プラティナ・トラディスとフィウル・ハノン、その子供

かけらのゆくさき

 本の角は凶器だと言うが、エンドリナはまさに今それを実感していた。
「もう正気だ」
「しってる」
 垂直に下りてくる聖書という名の鈍器を眺めながらとりあえずの弁明をする。馬乗りになった女は手を止めずそのまま凶器を振り下ろすが、ぴかぴかと光る氷の粒が遮る。無意識の冷凍で空気が凍っていた。女は観念したか聖書を放る。ソファーがきしむ音がして、おそらく其処に墜落したのだろうと推測する。彼女の獲物である其れは酷く頑丈にできているらしい。いい加減ページのひとつも千切れそうなものを。
「手を見ろ」
 キアンティ・ニコル・イェルクシェックの養豚場の豚を見るような視線に従い、投げ出した右手に目をやる。元は花だったものが氷の欠片に砕かれていた。師団の倉庫整理を手伝った時、その花とおなじ名前の少女から礼にと手渡されたものだった。一度凍ったのが、ニコルに引き摺り倒されたかなにかで床に叩き付けられたのだろう。
「…ああ、そうか」
 エンドリナは、偶にこうなる。
 最初はただ眺めていただけ、だったようにおもう。ああ、きれいだ。綺麗だ。気づいたときにはニコルの下にいて、花は砕けていた。何故かはわからない。多分エンドリナは失うことがこわいのだ。だから、凍らせてしまうのだろう。時を止めてとっておきたいのだと、おもう。推測に過ぎないが。
 つらつらとそんなことを考えている間に、女の体重から解放されていた。手先はかすかに凍っていて、忌々しげに舌打ちをひとつ。ニコルは治癒士でもあるが、自分の傷を治すのは滅法苦手なのだ。
「あたしはお前なんぞ治さない。医務室にでも行け」それだけ言うと部屋を出て行った。自分で殴ったのに無責任なとおもう。額から血がながれた。それでも、そのままそこで倒れたままにしていた。粉々になってとけていく花をみていた。

エンドとニコル



歌うように、歌うように

 おなかすいたっスね。すいたなあ。アンジェさんの所でも行きますか。そうだねえ。じゃあなんで動かないんスか。ジョカだって。仕事、終わったんスか。終わったよ。ならいいっスね。いいよね。
 ジョカフェリテはエドワルドの真似をして寝転がった。見上げれば、雲ひとつない、なんて言いたくなる程一面の青だ。おれはいつかあの空にかえるのだろう。歌が大気に溶けるように、おれもエドも空にかえるのだ。それはどんなに爽やかで―――怖いだろう。

 ジョカの名前って、どういう意味か知ってる?エドがふいに言う。そりゃ、知ってるっスよ。アンジェさんから、耳にタコが出来る位聞いたっス。幸せに、生きろ、か。天使の願いがそのまま、おれの名前となったのだ。偉人にあやかって、どうしてもジョの付く名前にしたかったのだと笑って言われたときは、流石に噴出したけれど。君は、幸せ?『繁栄の守護者』エドワルドは、口ずさむように問う。幸せっスよ。そうかい。僕も、幸せだ。エドの言葉は、彼の目とおなじあおい空に吸い込まれていった。

 おれたちの前身たるひとは、こんなに青いそらをしっていただろうか。空にとける幸せと恐怖を知っていただろうか。歌うように、歌うように、我らもまた、生きるのだ。

ジョカとエドワルド(特務師団副官、ヴァンレプリカ)



最悪の男の最高の愛

 ああ、なんて僕は力の無い存在なのだろう!生まれ出でて20数年(というのは確かではない。物心ついた時から男だか女だかの肉に触れてきた僕に誕生日なんて洒落たものは確かではなかったのだ)僕はおよそ人間というものの持つ感情すべてに触れてきた筈だ。女に男を男に女を空っぽの腹にはきつい酒と甘味を涙に塗れたバラの頬には潤った口付けを!求められるもの与えるべきものを僕は全部知っていて、それだけで生きてこれた。そう僕は誓ったのだ、人間の持つ限りの全てを手に入れると!そしてそれは叶えられた。叶えられたのだ。そこらの下卑たバーでウィンクひとつすればいくらでも女が釣れ、自分から金を積んで柔肌を剥き出す女もいる。その日の気分で告げた誕生日には高級ブランドの時計やらなにやらが届く。酒ならなおいい。僕の望みは全て叶えられたのだ。叶えられたのだその筈だったんだ!ならば僕は何故彼女に触れられないのだろう。他の女と同じように抱擁して頬にキスしてそれから ―――
 下衆だ。僕は下衆だ。そんなことができる筈がない。できる筈がない!下らない女共に触れたのと同じ手で彼女に触れられるものか。彼女を前にすると口の中がからからになって足がすくんで顔がどうしようもなく熱くなる。その理由を僕は知っている!(ああ、嘘のようだ!)

