1446分の玉響 - 炭酸水のプール

 私がコップを持ってさり気無く席を立とうとした瞬間、ティコはそれを制してそのまま自分のコップともども手にとって立ち上がった。 同じのですよね。ご丁寧に椅子をきちんと机に押しやって彼は聞いた。聞くというより、当然の行為に一応許可を得るようなものだった。 私がコップの中でほとんど融解した氷と一緒にたゆたっている緑色の液体を嗜好品として好むことを彼はよく知っていたからだ。
 彼の歩行速度、席とドリンクバーの距離、来店者の人数から考えた店の込み具合諸々を綿密に計算して―――まあしばらくは戻らない だろう、とたかを括って、手帳を開く。牛皮の手帳はそれなりに年季が入り、既に何月か前に誰だったか…彼か、友人の誰かがした表紙の 落書きは色あせてきている。ああ、思い出した。彼の妹だ。まったく、彼も彼の妹も、もう少し慎みというものを覚えて欲しいものだ。 そこが可愛い所でもあるのだけれど。
 余計な思考に耽っている間に、ただいま帰りました、と短い時間にも関わらずこれまた律儀に彼が言う。ことん、と目の前に置かれた 緑色の液体。氷が水面からひょっこりと顔を出すくらいに溢れていて、そこかしこに気泡が張り付いている。私は手帳をしまってしまうと ストローから炭酸を吸い込んだ。しゅわしゅわと心地よい刺激。着色料をうんと使ったそれが爽快感と共に喉の中を駆ける感覚を しばし楽しんだ。
「先生、かわいい子供のようです」
 それは君のことじゃないかな、ティコ?その言葉を口に出さずにふ、と妖艶に笑ってみせる。そうしたら彼は照れ臭げに自分もストローに かぶりつく。そういう所が子供らしくて可愛らしい。
「ところでその、まるで全種類のジュースを混ぜ合わせたような奇怪な色をしている液体はなんだい、ティコ?」
 先生、よくお分かりになりましたね、流石です。本当に感銘を受けたように彼は言う。君はどこぞの女子高生かい?

現代パロ、女医エストとティコさん



亡者は歩く

 半分霞みがかった視界にかろうじて見えたものがあった。砂漠では、足を取られたらもう立ち上がれない。2、3日―――いや、もっと 長かったかもしれない―――生まれて初めて砂漠を歩いた男はそれを感じ取っていた。人だ。上を向いて歩けと詩は歌われるが、下ばかり 見ていても得をすることはあるものだ。
 腰を落としてぼろ衣のような人間の顔を探り出す。見開いた瞳は既に瞳孔が開いている。かつて医者であった男でなくとも明らかに死んで いると分かった。砂漠という場所で砂に埋もれずにいるその死体は、死後数日も経っていないと見えた。顔立ちからして30台の男、と いってもからからに干乾びたその表情は見る人が見れば50、60にも見えただろう。男は自分が今年いくつだったか考える。30と 5、6。親元を離れてから、久しく年を数えることもなかった。同じ年頃、なのだろう。干乾びた誰か。明日は男もそうなっているかも しれない。男は随分と隈が増えた目元を細めてふ、と自嘲するように笑った。
 これが10年前なら、そう、ローレライ教式の祈りでもくれてやったかもしれない。男が少年期を過ごしたのはローレライ教の総本山 だった。気まぐれに祈りの文句を思い出そうとして、数秒で諦める。いつまでも立ち止まっている時間はない。日が暮れるまでに少しでも 小高い野宿場所を見つけなければいけない。さらりさらりと崩れてゆく砂を踏みしめて歩を進めようとしたとき、誰かの死体が大事そうに 抱えているものに気付いた。何か?食料だ。食料だった。条件反射で喉が鳴る。水と、非常食、いくつかの甘味。十分だった。男は迷わず 死体の胸からそれらを取り上げた。食料はいつ手に入るかもわからない、命そのものだ。
 ―――ああ、死人の持ち物に手をつけるなんて!
 聖者ならそう言って餓死するだろう。だが男は聖者ではなかった。既に医者でもなかった。
「ふ、哀れな、シトロン・ソーダ」
 死人から奪い取った水筒を口につける。水分が喉の奥をすすと流れていくのを実感する。男は生きなければならなかった。それを自分に 課した。母も友人も、今は記憶の奥でなりをひそめている。ああ、男がまだ少年であったころならば、あの満ち足りた町を離れることは なかっただろう。

