丸藤亮は、オベリスク・ブルー寮の豪奢な造りの廊下をひっそりと歩いている。夜の帳が下りた今、賑やかな生徒たちの気配はなく、彼ひとりだけが深い夜の静寂を壊さぬように静やかに歩を進める。遅くまでデッキ構築にかかりきりで、目が冴えていた。やっとデッキが完成した頃、時の針はぴたりと重なって、日付の変更を示していた。眠れない亮は、わずかな期待をもって同寮の友、吹雪を訪ねようとしていたのだった。
 深夜の徘徊は校則違反であり、処罰の対象になる。また、亮自身も深夜に相手を訪問するような不躾な真似は決してしない筈だった。それなのに、デッキひとつを持って部屋を出たのは…件の友が、天上院吹雪がその不躾で高速に違反する行為をまま亮にやってみせるからかもしれない。曰く、小腹が空いたから食堂に忍び込んで何か探そう、曰く、返し忘れたノートを返しに来た、そしてまた曰く、寝付けないから。そんな、身勝手な理由で亮の部屋を訪れる吹雪を、亮は何故やら突っぱねられなかった。亮の部屋の前で悪びれずにアハハと笑う吹雪に絆されているのかもしれないが…亮の方も吹雪の訪問を不快に感じたことはなかった。だから、校則違反と知っていても吹雪に乗せられて、結局は彼に続いて宵闇を駆けだすのだ…食堂に忍びこんだことがばれて、翌朝寮長のクロノス教諭に二人して叱られたこともままあったが。
 やがて、吹雪に割り当てられた部屋の前までやってきて、亮は足を止めた。とは言っても、時刻は12時。既に眠りについているのなら起こすつもりはないし、起きているなら幸運だと、そのくらいの気持ちで亮は聞き耳を立てる。起きている気配がないなら、そのまま引き返そうと思っていた。
 …気配があった。起きているようだ、と亮は推測する。知らず逸る気持ちで、亮はノックをするために拳を軽く丸めた。亮の白く、血管の透ける手の甲が吹雪の部屋のドアを叩こうとした時…亮は、異変に気付いたのだ。


「…うっ、…ン」

 

 ドア越しに、吹雪のくぐもった声が聞こえた。それは、吹雪には似つかわしくない声だった。亮のよく知る、甘いマスクに反比例した、広い所でも良く通る吹雪の声、ではなく、どこか苦しげで、そして、切なげだった。息を吐くのに付属するように、ドアの向こうで吹雪は声を漏らした…そこまで来て、吹雪が何をやっているのか分からない程、亮は初心ではない。
 気落ちはしなかった。だが、吹雪も自慰をするのだと、当たり前のことに感心した。
 亮とて健全な男子高校生である以上、自慰もする。吹雪だって、そうするだろう。だが、ふたりの間でそれが話題に上ることはなかった。いや、男同士ならしてもおかしくない性に関する会話が、不思議と吹雪との間に生まれることがなかったのだ。自分は吹雪に理想を抱いているのだ、と亮は自ら考察する。吹雪は悪ふざけが過ぎることもままあるが、性質はふたりの制服の色のように純粋で、汚れがない。まったくの清廉潔白。そんな理想を抱いているが故に、性に関する話題にどこか違和感、不潔さを覚え、自然と二人の間でどこか禁忌のような感情が生まれていたのだ。
 だが、現実として吹雪は今自慰をしている。
 亮は丸めた拳をすっと下ろして、踵を返そうとした…これ以上立ち聞きするのは、友として礼を失したことだ。部屋に戻って、ベッドに入るだけはしてみようと、背中を翻したその時だ。

 

 

 

「…りょ、う」

 

 

 

 吹雪が自分を呼んだのを、亮は聞いた。

 

 亮はビクリと震えた。亮は動けない…動けないまま、耳を澄ます。ドアの向こうの吹雪…女のように、悩ましげに声を出す吹雪の声と一緒に、どくん、どくんという音が聞こえた。自分の心臓の音だと、亮はどこか遠いところから見ているような気持ちで思う。
 今、吹雪は誰を呼んだのか。亮のよく知る吹雪は、その、掠れた、息遣いそのもののような声で、何を言ったか…亮。亮、と、確かに亮は聞いたのだ。それが自分の名前であると、自覚するのにすこし時間がいった。自分の名前なのに…自分の名前を、吹雪が呼んでいるのに!あの吹雪が!

