夕焼けのクロス

 ことこと煮込んだ野菜とミルクのにおい。私はこのにおいが好きだ。おたまを手にゆっくりかき混ぜると、素敵なにおいが鼻をくすぐる。 小さなお皿を出してきて、僅かに掬い取ったスープをそれに注ぐ。小皿を口に寄せれば、うん、いいお味。自己満足の笑みを浮かべる。
 今日の夕食はクリームシチューとライ麦のパン。それから友人が寄越したちょっといい赤ワイン。そうそう、昼に残ったレタスと刻んだ お肉のサラダを出してもいい。
 居間の古ぼけたテーブル。朝から外に干していた白いクロスを広げると、太陽のかおりがした。開けたままの窓から夕日が差し込んで、 居間を橙色にする。
 私は台所に戻って、お皿を一揃い出してくる。あたたかいクリームシチュー、かたいライ麦パン、ボウルに入れたまま取っておいた サラダと取り皿、模様の無いシンプルなワイングラス。私は一人で食卓につく。私は私が作った夕食に手を合わせる。
 いただきます。
 そう言わない不機嫌な日の私を、あの人はいつも注意した。叱られることも楽しかった。あの人が私のことだけを考えていてくれると 実感できたからだ。あの人はいつも私ことだけを考えてくれていると、分かっていたけれど。私は手を合わせる。返事の返ってこない言葉 を口にする。あの人は今、私の傍に居ない。

未来編、エリー→イヅル



イル・ティーモ

 この男はいつも良い匂いがする。紳士の嗜みだとか、流行を真似しているのだとか言うけれど、結局この男も良い香りが好きなのだと思う。
 妹とふたり生きることで精一杯だった子供時代を過ごしたせいか、この仕事についてから自分の世間知らなさに幾度も気付かされたが、 それについても同じことだった。花の名前のひとつやふたつを覚えることも難しい。なまじあの男は気分によって香水を付け替えたりと いう真似をするから、あの男の香水のラベルを言い当てたことは一度としてなかった。今日までは。

 この匂い、

 懐かしいと口走っていた。あれ、とダイゴはぽかんと呆気に取られたようにあんぐり口を開けてから、「ああ」、ダイゴは、覚えとったん、 と事も無げに呟いた。
 ふいにフラッシュ・バックする。この男と初めて顔を合わせた時だ。いい匂いだ。そう、思って立ち止まったのだ。女の格好をしたこの 男を呼び止めたのだ。

「なんや、気に入ったんか?」

 違う。
 お前がその匂いをしているからだ。
 上気した顔を隠したくて男の肩に顔を寄せる。お前がしている香水なら何でもいいんだ。良い薫りをさせて笑うお前が愛しいんだ。この まま時間なんて止まってしまえ。

オシャタカ社、アーレ→ダイゴ



サルビア

「食べちゃいたい」

 フェムトはふいにそう言った。どきっとして僕はフェムトの顔を凝視する。前を向いたままのフェムトの横顔はいつものように僕に酷似 したそれ。僕の視線に気付いていないであろうままで、フェムトはさっと花壇の前に跪いた。

「ほら、小さい頃よくやったでしょう」

 植えられたサルビアの花の先端を手折って口に銜える。窄まる唇。ちいさな蜜はすぐに尽きて、フェムトは空になった赤い花を噛んで 僕に笑った。この花はピコだね。フェムトは言う。同じことを考えていたのに驚くこともなく、僕はフェムトの細い手首を掴んだ。 そのまま引き寄せて口付けする。どうか僕を花のように啄ばんでしまって。僕の全てを吸い出してしまって。どうか生涯をかけて。
 口付けた拍子に、蜜を全て吸い出されたサルビアが地に堕ちる。君と堕ちて行くならば。どうかどうか。

未来編、ピコ→フェムト



ロズマリーノ

 一昨日はカレンデュラ。昨日はフィノッキオ。今日は、今日は。

 両手一杯の花束。いつものように僕は帰り道を歩く。くらいくらい帰り道を猫みたいに音を立てずに歩いていく。あの子はどうしている だろう。いつものように笑ってくれているかな。アパートの中、幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも幾つもついた鍵を ひとつずつ開けていく。両手が塞がっているから、その動作は酷く緩慢だ。
 えっちら、おっちら、やっと全ての鍵を取り除いて、僕は扉を開ける。

「ただいま、リコ」

 リコは花畑の真ん中で座っている。おかえりなさい、リコ。僕が持って帰ってきた花の真ん中でリコは笑った。腕一杯の花をばらばらと 落とす。色とりどりの絨毯が部屋一杯に広がっている。僕はリコの前に跪いた。

  いい子にしていた、リコ。
 ええ、リコ。
 痛いことはなかった。
 ええ、リコ。

 僕はリコを抱き寄せる。体温の低いリコの、おなかのあたりが暖かい。リコ、もうすぐ、もうすぐ会えるね。ええ、リコ。もうすぐ 会えるわ。リコは僕の背中に手を回す。ああ、リコ。もうすぐだ。
 僕とリコは抱き合っている。いつまでも抱き合っている。この部屋とリコが僕の全てだ。

過去編、『リコ』



パタータの籠

 辻馬車は酷く揺れている。屋根のない荷車からはでこぼこした道がよく見える。車輪が小石を踏むたびに、俺とジョカの体が跳ねる。 はは、なんだか、楽しいっスね。ダアトからあまり出たことがなかったというジョカは静かに声を弾ませる。がたん、とまた大きく揺れて、 俺が抱えた籠の中のオリーブオイルが瓶の中で津波を起こすのと同時に、ジョカが俺に寄りかかる。すると、あ、とジョカは声を上げた。 俺、ぶつかりましたか。俺は一呼吸置いてから、気にすんな、とぶっきらぼうに呟く。ジョカは何が面白いのか、ますます俺の方に寄り かかった。ジョカの肌は酷く冷たかった。

「ねえ、このまま」

 このまま、の次の言葉をジョカは言わなかった。ジョカが何を言いたかったのか俺は判らない。辻馬車はがたがた音を立てて進んでいく。 酷く煩い。黙れ。黙れったら。ジョカの音が聞こえない。聞こえないんだ、ジョカ。
 辻馬車は進んでいく。俺とジョカの体を運んでいく。俺たちはもう、どこにも行けない。

未来編、ナナさん→ジョカ

09/07/12