「どこへ行ったんだ、  」

 あと幾日であの死体は朽ち果てるだろう。ああ、彼よ、名も知らぬ彼。哀れな彼は男自身だった。

シトロン(→シロくん)



1832分の玉響 - 今日は月が綺麗だね

「昔のえらい人が、アイラブユー、って英文を『あなたを愛しています』って訳した生徒に違う、って教えたそうです」
「…何て教えたんだよ」
「『月が綺麗ですね』」
「馬鹿じゃねえの」
 ロマンチックじゃないですねぇ、と肩をすくめるジョカをナナはアホだと思った。テストの答案にそう書いてみろ。ぺん、と刎ねられる のがオチだ。
 最も、アイラブユー、なんて初歩的でありふれた英文を訳せなんて問題は見たことがない。教師かはたまた翻訳家かなにかなのだろうか、 『昔のえらい人』とやらは。だとしたら、訳のわからん意訳をする。
「アイラブユー」
 ジョカが流行の歌の一節のように口ずさむ。高低のない音節。そうでなければ、本当になにかの歌を歌ったように聞こえただろう。 愛だとか恋だとか、永遠だとか。テレビやCDショップから流れる音たちは夢物語のような言葉をいくつも乗せるから。
「アイ、ラブ、ユゥ」
 単語ごとに分けて、噛み砕くようにナナは同じ言葉を口にした。
 ここにある言葉は夢物語の中ではない、と確信する。
 今夜泊まっていきませんか、とジョカが言った。予定というものはほとんどの場合それの通り執行されないのが日常だ。やすらかな夏を 邪魔する紙束どもに目をやって、今日は徹夜か、と呟くと、いいえ、とジョカは返した。今日は満月だそうですよ。英訳してみろよ。  ナナは悪戯っぽく笑う。

""I love you!""



「ねえナナさん」
「なんだよ」
「アイラブユーって、外国のかたからはloveじゃなくてアール、ユゥ、ビーのrubって聞こえるんですって」
「…rub…?」
「『擦る』っスよ」
「…知ってる飛んだだけだ!…ってか、なんだ『私は、あなたをこする』?意味わかんねぇ」
「なんかえっちいですね」
「ねえよ」
「あと、rob、アール、オー、ビーのrobだと『襲いたい』って訳せるとか」
「しね!!!」