 

 

 

「はぁっ、亮、…亮」

 

 

 

 吹雪が達したのであろう、一際上擦った声で小さく叫んだ時、亮は駆け出していた…無我夢中で、デッキを落とさないように胸元に固く抱きとめて。そして、自分の部屋に駆け込み、自分の身体を叩きつけるようにベッドに沈ませる。吹雪の声が耳の中に張り付いていた。意味の分からないうめきを発しながら、亮はがむしゃらに耳を掻きむしった。

 

「うああ、あ」

 

 

 

 


「吹雪…起きろ、吹雪」

 

 授業の終わりを告げる鐘が鳴ったのは、もう10分も前のことだ。本日最後の授業を終えた教室に残っているのは、もう亮と隣で寝息を立てている吹雪だけだ。吹雪は頭は悪くないくせに授業態度は不真面目だった。デュエル実技となれば嬉々としてデュエルディスクを掲げてみせるが、座学となると退屈がってすぐに寝てしまう。それでも、要領よく試験では亮に次ぐ成績をマークしているのは、亮には真似ができないと、呆れを通り越して感心してしまうのだが…。

 

「いい加減にしろ、吹雪…」

 

 机を抱くようにして寝ている吹雪の肩を、軽くゆする。すると、ううん、と身じろぎをした吹雪の横顔があらわれる。亮は、どきりとした…寝ぼけた吹雪の声は、昨夜ドア越しに聞いた吹雪の声を思わせた。
 …あの時、確かに吹雪は亮を呼んだ。
 それがどういうことなのか。自分のものを慰めながら、吹雪は亮の名前を呼んで喘いだ…つまり、亮のことを想って吹雪は自慰をしていたのだろうか?男の、亮を想いながら?どんな表情をして…あんなに艶やかな声を出して?

 

 ぞわり、と背中が粟立った。

 

 

 

(気付かない…今なら、気付かない)

 

 

 

 亮の中で鐘のようにその言葉が鳴った。轟音を上げるその言葉に、動かされるように亮は手を伸ばす…あらわになった、吹雪の顔に…吹雪の唇に…。
 ふるえる指先が吹雪の唇に触れる。吹雪のぷるんとした唇は、見た目の通り弾力があって、軽く亮の指を押し返す。吹雪の唇、てかてかと光った、吹雪の。

 

 この唇が。
 この唇が、亮を呼んだ。
 亮の知らない声で、自分のものを慰めながら、亮を…。

 

 

 

「…りょ…う…?」

 

 

 

 ハッとして、亮はバネ仕掛けのオモチャのように自分の手を跳ねのけた。

 

 気付けば、吹雪がうっすらと目を開けている。覚醒したばかりの、ぼんやりとした吹雪の双眸は…それでも、はっきりと亮を捉えていた。いつから?いつから、起きていた?亮は、ずるずると後ずさる…吹雪が呆けた顔で亮を見返すのを、また亮も見返している…。
 身体を起こした吹雪が、スッと自分の唇に触れた。確かめるように、それをなぞる。吹雪の女のような指先が…すこし濡れているように見える唇をなぞるのを見て、亮は股間が熱くなるのを感じた。そして、同時にそれを狂おしく憎んだ。どうして!自分が興奮しているのを、亮は認めたくなかった…どうして!


「亮、僕はね…」

 

 ずっと、男の人が好きだったんだ。

 

 吹雪がゆっくりと口を動かす。さっき触れたばかりの唇から吹雪のことばが漏れだす…でも、誰にも言えなかった。皆をがっかりさせたくなくて…。そう言った吹雪の眉が、切なげに八の字に寄る。

 

「…でも、亮、君なら…君は、僕に触れてくれたから…君なら…」
「やめろ!」

 

 亮は叫んで、耳を塞ぐ。耳を塞いでも、吹雪の声は亮の耳の内側に張り付いて剥がれない。吹雪の声が、亮を呼ぶ声が、亮の中で…鐘のように鳴っている。

 

「俺はっ…そんなつもりで、お前に触れたんじゃない…っ」

 

 ずる、ずると、亮は後ずさる。…裏切られたような心地だった。亮と吹雪は友の筈だった。最も信頼できる友の筈だった。それが、吹雪の告白によって裏切られた気がした。…この、、亮が友だと思っていた男は、今までどんな目で亮を見てきたのだろう。

 

「お前は、俺を裏切った…」
「裏切ってなんかいない!君は僕の…最良の、友だ」
「どの口でそれを言う!昨日の夜、お前は誰を呼んでいた?自慰をしながら…誰を呼んでいた!」

 

 吹雪はハッとして、口を覆う。濡れた唇が、見えなくなる。吹雪の頬に朱が指し…吹雪は亮が自分の自慰を知っていたのを知り、亮は吹雪が本当に、亮を欲望の対象として見ていたことを知る。亮は、拳をぐっと握っていた。強い意志でそれを留めておかなければ、うろたえる吹雪にそれを叩きつけてしまいそうだった。

 

「違うんだ、亮、違う…」
「何が、違うんだ」
「違う、僕は…本当に、君に告げるつもりはなかった…でも…」
「黙れっ!!」

 

 亮は叫ぶ。

 

「亮…!」

 

 亮は踵を返した。もう、こんな男に話すことは何もない…吹雪は亮を呼びながらも、引き留めようとはしなかった。がたんっと吹雪が崩れおる音が聞こえたが、亮の興味を引くことはなかった。

 

 

 

 亮と、天上院吹雪は友だった筈だった。
 互いを信頼し、高め合う最良の友だった筈だった。

 

 …あの時、吹雪の声を聞いたのがいけなかったのだろうか。
 あの時、吹雪に触れたのがいけなかったのだろうか。

 

 

 

 