愛 し て く れ と 言 っ て く れ

 そうしたら僕は、(できるだろうか、彼女に触れるなんてことが)

ティオ(→アズサさん)



マリオネットのまあるい瞳、涙なんて流れるはずもない

 おれは何で生まれてきたんでしょうねえ。古傷までもが開いてぼろぼろになった手のひらをみつめてジョカはぽつりと言った。馬鹿なことを、とヌエは嘆息する。足元には虐殺されたオリウェイル。禍々しい緑色の血流の中に混じっている赤は紛れもなくジョカのものだ。薄々感じていたことだがジョカは痛みを知覚していないようだった。ヌエが止めなければ、緑色と赤色の血が全て流れ出るまで殴り続けていたかもしれない。吐き気が、する。
「馬鹿なことを」
 そう口にすると、酷いっスね、といつもの調子でへらりと笑った。光のすくないがらすだまのような瞳がヌエを捉えていた。剥き出しになった右半分の顔から無残な古傷が覗く。彼の前身が負ったものだ。
「おれのからだはガラクタなんスよ、気にすることなんかなんにも」
「アンジェさんが悲しむ」
「そうそれそれだけ。親不孝はいけないっスねえ、はやく治さないと。アンジェさんは泣き虫っスからねえ」
「それだけじゃ、ない」
 思いがけず強くなった口調。ジョカは無感動にがらすだまの瞳をよこした。頭の奥がちりちりと痛む。おまえが痛いだろう!そう口にした、筈だった。口が動かなかった。いいや痛くなんてありませんおれはもう痛みも感じません人形みたいに、と今のジョカにあっさり口にされることが予想できたかもしれないし、それを肯定されるのが怖かったのかもしれない。ヌエは何も言えなかったしジョカも何も言わなかった。
 ジョカが帰りましょうかと口にした。例の奇妙な立ち方をしたままのジョカが歩き出す前に足を進める。待ってくださいよお、そう平坦な声が聞こえた。
 はやくかえろう。
 帰ったらまたいつもに戻る。
 迷子のような泣きそうな目をしたジョカに触れられるはずが無かった。

ヌエさんとジョカ



ベイビィ・フェイス

 訳も分からぬ侭わたしは瓦礫の隙間から這い出した。爆音が聞こえる。キムラスカの譜業爆弾が白い島を焼き尽くしている。今も其処彼処に火炎が見えたからそれがわかった。何しろ耳が上手く働かないのだ。どうやら爆発はそう遠い場所ではなかったらしい。
 ちっぽけな家屋は原型さえ思い出せない程に粉々だった。這いずったまま辺りを見回す。土産に持って来たいくつかの果実がぐちゃぐちゃになっていた。ああ、違う。これは果実などではない。先程まで女だったものが肉片になっていた。綺麗に手入れされた爪が見えたから女、いや元女だと把握できた。
 頭が霞みがかったようにぼんやりとしている。戦争が起こったのだ、としかしわたしの頭は冷静にその事実を捉えていた。爆音。爆音が止まない。彼らの攻撃はいつからはじまったのだろうか。住民区から侵略を受けるとはおもわなかった。爆音。また爆音。わたしは畜生、と呟いた。
「畜生ぉッ!」
 わたしは地獄の底から叫んだ。
 すると、どうだろうわたしに応えるように、
 耳を侵すうめき声と絶叫と爆音が一瞬、消えた。
 おぎゃあ、と、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 直ぐに飛び起きた。顔がぴりりと引き攣る。気にもならない。声は元女の下から聞こえた。赤ん坊は、生きていた。女が庇ったのだろう。しかし安心できる状況ではなかった。健康的だった柔らかい頬が焼き焦げていた。肌という肌が爆撃の制裁を受けていた。右足は迂闊に触れば取れてしまいそうだった。生きているのが不思議なくらいだった。
 わたしは彼女を抱き上げる。そうだこの子を治さなければ。治すという言葉では追いつかない。創らなければ。欠損だらけのこの小さな体を、もう一度。女の腹の中で赤ん坊の存在がつくられたように。そうだ。わたしはこの子の母親になるのだ。
 肉片にまみれた赤ん坊は弱弱しく、泣いた。
 わたしはふらりと立ち上がった。帰らなければならない。此処はもう御終いだ。白い島はもう赤しか見えなかった。ゆっくり、と、歩く。歩ける。ばらばらになった鏡にわたしの顔が映る。わたしの顔の半分はグロテスクに溶けていた。丹念に伸ばした髪も途中で焼き切れていた。気にもならない。

「―――、ら、ティ、」

 男の声が聞こえた。声というのもおこがましいほどかさかさに掠れた音。まって、まってくれ、プラティナ、助けてくれ。そんな風な音が聞こえた気がする。気にもならない。わたしは歩いた。爆音が聞こえない。わたしはもう何も聞こえなかった。腕の中の赤ん坊の鼓動以外はなにも。

(わたしの名前をあげよう、わたしの赤ちゃん。)