丸藤亮が自分の性癖に気付いたのは8歳のころだ。
 当時、サイバー流道場の門下生だった亮はある兄弟子に心惹かれた。幼くして親元を離れ、デュエルの修行に励む亮を気遣い、何かと世話を焼いてくれた青年だった。実家に亮と同じくらいの弟がいるものだから、つい構いたくなってしまうのだと照れくさそうに兄弟子は笑った。彼がはにかむ顔を目にすると、亮の胸は不思議とどくんと脈打った。小学生だった亮より大きな彼の隣にちょこんと座って、他愛のない話を繰り返していれば、どきどきと亮の胸は早鐘を打ち、隣の彼に聞こえてしまいやしないかと気が気でなかった。短く刈り込んだ彼のうなじや、修行の賜物でよく引き締まった二の腕に、知らず目を奪われた。
 やがてサイバー流道場を出ることになり、彼とはそれっきりだが、【あれ】はまぎれも無く初恋だったと亮は思い返す。それから、中学時代も心惹かれたのは皆同性だった。そのどれもが淡く、実らぬ想いであったが、中学生活の半ばには亮はもう自分が他の男子生徒とは違うのだと自覚していた。彼らがクラスの女子やテレビや雑誌に出てくる女優、モデルを好き勝手に取り上げる猥談にはついていけなかったし、ついていく気持ちにもならなかった。そんな亮を、クラスメイトはしばしばこうからかった。

 

「丸藤って、ホモじゃねえ」

 

 クラスメイトの指摘はぴったりと亮の性癖を言い当てていた。だが、人々の楽しむ【日常】の中で亮をからかうためだけに放り投げられた【非日常】の単語は、現実性を伴うことなくぽっかりと宙に浮かぶだけだった。ただ、そのことばは亮の胸にだけにスゥと落ちていった。亮はそれを心の奥底にある箱の中に丁寧にしまい、クラスメイトと同じ日常を送った。その、たった一つのことばが封じ込められているのなら、亮は彼らと同じように日常を生きることができた。

 

 

 

「…俺はホモセクシュアルなんだ、吹雪」

 

 

 

 その箱を開けたのは、亮が最も信頼する友だった。

 

 

 

 


「え、ホモセクシュアルって…ホモってこと?」

 

 天上院吹雪は亮がデュエル・アカデミアに入学した当初から親しくしている生徒だった。かつ、アカデミアにおいてデュエルの腕で亮に並ぶものは吹雪を置いて他にはなかった。ともに特待生としてアカデミアで崇敬の眼差しを受ける身であったが、性質は全くの正反対だった。ひたすらに自己を研鑽し、己を高めるタイプの亮と異なり、吹雪は人混みの中でこそ光を発する人間だった。とにかく目立つこと、それによって他人を楽しませることが第一で、その他は二の次だった。また、無愛想だ、近寄りがたいと形容される亮に比べ、吹雪は万人に好まれる快活な笑みを備えていた。
 亮が吹雪に自分が同性愛者であることを告げたのは、いつものように吹雪が亮の部屋を訪れてしばらく経ったころであった。夜ごと、亮が吹雪の、吹雪が亮の部屋を訪れて、卓上デュエルをしたり、とりとめも無いことをつらつらと語らうのは1年次から続くふたりの習慣と言ってよかった。
 吹雪が昼間ファンクラブの女子生徒に包囲網を組まれて困り果てた、という話を延々していたのが、丁度ぷつんと途切れたときのことだった。机に向かいカードを広げ、新作のパックをデッキに組み入れるかどうか思案していた亮は、手を止めて振り返る。亮のベッドに腰掛ける吹雪の表情は、困惑、戸惑いの色を少なからず乗せていた。亮はそれを見つめている、瞳をわずかにも揺らすことなく。
 変だ、と言われる覚悟はあった。だが、吹雪がそんなことを言う筈がないとどこか確信してもいた。
 幾許かの沈黙があった。やがて、吹雪はひとつ瞬きをして、やわらかに笑んだ。それは、亮のよく知る吹雪の笑顔だった。夜の海に光る灯台のように、見るものの心の奥底までを照らし出すようなやさしい笑みだった。

 

「そうなんだ」

 

 吹雪はそう言った。拍子抜けするくらいに、いつもの吹雪の声だった。

 

「亮がそういう性癖であったとしても僕は気にならない。何があっても、僕らが最良の友だってことに変わりはないからね」

 

