願い星はひとつきり

 いつまで自分は、この人の中に残っていることができるのだろう。ジョカは何度も反芻した問いを繰り返す。きっと自分は何を残すこと もできないだろう。ジョカの私物は少ない。身に付けているものは一緒に消えてしまうだろうから(今まで何人もそんな同胞を見てきた のだから)。外套も、包帯も、残らないなら、何をこの世界に残すことができる?そんなものは記憶しかないのだ。けれど誰が覚えていて くれなどと言えるだろう。いつまで、いつまで、彼は自分を覚えている?先に逝く自分には知りようもないが、確かなことがひとつだけ あった。自分は彼を覚えている。ずっと。自分は女ではないから子を宿すことはできないが、自分が大気になって歌になって音になった 時も自分は歌い続けるだろう。何時だって叫んでいたいのだ。歌うように、歌うように、愛を、叫びたい。天使のように。天使になれる ように。
「ナナさん 、」

 溢れてしまう位にあなたを下さい。
 あなたの為に歌うから。

ジョカ(→ナナさん)



世界の果てまで共犯者

「カデンツァ」
 それは突然のことだったから、カンタビレは思わず機械的に動かす右手を止めた。導師から回された毎度横暴な量が積み重ねられた 書類の隙間から、ナノの柔らかいベージュの頭部が見える。ナノの目線は変わらず書類に向かっていたが、ペンの動きは止まっていた。 ナノが零した音は極めて短く単調で、上ずってもいなければ強張ってもいない。休憩にしましょうか、だとか、そろそろ食堂に行く? だとか、そういう他愛もない日常の会話と変わらない響きだったから、尚更その音は室内できらりと際立って光った。
「今、何て?」
 カンタビレが聞き返しても、ナノは、ううん、と曖昧に返すだけで、視線も相変わらず合わなかった。
 カンタビレをファースト・ネームで呼ぶ人間は僅かだ。少なくとも「カンタビレ」や「師団長」に比べては。カンタビレは十数年前に 師団長職から退いていたが、長くその職を続けた名残か、「師団長」と呼ばれることも少なくなく、ナノもその内の一人だった。別段 気にすることもないが(むしろ「師団長」の方がしっくりくる)、他に呼び方はないのかとは言ってみたものの、「師団長は僕の師団長 だから」と笑うだけだった。だが、先程の言葉が空耳でないとしたら、どうしたと言うのだろう?マフォットあたりに話したら「空耳 ですよ、老化ですか」などと言われるかも知れない。もう少し上司に威厳を払えよな。
「貴方は、師団長だよね」
「…ん?まー役職は変わったけどな」
「師団長だよね」
「まーな」
 師団長じゃない貴方も見ていたい、と、ぽつりと口にする。ナノは顔を上げて、笑った。視線が交差する。もっと、もっと、貴方を見せて くれ。ナノが笑うのと一緒にカンタビレは太陽のように狡賢い狼のように笑う。笑みが交差して、どちらからとも言わず噴出してしまった。
食堂行くか、とカンタビレが口にした。ナノはペンを放り出して返事を返す。随分座りっぱなしだったせいで、筋肉が凝り固まっていた。 立ち上がったカンタビレに続き執務室を後にする。食堂へ続く真っ直ぐな廊下。数歩前のカンタビレに続いて数時間ぶりに足を動かす。

「駄目だって言っても付いていくからね?」

 ばーか、駄目なんて言うか、とカンタビレは振り返らずに返した。きっと彼は笑っているだろう。ナノの表情にも自然と笑みが浮かぶ。 一生、彼の傍で走り続けると決めたのだ。
 壁時計は午後の2時を指している。客足のピークは過ぎているから、手際よく食事にありつけるだろう。昨日は丼ものだったから、 あっさりしたものがいいな、などと考えながら、ナノは室外の新鮮な空気を胸に取り込んだ。きっと今日は快晴だ。

