ドア越しに、吹雪のくぐもった声が聞こえた。それは、吹雪には似つかわしくない声だった。亮のよく知る、甘いマスクに反比例した、広い所でも良く通る吹雪の声、ではなく、どこか苦しげで、そして、切なげだった。息を吐くのに付属するように、ドアの向こうで吹雪は声を漏らした…そこまで来て、吹雪が何をやっているのか分からない程、亮は初心ではない。 「…りょ、う」
吹雪が自分を呼んだのを、亮は聞いた。
亮はビクリと震えた。亮は動けない…動けないまま、耳を澄ます。ドアの向こうの吹雪…女のように、悩ましげに声を出す吹雪の声と一緒に、どくん、どくんという音が聞こえた。自分の心臓の音だと、亮はどこか遠いところから見ているような気持ちで思う。 「はぁっ、亮、…亮」
吹雪が達したのであろう、一際上擦った声で小さく叫んだ時、亮は駆け出していた…無我夢中で、デッキを落とさないように胸元に固く抱きとめて。そして、自分の部屋に駆け込み、自分の身体を叩きつけるようにベッドに沈ませる。吹雪の声が耳の中に張り付いていた。意味の分からないうめきを発しながら、亮はがむしゃらに耳を掻きむしった。
「うああ、あ」
授業の終わりを告げる鐘が鳴ったのは、もう10分も前のことだ。本日最後の授業を終えた教室に残っているのは、もう亮と隣で寝息を立てている吹雪だけだ。吹雪は頭は悪くないくせに授業態度は不真面目だった。デュエル実技となれば嬉々としてデュエルディスクを掲げてみせるが、座学となると退屈がってすぐに寝てしまう。それでも、要領よく試験では亮に次ぐ成績をマークしているのは、亮には真似ができないと、呆れを通り越して感心してしまうのだが…。
「いい加減にしろ、吹雪…」
机を抱くようにして寝ている吹雪の肩を、軽くゆする。すると、ううん、と身じろぎをした吹雪の横顔があらわれる。亮は、どきりとした…寝ぼけた吹雪の声は、昨夜ドア越しに聞いた吹雪の声を思わせた。 ぞわり、と背中が粟立った。
(気付かない…今なら、気付かない)
亮の中で鐘のようにその言葉が鳴った。轟音を上げるその言葉に、動かされるように亮は手を伸ばす…あらわになった、吹雪の顔に…吹雪の唇に…。 この唇が。 「…りょ…う…?」
ハッとして、亮はバネ仕掛けのオモチャのように自分の手を跳ねのけた。
気付けば、吹雪がうっすらと目を開けている。覚醒したばかりの、ぼんやりとした吹雪の双眸は…それでも、はっきりと亮を捉えていた。いつから?いつから、起きていた?亮は、ずるずると後ずさる…吹雪が呆けた顔で亮を見返すのを、また亮も見返している…。
ずっと、男の人が好きだったんだ。
吹雪がゆっくりと口を動かす。さっき触れたばかりの唇から吹雪のことばが漏れだす…でも、誰にも言えなかった。皆をがっかりさせたくなくて…。そう言った吹雪の眉が、切なげに八の字に寄る。
「…でも、亮、君なら…君は、僕に触れてくれたから…君なら…」 亮は叫んで、耳を塞ぐ。耳を塞いでも、吹雪の声は亮の耳の内側に張り付いて剥がれない。吹雪の声が、亮を呼ぶ声が、亮の中で…鐘のように鳴っている。
「俺はっ…そんなつもりで、お前に触れたんじゃない…っ」
ずる、ずると、亮は後ずさる。…裏切られたような心地だった。亮と吹雪は友の筈だった。最も信頼できる友の筈だった。それが、吹雪の告白によって裏切られた気がした。…この、、亮が友だと思っていた男は、今までどんな目で亮を見てきたのだろう。
「お前は、俺を裏切った…」 吹雪はハッとして、口を覆う。濡れた唇が、見えなくなる。吹雪の頬に朱が指し…吹雪は亮が自分の自慰を知っていたのを知り、亮は吹雪が本当に、亮を欲望の対象として見ていたことを知る。亮は、拳をぐっと握っていた。強い意志でそれを留めておかなければ、うろたえる吹雪にそれを叩きつけてしまいそうだった。
「違うんだ、亮、違う…」 亮は叫ぶ。
「亮…!」
亮は踵を返した。もう、こんな男に話すことは何もない…吹雪は亮を呼びながらも、引き留めようとはしなかった。がたんっと吹雪が崩れおる音が聞こえたが、亮の興味を引くことはなかった。
亮と、天上院吹雪は友だった筈だった。 …あの時、吹雪の声を聞いたのがいけなかったのだろうか。
亮がそれを目撃したのは…そんな生活が1ヶ月も続いたころのことだ。 レポートのために資料室に籠っていた亮は、寮での食事の時間に合わせてそこを出た。既に大半の生徒たちが下校を終えており、すれ違うものもない廊下を亮は歩いていく。 「う…ふぅっ、うっ…」
聞き違える筈がなかった。吹雪の声だった。吹雪の、くぐもった泣き声だった。泣いているのか、と頭のどこかで思った瞬間、「声出すんじゃねぇよ!」という知らない男子生徒の声と、拳が肉を打つ鈍い音が聞こえた。…吹雪の短い悲鳴も。 「あの、天上院吹雪がホモだったなんてな」
「マジ、キメェし」だとか、「突っ込まれるのが好きなんだろ。だったら、おとなしくしてろよ」だとか、吹雪を罵り、貶める言葉が投げかけられ、吹雪は屈辱と、そして恐怖に八の字に眉を寄せる。その頬には涙が伝っている。それを、亮は冷ややかな目で見ていた。吹雪を罵りながら、吹雪に欲情し、自分のものを猛らせる男たちを、人と違う性癖を持つからという理由で、強引にねじ伏せられ、望まぬ行為を強いられる吹雪を。…かつて友だった男を。
「カイザー…亮…?」
ガラン、と音を立てて扉が開く。男子生徒たちが弾かれたように顔を上げ、亮を見、そして亮が何者であるかを理解し、震えた。
「亮…」
亮はきっと、苛立ちのような気持ちで吹雪を見ていた。亮と同じ真っ白な制服を中途半端に脱がされ、ズボンを下ろされ、尻穴を広げられた吹雪を。 「…ごめん」
亮は目を見開いた。力が抜け、その場に倒れ伏した吹雪が…涙を流して、亮に赦しを請うていた。何故謝る。亮は動揺した。償うべきは奴らであり、…彼を守れなかった亮であるべきだったのに。
「ごめんね」
吹雪が涙を流す。無理矢理に手折られ、踏みつけにされた吹雪が。手を差し伸べてやりもしない亮を見上げて。
「君を好きになって、ごめんね…」
吹雪は泣いた。
バラは咲いていただけだった。 バラはどこかへ姿を消し、吹雪は今なお戻らない。
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バラは咲いていただけだった
11/09/18