 亮が最も信頼する、最良の友、天上院吹雪だった。

 

 「亮、つらかったね」と吹雪は言う。「ずっと、誰にも言えなかったんだろう」。泣いている子供をあやすように、吹雪は慰めの言葉をかける。その時の俺は、そんなに泣きそうな顔をしていたのだろうか。亮の心の奥底に沈みこんだクラスメイトの言葉より、指先から全身まで、ゆっくりと染み入るようなあたたかい吹雪のことばに、俺の心の中の箱はすっかり開け放たれてしまったのだろうか。

 

「大丈夫だよ、亮。僕は、君の友であり続ける」

 

 動けない亮に歩み寄り、吹雪は、その手を取った。
 その手は暖かく、亮の心をすっかり包みこんだ。

 

 …あの時から、俺は吹雪が好きだったのだろうか。

 

 

 

 


「な…っ、何するの、亮っ…」

 

 あの時、亮は吹雪を抱きすくめてしまいたかった。
 吹雪に包まれたこころのままに、吹雪を包み込んでみせたかった。
 …吹雪が放つ眩いばかりの光を、この手に納めてしまいたかった。

 

「亮、やだ、亮、はなして…」

 

 ベッドの上に縫い付けられた吹雪は、生きたまま標本にされる蝶のように、じたばたともがく様さえ美しかった。

 

「…亮、僕たち、友達じゃないの…?」

 

 吹雪の目尻に浮かんだ涙を舌で掬い取り、亮は余裕のない声で言う。すまない。すまない、吹雪。

 

「吹雪、すまない…痛い思いは絶対にさせない…」

 

 亮は暴れる吹雪の腰に跨り、筋肉が軋むくらいに力を込めて吹雪の両手首を掴み、動けなくする。

 

「気持ち良く、してやるからな」

 

 吹雪は、やがてスゥと瞼を下ろす。涙だけがそこから零れた。吹雪の涙は、長い睫毛に引っ掛かり、頬を伝って、そしてベッドを濡らした。吹雪はもう抵抗しなかった。涙だけが、最後まで止まらなかった。

 

 

 

 


「亮!」

 

 デュエル実技の授業が終わるとすぐに、吹雪が呼ぶ声が聞こえた。デュエルディスクを収納し、デッキを腰のケースに戻して振り向くと、もう吹雪が亮の目の前までやってきていた。どうだった、と亮は聞いたが、聞くまでもないことだった。もちろん勝ったよ、と吹雪が笑った。吹雪もまた、亮は?と聞き、勝った、と亮は答えた。

 

「たまには亮以外の子とやるのもいいけど、やっぱり亮がいいや」

 

 吹雪ははにかんで照れる。
 俺もだ、と顔をほころばす亮の耳元に、吹雪が唇を寄せた。ほんの数瞬の出来事は、亮に赤面させる隙さえ与えなかった。吹雪はさりげなく、そしてこころの躍動をほんの少し染みさせた声で言った。

 

「今日も、してくれる?」

 

 吹雪の唇が、亮を誘う。

 

 亮はその誘いを拒まなかった。ああ、と短い返事をして、歩き出す。フフッと吹雪の笑い声が聞こえた。吹雪が亮の後を負い、歩き始めた。

 

 吹雪と強引に身体を繋げて以来、亮は吹雪と幾度か同じ行為に及んでいる。
 衝動のままに友としての信頼を裏切った亮は、吹雪が自分を嫌っても憎んでも仕方がないと思っていた。だが、亮の思惑は大きく外れた。数日後吹雪は、「あの夜のこと、」亮が行為に及んだ亮の部屋を訪れて言った。「もう一度、してくれないかい」。

 

「信じられない」

 

 気持ち良かったんだ、と吹雪は言った。君のことをもっと知りたい、奥の奥まで。そう誘った吹雪を再び抱いた。その夜は、とろけてしまいそうな熱い夜だった。吹雪は快感を感じ、亮も快感を感じた。欲望に溺れる吹雪は美しく、亮は夢中になって吹雪を貪った。

 

「初めてだ、こんなの。こんなに気持ち良いことがあったなんて…ああ、僕、おかしくなっちゃいそう」

 