ナノと師団長



ジェミニ

 あいつの考えていることが分からない。それはずっと昔のことからだったように思える。俺があいつと出会ったとき、俺は11で、あいつは 2つだった。…何時の間にあんなに成長したのか。2・3年もしたら、腕力といい、体格といい、平均から遥かに優れた値が8つ上の俺に 並ぶだろう。5年もすれば…薄ら寒い。勝てる気がしない。何時まであいつを見下ろしていられるか。何時まで、何時まで、何時まで、 …何時まで?
 あいつの興味だとか、独占欲、好意…だとか。そう言った俺に向ける感情は、何時まであいつの中に存在するのだろう。10年、5年、3年、 2年、1年、…明日は?もしかしたら明日、あいつは俺に興味をなくしているかもしれない。独占欲なんてなくなってしまっているかも しれない。…好意なんて、どこにも。
 言いようのない恐怖があった。悪夢を見て真夜中に跳ね起きた時のような空虚があった。
 置いて行かれるのは、寂しいことだ。痛くて堪らない。
 俺とあいつの関係が奇妙でアンバランスなものであることは最初から分かっていた。世間的に祝福も歓迎も為されない。分かっている。 …分かっている。それでもあいつが離れていくことが怖いのだ。何時まで…何時まで?
「シト、俺ココア」
「お願いします、位言えないのかお前は」
「お願いシマスなんて言わなくたってする癖に」
 にやあ、とシロップが笑うのが分かって、シトロンは赤い頭に殴打したい気分になりながらマグカップを二つ手に取る。何で俺の部屋に お前のカップがあるんだよ、と思いつつはっきり口にしてやると、「だってお前のは俺のだから」などとのたまってみせるから、黙って ミルクを注ぐしかなくなってしまった。丁度レンジにコップを二つ置いて蓋を閉めてからからお前のソレも欲しいな、という寝言が 聞こえたので、カップをひっくり返すのはやめた。怒りに任せてすぐに開いてしまったら音機関代の無駄だ。猥褻発言にはノー・タッチ としよう。
 シロップはシトロンの寝床から立ち上がって、レンジの中を覗き見る。瞳の奥がきらきら輝く。子供か、と思ったが、まだ11だった。
「まわってる」
 ふいにシロップが呟く。俺とシトが。呆けたようにレンジにおでこをくっ付けてシロップは言う。どうやら、二つのマグカップの事を 言っているらしかった。透明なガラスの向こう側に音素が行き交う。赤と青のマグカップが回転する。さながらオールドラントの周りを 回る小惑星のようだった。
「追いつかないな」
「追いつくか、馬鹿」
 室内に沈黙が落ちる。音機関の作動音だけがこの部屋を支配する。ふたりの視線がレンジの中に向かっていた。決して辿り着かない 追いかけっこだ。基盤そのものが回っているのだから実際の所それらが回っているのではないが。
 それでもさ。チン、と音機関が労働の終了を告げる。蓋を開くとふわりと湯気とホット・ミルクのにおいが立ち上った。シロップは ふたつのカップを手にとって、こつんと飲み口を合わせた。
「ほら、追いついた」
 にやあ。
 こんな風に笑うから、何も言えなくなるのだ。差し出された青いマグカップを受け取る。そうだ、パウダーを出さなければいけない。 一度テーブルにカップを置く前に、今度はくちびるを合わせた。

 何時まであいつを想っていられるか。その答えさえ俺には見えない。けれど、今の俺はあいつが好きだ。それだけでいいのかもしれない、 と思えた。あいつの笑顔を見ると、不思議にそう思えてくる。不思議だ。不可解だ。それでも嫌いになれない。まったく、厄介な恋を したものだ。

シトとシロくん。猥褻発言云々はもういいです



午後12時59分の玉響

ゆら
     ゆら
 ゆら

「あなたは馬鹿ですね」
 ヴェロマスカはたぷんたぷんの湯船に柚子と一緒にぽつりと言葉を浮かべる。
聞いているんですか、なんて言うから「あー」と意味の成さない音で答える。もうすぐ水面に唇が触れる位の位置までどっぷりと湯に 浸かる。もう一度、あなたは馬鹿ですね、と彼が言った。

ゆら
          ゆら
    ゆら
ゆら。

 切り込みの入った柚子と一緒に言の葉が浮かぶ。
 柚子からはみ出た果肉と果汁が、湯気に乗せて鼻腔に爽涼感を運ぶ。
 そこだけ時間が止まったかのような錯覚。
 一度ため息を漏らした。

 上がったら氷菓子でもつまみましょうか、と彼が言った。
 あー、と返事をすると、肯定と受けとったようで、珍しく表情を緩ませて笑った。



「だから幾らなんでも真夜中に、それも一人暮らしの部屋に、それも男性を招きいれるのはやめなさいと言っているんですよ」
「…でもおれ男っスけどー?」
「お馬鹿さん、世の中男でも見境のない人間がいるんですよ?」
「あー」
「聞いているんですか、この馬鹿」

現代パロ、七徐前提ジョカとベロマスカ



僕らは恋をしている

「恋とはどんなものかしら」

 年若い少女が台頭し、高らかに歌い上げる。自分も、弟も(とは言っても実際は従兄弟であるのだけれど)事前にパンフレットを 読んでおく習慣はないので、彼女の名前は知らなかったが、いい声だった。
 何であんたと、等と言っていた弟も、右隣の席で心地よいひかりに身を委ねている。何であんたと。そう言いながらも行きたくない、 とは言わなかった。自分も弟も、そんな事を抜きにしてでも芝居を愛していたからだ。それでもぽつりぽつりと漏れていた不満も、 一度会場に闇が落とされると、静寂に消えていった。

「僕の心に感じるものをお話ししましょう。
 それは何だか分からない新しいもの!
 憧れに満ちた感情を感じます。
 時にはそれは喜び、
 またあるときは苦しみ」

 家柄、ずっと昔から芝居に親しんできた。故に次に続く台詞も、一言一句間違えずに覚えている。少女が扮した少年は幼い胸に宿る恋を 歌い上げるのだ。だが、考えるとこの芝居を目にしたのは何年ぶりだろうか。弟が、まるで其処に太陽があるかのように舞台を 眺めている。きっと自分もそうだ。

  「恋とはどんなものかご存知のあなた、
 今、僕の心は恋をしているのでしょうか!」

 僕らは恋をしている。
 次にこれを見る時に隣にいて欲しい誰かをぼんやりと思い浮かべ、高らかなメッゾ・ソプラノに溶かした。

エメロとネネ