二人目の魔王の、

 失言だったか、とは感じた。少年の表情が一瞬消えて、彼特有の子悪魔のような笑みではなく冷酷な笑みが浮かんだ。は、とした一瞬の 隙に、遊ばせていた右手が捻り上げられた。押し退けようとした左手は容易く受け止められる。8つも年が離れている為に少年との体格差 は一回り程はないにせよ小さくは無かったが、軍人を志す彼と医師を志す自分とでは体のつくりが違うのだ。成す術もなく少年の表情を 伺うしかない。嗜虐の光が桃色の瞳に宿るのが分かった。
叶う筈ないんだから、って言ったよな?」
 少年はシトロンの言葉を反芻する。シトロンの表情に怯えの色が見えると、少年はなお口角を上げた。
離、せっ」
「そうだなぁシトロン位慎み深けりゃ叶うはずもないか。でも考えてみなよシトロン?」
 気遣いもなにもなくただ乱暴に、ぶん、と放り投げられる。計算済みだったのか、着陸先には取り替えられたばかりなのだろう純白の シーツ。そのお陰で負傷せずにすんだが、シトロンはもっと最悪な事態が訪れることを予感していた。
「ここにいるお前は簡単に手に入るよなぁ?」

 そこにいたのはニヤ、と小気味良く笑う少年ではなく、なにか別物の、




イヤー、ノー、イヤー、イエス

「骨導」  ふいにシトロンの口から喘ぎではない意味を持つであろう言語が漏れた。聞きなれぬ響きの上に木の葉の擦れるような囁きだった為に、 「何だって?」と聞き返しても、シトロンは答えず「外耳道、耳殻」とうわ言のようにしかしはっきりと単語を並べる。
「何の話だよ」
「鼓膜、前庭窓、槌骨、砧骨、鐙骨、三半規管」
 やっと聞き覚えのある単語がいくつか見つけられた。人体における耳の構造、とシトロンは呟き、それが疑問の答えであると推測できた。 蝸牛、聴神経、耳管と続き、シトロンは親譲りの尖った耳にゆらりと手を伸ばした。ふいに体が硬直するが、成すが侭に愛撫を受ける。 今彼を組み敷いているのは自分であったのに手玉に取られている気分になる。可笑しな話だった。
「可笑しな話だ」
 一瞬思考を読まれたような錯覚。かたちはまるで違うのに同じものがここに詰め込まれている。荒い呼吸の中でシトロンは感慨深げに 呟いた。その言葉は、自分と彼が共有していた感情にも当てはまるのかもしれない、と頭に過ぎる。耳も顔も表情も髪も全部違うのに この身を動かしているのは彼と同じ、一番愛しいものへの情愛だった。
「何も可笑しなことなんてないだろ、お前のと一緒だ」
 きっと同じなのだ彼と自分は。
 尖った耳を弄ぶ右手だけはそのままに、シトロンの上半身をシーツに押しやる。彼の小難しい考え事を隅に押しやるように。
「何も考えられない位イイ所に連れて行ってやるよ」
 ニヤ、と彼のいう子悪魔のような笑みを浮かべ、笑い合う。獣同士の交接のように原始的な営み。奪うように口付けした。




つまり俺は恋をしている!(認めたくはない!)

 少年がニヤ、と笑むのが分かって俺は頭を抱えてデスクに突っ伏したい気分になった。(オフぐらいほっといてくれ)彼と俺の付き合いは 自慢でもなんでもないが(断じて!)そこそこに長い。彼と少しでも面識のある人間の中で、何人の人が彼の笑みに種類があることを 知っているだろうか。(知りたくも無いが)見てみるがいいあんな風に笑うのは絶対、何か考えている時だ!(そうまたろくでもないこと を!)
 冷静に考えてみろ。俺は今年でもう19なんだ、来年には大人に分類されるようになる。(だというのに!)8つも年下の少年の一挙一同に 反応する暇などないのだ!(そんなこととっくに理解しているとも!)
ああ彼は知っているのだろうか。(いや奴は知っているんだろう。知っててまた子悪魔の様に笑うんだろう)彼が笑うたびこんなにも 俺の心臓が煩い位に波打つことを!(畜生!)




残照

 天井が、見えた。裸眼だったが、見慣れてしまった光景から、移動させられていないことが理解できた。既に室内に彼の気配はなく、 立ち去った後のようだ。希薄な視界。眼球を動かすことさえ負担になる気がした。指先からつま先まで力が入らず、ずっしりとした 疲労感があった。腹や腰だけでなく顔面が痛んだ。お互いにこの関係を知られては立場が危ういので、顔を殴らないのだけは暗黙の了解の 筈だった。酷く、打たれた頬が痛む。しかしシトロンの表情にはなにも浮かんではいない。ただ、疲労していた。初めてこの行為を強要 された時にさえ感じなかった程の脱力感と疲労感がシトロンの感覚を支配していた。
 ざまあみろ、と言ってやった。もう少し言葉を選べたのかもしれないが後悔はなかった。本当の事を言っただけだった。いつもそれで 損を見る。良く言われることだが、これがシトロンの性だった。彼に遠慮をしてやるつもりはなかったから有りの侭に言ってやったのだ。 何も間違った事は言わなかった。シトロンにとっても、彼にとっても、何も間違ったことは言わなかった。ただ真実を口にしただけだ。 なにか間違っているか言ってみるがいい。ざまあみろ。
 体のあちらこちらから発せられる苦痛のシグナルを無視し、体を折り曲げた。猫のように丸まる。シーツの中は酷く寒く、孤独だった。 彼がいない。行為の熱はとっくに冷めていた。温度を求めてさらに丸まった。独りだった。
彼がいない。眼鏡は何処にやったのか。何も見えなかった。居ないのだから見える筈なんてない。分かっている。分かっていた。
 彼がいない。涙が止まらなかった。何で泣いているのかさえ見えなかった。眼鏡、眼鏡をくれ。生まれて間もない痣の残る手はどうしても 動かなかった。

、    」

 彼がいない。
 声さえ出ずに独りで泣いた。




ジャスト・ファースト・アイライト

 シトロン・ソーダがその少年と出会ったのは、ダアトに到着して2日、3日も経たない内だった。曖昧なのは、シトロンが11歳だった 時の記憶だからだろう。今年で19を数えるシトロンにとって8年も前の話だ。おぼろげに覚えているのは、みたこともないような 鮮やかな赤を持った女性の影に隠れる幼い少年。今数えてみると、3歳だった。母親である女性と同じ鮮やかな赤。瞳は怯えているのか わずかに涙を溜めていたが、宝石がそのまま埋まったような桃色の眼には確かにシトロンの姿が映っていた。
「ほら、挨拶して」
 促す女性の声はどちらのものだったか。少年は母親の服の裾を掴んだまま動こうとしない。興味は持とうとしているものの、人見知りする 性質なのだろう、足はすくんでいるようだった。シトロンは傍らの心配げな彼女に笑いかけて、大丈夫、と言った、ように思う。
 恐れを抱かれないよう、歩を進めた。姿勢を下げ、目線を合わせてやる。8つ違いの背の差は大きく、膝を付かなければ目線が合わな かった。敵意を抱かれることはなかったようで、ほっとため息を付いた。手を伸ばす。
「はじめまして、シロップ。おれと友達になってくれるかな」

 出会った時から縁が生まれるのだとある人はいう。幼いシロップはおずおずと手を伸ばした。紅葉のようなちいさな手がシトロンの手 のひらの中にすっぽりと収まる。握り返したシロップの手。そして彼とシトロンの縁は確かにここで結ばれた。

シロシト5部作