 それは、恋人同士のような甘い交歓だった。その時には亮は、俺は吹雪が好きなんだとはっきり自覚していた。心を通じ合わせた時から、これまでと同じように吹雪と過ごす日常が愛おしくなった。授業中退屈そうに頬杖をつく吹雪と、ふいに目が合えば小さく笑い合った。購買のパンを手に、今日はどこで食べようかと真剣にうーんと考え込んだ。そして、照れくさげに亮を誘う吹雪は健気で可愛らしかった。男に可愛いと思うのは【おかしい】のかもしれなかったが、本当にそう思った。了承の意を示し、頷く亮に、吹雪が見せる笑顔は…亮が好きな吹雪だった。太陽のような吹雪が亮に笑いかけていることが、何にも代えがたい幸福だった。

 

 その、日常は…亮が愛した日常は、その中を生きる吹雪は、いつからおかしくなってしまったのだろう。

 

 

 

 


「亮、…ねぇ、亮…」

 

 たたなくなっちゃった、と吹雪が告げた。
 女の子としようとしたんだけど、たたなかったんだ。苦笑する吹雪の表情は、どこか空虚だった。
 彼女には悪いことをしたけど、僕には亮がいるから大丈夫だよね。
 吹雪は笑って言って、その夜も身体を繋げることを望んだ。

 

「好きだ…好きなんだ、亮…」

 

 吹雪は朝な夕な、亮を求めた。
 教室で、トイレで、デュエル場で、屋外で、寮で。飽くなき肉欲が吹雪をたぎらせた。誰が見ているかわからないようなところであっても、構わず吹雪は亮にしな垂れかかった。亮が諌めても、吹雪は聞かなかった。
 吹雪は知ってしまった。女の局所にペニスを挿入することより甘美な、尻の中を掻きまわされる快感を。それを教えたのは、亮だ。それに吹雪を溺れさせ、それまでの吹雪を変えたのは…それまでの吹雪を息絶えさせたのは、亮だ。

 

「だから…別れるなんて言わないで。もっと、ふたりで気持ちイイことしよう、亮」

 

 だから、亮は吹雪から離れることを決めた。

 

 亮は吹雪を愛していた。日常の中で太陽のように光を放つ吹雪も、非日常の行為の中でひたすらに亮を求める吹雪も。だが、今の吹雪にとって、亮が傍にいることは悪影響だとしか思えなかった。亮が吹雪を変えたのであり、人々に愛される天上院吹雪を、亮だけの吹雪にしてしまったのだ。それは、亮の愛した吹雪とも違っていた。
 縋りつく吹雪を引き剥がすのは、鋭い痛みを伴う行為だった。身体の半分をもぎ取られるような痛みを感じた。瞳をうるませた吹雪を、亮は愛しいと思った。今すぐ抱きすくめてしまいたかった。
 だが、それは許されなかった。
 亮には、もう二度と許されないことだった。

 

「亮ぉっ…!!」

 

 涙が落ちる音が聞こえるようだった。吹雪の涙は亮の背中に雨のように打ちつけた。濡れて、ずっしりと重くなった背中は、もう振り返ることはできなかった。

 

 

 

 


「亮!」

 

 朝、オベリスク・ブルー寮の談話室へ向かうと、吹雪がいた。朝食を待つここでは、いつもなら亮が一番にやってきて椅子に腰かけているのだが、今日は珍しく吹雪が一番乗りだった。吹雪は席を立ち、亮のほうへやってきた。亮と吹雪が同じように脚を進め、丁度談話室の中央でふたりは向かい合った。

 

「おはよう、亮」

 

 吹雪が笑う。太陽のように、太陽に向かう大輪の花のように笑う。最良の友、亮に向けて、美しく笑みを形作る。分け隔てなく万人に与えるそれを、今だけは亮に向けている。
 亮は、
 すっと、人差し指を持ち上げた。吹雪の胸を指すそれを、腹へ、腰へ、ゆっくりと下ろしていく。やがて亮は吹雪の股間を指さした。吹雪はそれを見ていた。見ていた。見ていた。ただ、見ていた。

 

 

 

「…零れているぞ、」

 

 

 

 吹雪の股間の布が、尻穴から漏れ出た男の性液に染みていた。「え」その一滴が、ポトリと落ちた。亮ではない誰かの放った白濁が、吹雪から零れていった。かつて亮のものだった美しいバラの花首は、もう落ちてしまった。今、吹雪の首の上に鎮座しているのが何者なのか、もう亮には分からない。

 

バラのくびが落ちる音

11/09/11