現代パロ、ナナさんとジョカ



おとこのこおんなのこ恋する子

「やーだーぁ、だからぁ、誘っちゃうんですよ。髪下ろして、上目使いで、あ、あと折角眼鏡してるんですから、眼鏡もとっちゃったら いいっスよ」
「いや誘ったって誘わなくたってやりたいときにやるんだよアイツは」
「シロップさん、ナナさんを見習ってほしいっスよーナナさんはやさしーですよ」
「あんた昼間蹴られてませんでしたか」
「愛情表現ですって」
「泣いてますよ」
「うえーん!」
 これが男同士の会話とは思いたくない。そもそも色々と進みすぎたこの男どもの中に自分が入っているのがどこか屈辱だ、とヴェスタは 肩を落とす。ベッドの上でパジャマパーティー、なんて真似ができるのはトックとフランだけだと思ってた、なんて口にすると、色情魔、 ことジョカはおんなのこの特権と思われちゃ困るっスよ、と笑い、シトロンはハリが心配するから早く帰りたい、と嘆息した。ハリ、と いうのはシトロンの母親らしい。というか彼でさえ、パジャマパーティーをする位親しくなったのは同僚であるジョカの紹介からだった。 同じく同師団の医師にシトロンは指南を受けていた。ヴェスタは余り交友関係が広くない。その中でもジョカは比較的、親しく付き合って いる仲だ。…当然といっていいものか、想い人がいるのも知られている。だが、シトロンと初対面した時に「絶賛片思い中の女の子っスー」 と紹介した時には張り手をお見舞いするしかなかった。ぶ、と噴く彼も彼だと思ったが。最も驚いたのは、その直後ジョカが彼を 「彼氏さんがいるからべたべたはしない方がいいっス」と紹介した時だ。シトロンは見るからに目じりをぴくぴくとさせた後に、ジョカの 後頭部を強打してみせた。死ぬーと言って騒いだジョカを欠片も心配せずに丁寧に握手を求めた彼に好感を持つと同時に、彼氏いるんだ、 が初印象になってしまった。
 ちなみに、彼氏とやらの正体はわずか2度目に会った時に理解した。シトロンはヴェスタと同い年と見える(実際は3つ程下だった。彼は 親譲りとかで実年齢より大きく見える)少年のタイを手綱を取るように引っ張って、廊下を歩いていた。あああれなんだろうな、と ヴェスタは思った。それから少年は宝石のようなピンクの瞳をひからせて、シトロンの耳元になにやら囁いていたから。その時のシトロン の顔は、初対面でジョカに少年のことを暴露されたときより真っ赤になっていた。ジョカにあっけらかんと言われてしまったから最初は 気にならなくても、しずかに横たわった男のこ同士で、という気持ちは、シトロンの表情でなにやら気にならなくなっていた。彼は恋を しているのだ。
 ジョカはジョカで、先日の事件からなにやらあったらしく、最近師団に入ってきた青年と仲良くしている。確か名前はナナだ。愛称なのか 本名なのか知らないが、ジョカがことあるごとに言ってみせるから覚えてしまった。白いマントを纏うようになって、どこか変わって しまったのか、と危惧したのも知らずに、ジョカは恋する目をして笑っていた。
 ジョカもそうだ。シトロンも。そして私も。
 恋をしている。
 それが喜劇なのか悲劇なのかは誰もしらない。
「ヴェスタさんも誘い方教えてあげましょうか。胸が寂しいからって気を落とすことないっスよ」
「俺とこいつにはそもそも無いからな」
「胸とか気にしてないから!!!!!」
「ヴェスタさんないてます?」

ヴェスタ、ジョカ、シト



僕に天使が下りてきた

 窓から柔らかなひかりが差し込む夜だった。明かりもつけていないのにやけに部屋が見渡せた。開け放した窓際に彼は立っていた。 最初に見たときとも、最後に見たときとも変わらない彼がそこに立っていた。何で、とか、生きていたのか、とか、言葉が喉に詰まって 上手く吐き出せない。喉の奥に沈殿した感情はやがて思考をひやりと冷ました。生きていたのか、等と。愚問だ。彼は死んでいる。それは ずっとずっと前のことだ。身体のない棺の前で泣いたのはずっとずっと前のことだった。けれども彼はそこに立っていた。今や濁りきった 男の眼が見る幻覚なのか、死出の迎えなのか、分からない。しかし彼はそこに立っていた。変わらず立っていた。彼にとっては当たり前の ことだったが、変わらない、という事実は男を過去に引き戻そうとする。かつての友の影に、シトロン・ソーダはゆっくりと歩み寄り、 友の姿を確かめ、叶うことならば抱き寄せただろう。シトロン・ソーダ、ならば。
 男はくつ、と笑った。

「何をしにきた」

 返事はない。
 すっかり冷えた頭が唇を動かす。

「笑いにきたのか?哀れだと言いに来たのか?それともお前は死の使いか。それもいい。俺の今の、この姿を、見ろ、俺はもうお前が知る シトロン・ソーダじゃない。俺はただの狂人さ。笑いに来たんだろう。哀れだと。言いに来たんだろう、何でここに来た。あの人でなく 俺の所に。何でだ。何で来た。何で」


「何で置いてった!!!!!!!!!」


 男はジョカの下に項垂れた。ジョカは何も言わない。ただゆらりと右腕を持ち上げた。男は彼の細い指先を追う。誰がこの指先たりと 残すことを許さなかったのだろう。音素に還った彼の指先はぴたりと窓の外を指した。男の視界はジョカの先にあるものを映す。
 今日は月が綺麗ですね。
 仮に彼が喋ったならばそう言っただろう。窓の外には何の変哲もない夜景。久しく、見ないものだった。否、見ようとしないものだった。 シトロンの目は開き、世界を眺めていた。



「―――ああ、綺麗だ、」

シトロンとジョカ