 その日から、亮の学生生活は一変した。
 一人で食事を取り、一人で登校した。一人で授業を受け、一人で寮に戻った。望まれれば取り巻きを友とすることもあったが、結局は亮は一人だった。そんな時、亮は如何にデュエル・アカデミアに来てからの自分が吹雪を通して周りと関わって来たかを思い知らされた。だが、それを悔いるでもなかった。客観的な事実としてそれを認識し、受け止めただけだった。

 

 亮がそれを目撃したのは…そんな生活が1ヶ月も続いたころのことだ。

 

 レポートのために資料室に籠っていた亮は、寮での食事の時間に合わせてそこを出た。既に大半の生徒たちが下校を終えており、すれ違うものもない廊下を亮は歩いていく。
 亮が足を止めたのは、教室のすぐ横に備え付けられた準備室の前だった。ほんの少し開けられたドアの向こうから…漏れ聞こえる吹雪の声を聞いたのだ。

 

「う…ふぅっ、うっ…」

 

 聞き違える筈がなかった。吹雪の声だった。吹雪の、くぐもった泣き声だった。泣いているのか、と頭のどこかで思った瞬間、「声出すんじゃねぇよ!」という知らない男子生徒の声と、拳が肉を打つ鈍い音が聞こえた。…吹雪の短い悲鳴も。
 23センチの隙間から、亮は中を覗き見た。四つん這いにされ、ズボンを下ろされた吹雪が、数人の男子生徒に囲まれている。吹雪の、普段外気に触れない胴は白く、押さえつけられた跡が目立って赤く滲む。声を出すな、と殴られた頬は痛々しく腫れ、合意の行為とは到底思えない。

 

「あの、天上院吹雪がホモだったなんてな」

 

 「マジ、キメェし」だとか、「突っ込まれるのが好きなんだろ。だったら、おとなしくしてろよ」だとか、吹雪を罵り、貶める言葉が投げかけられ、吹雪は屈辱と、そして恐怖に八の字に眉を寄せる。その頬には涙が伝っている。それを、亮は冷ややかな目で見ていた。吹雪を罵りながら、吹雪に欲情し、自分のものを猛らせる男たちを、人と違う性癖を持つからという理由で、強引にねじ伏せられ、望まぬ行為を強いられる吹雪を。…かつて友だった男を。

 

「カイザー…亮…?」

 

 ガラン、と音を立てて扉が開く。男子生徒たちが弾かれたように顔を上げ、亮を見、そして亮が何者であるかを理解し、震えた。


 亮が一歩歩めば、ひとりが立った。また一歩歩めば、またひとりが立った。「りょ、う?」と呆けた顔で吹雪が呼び、最後の一人が、吹雪に挿入していた男が、下を身に着けないままの無様な格好で仲間たちの後を追う。

 

「亮…」

 

 亮はきっと、苛立ちのような気持ちで吹雪を見ていた。亮と同じ真っ白な制服を中途半端に脱がされ、ズボンを下ろされ、尻穴を広げられた吹雪を。
 亮はこの男に裏切られた。友だと思っていた男は、亮を欲望の対象として見ていたのだから。癒し難い裏切りの傷は、吹雪から離れることで塞がっていった。だが、それは亮の思い違いだった。その傷は、今、悲鳴を上げたくなるくらいに痛んだ。亮を裏切り、傷つけた吹雪が傷つけられるさまを目の当たりにして…亮の心は、痛んでいた。
 何故俺が傷つかなければならない、と亮は胸の内で叫ぶ。俺を裏切ったのはこの男で、傷つくべきはこの男だ。そして、実際に傷ついたこの男を目にして…どうして、こんなにも亮は痛みを感じているのだ。

 

 

 

「…ごめん」

 

 

 

 亮は目を見開いた。力が抜け、その場に倒れ伏した吹雪が…涙を流して、亮に赦しを請うていた。何故謝る。亮は動揺した。償うべきは奴らであり、…彼を守れなかった亮であるべきだったのに。

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 吹雪が涙を流す。無理矢理に手折られ、踏みつけにされた吹雪が。手を差し伸べてやりもしない亮を見上げて。

 

 

 

「君を好きになって、ごめんね…」

 

 

 

 吹雪は泣いた。

 

 

 

 


 あの時、どうして吹雪を助け起こしてやれなかったのだろうか。
 あの時、どうして吹雪の涙を拭い、慰めてやれなかったのだろうか…。

 

 

 

 

 

 バラは咲いていただけだった。
 亮に触れられ、すこしだけ露を漏らした吹雪を、無理矢理に手折られ、踏みつけにされた吹雪を受け止めてやるだけの気持ちを、どうして持てなかったのだろう。
 咲いていただけのバラを開かせたのは亮であり、手折られたバラを掬い上げてやりもしなかったのも亮だった。
 あの時亮が抱いていた気持ち。裏切られた苦しみ、痛み、苛立ち、悔しさ、そして、形容しがたいないまぜの想い。その全てが、吹雪に起因した。
 そして今も。

 

 バラはどこかへ姿を消し、吹雪は今なお戻らない。

 

バラは咲いていただけだった

11/09/18