすると、ジョカはへへ、と笑って返す。

「じゃあ、ナナさんは空を抱えてるんですね」

 ナナさんは、空に両腕を広げているから。
 そんな大層なものは似合わない、即座にそう考えた。かといって、ナノのように人ひとり抱え込むのは重過ぎるし、面倒だ。
 だからジョカ、お前も俺を支えろ。
 ジョカの言うように両腕を広げたまま、思う。星と抱き合う両腕で俺を抱け。それなら俺もお前を抱いてやろう。俺に出来るのは。この 両腕で出来るのは。口には出さない。誤魔化すようにそっぽを向く。視線を逸らした先に、一家が笑って手を振っていた。


ダ ブ ル ラ リ ア ッ ト

09/07/16